ーいただいたいのちをどう生きる?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人。これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、『主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ』と言われるようになった。…以上が、その氏族、その国語ごとに、その地方、その国により示したハムの子孫である。…セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。アラムの子孫はウツ、フル、ゲテル、マシュ。アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生んだ。エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。…以上は、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに示したセムの子孫である。以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。」

創世記10章1-32節

 

神様は、私たち一人一人を愛し造られた。そして私たち一人一人に計画を持っている。でも、神様から頂いたこのいのちをどう生きるか、これが実に大事なのです。この神様に信頼して生きるか、従い歩むか、その与えられたものを喜び生きるか。あなたが神様をお迎えする所に神様の御心が溢れるのです。

 

さて、↑はかの有名なノアの洪水の後の記録です。神様がこれまで裁きの手を我慢されながら、民が立ち帰るのを待ち、見捨てず、その愛を現され続けていたのにもかかわらず、「あまりにひどく」と宣言されるほどに人類は堕落していった。それでついに洪水を降して人類を滅ぼす決断をされた。

 

ただ、神様はそれでも憐みを示され、箱船を造り、その中に入った者は生きるように。ノアの家族にそれを示された。ノアの家族はこれを信じ箱船に入った。他の民は?100年の猶予期間があった。洪水の宣言から洪水が来るまでの100年の間、他の聖書箇所に「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられた」とあるように、神様は待っておられたのです。いたずらに滅ぼそうとしたわけではない、それでも憐みの御手を伸ばされ、救いの機会を残していた、にもかかわらず彼らは拒否し、結局ノアの家族8人のみ(ノアとノアの妻、ノアの息子セム、ハム、ヤペテと、それぞれの奥さん)生き残るのでした。

 

で、↑はその3人の息子たちがどのように増え広がって行ったのか、その系図、家系図の記録になります。ちなみに、昨日の投稿にも載せましたが、ハムは父の罪をさらけ出したり嘲ったことによって、呪われた一族となって行くわけです。まあ、これもまた今日とも直結するのですが、せっかく洪水から救われ新しいいのちが始まる中で、神様を愛する生活よりも、人を蔑む歩みを選んだ、その結果と言えば結果なのですが。

 

それでこの事を見た神様はノアを通して、「『のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。』また言った。『ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。』」と預言されたのでした。

 

そんな彼らの子孫はどう生きたのだろう?ヤペテの子孫から、海沿いの国々が別れ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれの国々の国語がありました。このヤペテからは「メディヤ」から現在のスペインに及ぶ諸民族で、インド・ヨーロッパ陣として分類され、彼らはセムに与えられた主の祝福に預かり、やがてこの諸民族の中から多くのクリスチャンが生まれてきます。

 

メディヤといえば、バビロンの2代目の王、ベルシャツァルを殺し、結果、イスラエルを捕囚から解放する役割を持ち、さらにはイスラエルの復興を助け、ダニエルを通して神様をほめたたえるようになる、ということもありました。ちなみに4節のエリシャはギリシャの方に展開していきますが、このギリシャ神話には実はヤペテの名前が残っています。

 

ちょっとハムの子孫は飛ばして、セムの子孫。ここからアブラハムへと繋がっていき、主の選びの民、イスラエルが選ばれていきます。彼らは神様に従う事を選んだ、そして神様がどれだけ憐み深く、彼らを養い続けたのか、救われたのかを子孫子孫に語り続けた。だから、彼らの子孫からイスラエルの民の基となるアブラハムが誕生するのでした。そしてさらに神様の祝福が彼を通して広がって行く。

 

一方、飛ばしたハムの子孫ですが、クシュ、ミツライム、カナンに分かれていきます。クシュは預言書の中で裁きの対象になったり、特にニムロデは問題で、彼は↑を見ると、「主(神様)のおかげで、力ある」ものとなったにも関わらず、神様から与えられたたまものを正しいことに用いず、バベル、バビロニア、アッシリヤ、ニネベというように、神様に逆らい、自分の権力の拡大につとめました。

 

そしてミツライムはエジプトとその周辺の人々を指し、後にはアブラハム、イサク、さらにはヨセフといつもイスラエルに関係を持っていきます。しかし面白いことは、預言書の中で、このエジプトの回復が示されるのです。ここにもともとは1つであったことを思わされます。そしてカナン。前回もお話しましたとおり、ハムの性的な問題などを一番受け継ぎ、問題ある宗教を築いていき、最後はイスラエルによって征服されていきます。

 

こうして見るとわかる通り、結局のところは、神様から頂いた恵みにどう生きるか、という事。預言されてその中で神様に立ち帰り生きるか、その喜びの中で歩むか、それで大きな分かれ目と彼らの子孫はなって行きました。別に神様は差別するわけではないんです。神様はそれぞれに計画を持っている、ただ問題はそれを信じ期待し、委ねるか、そこにあるのです。だって、ハムには呪いの預言がされていたにもかかわらず、神様はニムロデに「主(神様)のおかげで、力ある」者としてくださったんですよ?神様は見捨ててなかった。それにもかかわらず、彼は祝福よりも呪いを選んだ。

 

神様は愛し私たちを造られた。そしてその愛ゆえに滅びることなく救いの道を、と箱船を通して救われた。私たちはこの罪の支配する世界から救い出すべく、罪・サタンの呪いから解き放つべく、私たちの罪の代価を御子イエス様に背負わせ十字架に架かられ、身代わりに罰せられ、死なれた。しかし復活されたことによって、私たちをその裁き・罪のどん底、死から私たちを引き上げられた、イエス様を救いの箱船、救い主として信じ受け入れる時、私たちもまたこのところから引き上げて下さり、ハムの子孫どころではない、神様の子として引き上げられたのです。

 

この新しくされたいのちを、このイエス様のいのちという代価をもって救い出された、そのいのちをあなたはなんだと思ってますか?神様のいのちがけの愛があなたの内に現され、そのいのちによって救い出されたその計画があなたの内にあるんですよ?その愛が、御心があなたの内に注がれているんですよ?そのいのちを、あなたはどう生きるだろうか?ハムのように元に戻るのか?それともこのいのちがけの愛に信頼し従うか?それは大きな分かれ目です。

 

聖書の中の、使徒の働き17章26ー27節には、「神は、一人の人からすべての国々を作り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになった。これは、神を、求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たち一人一人から遠く離れてはおられません」とあります。神様のいのちを、ご計画をいただくかどうか、それに生きるかどうかはあなたの決断。あなたにはあなたへの神様の計画が、御心が、愛があり、あなたを覆っている。あなたはこのいのちを受けた今、どう生きるだろうか。