ー白い衣で覆われるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。『のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。』また言った。『ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。』ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。」

創世記9章20-29節

 

神様は、あなたを救う事を恥とは思わない。罪人のために御子イエス様のいのちを犠牲にするなんて、馬鹿げている、と言われそうでも、それでもあなたを愛する事をいとわない。私たちはこの神様の愛に覆われた存在であることを忘れてはいけない。

 

さて、↑はノアの洪水の後の出来事。ノアの洪水というと神話のイメージがあるかもしれませんが、実際に起こった出来事で、実はその痕跡が世界各地に残っていたりします。まあ今日はそんな話を書きたいわけではないので興味がある方はわたしにDMくだされば。

 

話しは戻して、ノアの時代、世界はあまりに混沌年初め悪に満ちていた。他にも目も当てられない罪があった、それでもそれでも神様は彼らが悔い改めるのを待ちましたが、それでも悔い改めず、ひたすらに悪に向かって行った結果、神様は大洪水をおこされ、世界はノアとその家族合わせて8人を除いて滅び去った。あ、別に神様は最初から滅ぼしつくすつもりだったわけではなく、実は洪水をおこすと決めてから100年もの猶予があった。ノアもその救いの機会を彼らに語り続けた、でもそんなの関係ねえ、と言わんばかりに拒否した、その結果だったのです。

 

さて、その洪水が終わり、ノア一族の新しい生活が始まりました。神様が「産めよ、増えよ、地に群がり、地に満ちよ」と命じられた通りこれから一族は世界中に広がっていきます。そんな中で、ノアは葡萄畑を作り始めました。そんなある日彼はある日ワインを飲んで酔い、天幕の中で丸裸になってしまうのでした。

 

↑を見るとノアがさも大失敗をしたように見えますが、確かに彼は恥ずべき姿をさらしたかもしれませんが、しかし考えてみてください。洪水が引いて、泥まみれになった大地から、流木や岩や石を取り除いて元通りの土が見えてくるまで、ノアと息子たちはどれだけの苦労をしたことでしょう。洪水が終わった、その翌日に酔っ払ったのではありません。何年も何年もたって、ようやく手にしたワインです。やっと神さまとの約束を果たした。ワインを初めて口にしたノアの喜びはどんなものだったでしょう。その彼に、だらしなく醜態をさらしたとしても、大目に見てやろう、神さまもそう思われたのではないでしょうか。「ノアよ、長いあいだ文句の一つも言わずよくがんばってくれた。今夜はわたしがおまえをねぎらい、慰めてやろう」とおっしゃったのかもしれません。

 

ちなみに、聖書では葡萄酒は神様の祝福、恵み、喜び、力を表すものです(詩篇104:15など)。そういう意味では、神様の祝福、恵みを受けて歩み出すことを許されたしるしとしての神様からのこの収穫だったのです。私たちにも神様と共に歩むと決断する時に、同様に神様の祝福、恵み、喜び、力が与えられるのです。

 

しかし、このノアの醜態を見た息子たちは2つの反応を示しました。ハムは、父の裸を「じっと見て満足した」というのです(↑の本当の意味はこういう意味)。これは2つの意味で彼を満足させました。一つは高い道徳心を備えた人格と権威あるノアという父にも、人間的な弱さがあると言うことを自らの目で確かめ、喜び、ノアの罪、失敗、恥を兄弟たちに晒したという側面と、みだらな姦淫的思いがあり、その性的な罪の中に兄弟たちを誘いこもうとしたのです。

 

一方で、その話を聞いたセムとヤペテは自分の着物を取って、自分たち二人の肩にかけ、後ろ向きに歩いて、父の裸を覆いました。彼らは徹底的に父の恥を見ないように、辱め、傷つけないように、性的な罪を犯さないように徹底しました。彼らは、自分たちの父を愛するゆえに、恥をさらしたくなかった。自分たちが恥ずかしいわけではなく、父が恥ずかしい思いをすることを、惨めなままでいることを良しとできなかった。だからこそ、彼らは父の恥を、罪を、覆い隠したのです。

 

これを知ったノアは、ハムには呪いの預言、セムとヤペテには祝福の預言をしました。逆切れしたわけではないですよ?彼らの性質を見て、彼らの未来を案じた、というわけです。というよりも、まさに真の愛が私たちを覆う時にこそ、私たちは本当の祝福を受ける、そのことを預言の中で示したのです。

 

私たちが本来あるべき姿はセムとヤペテが覆った以上に、キリストイエス様の愛が私たちを覆う時、↑の預言でセムの天幕の中にヤペテが、また本来呪われる者であったはずのハムまでもが覆われて行ったように、私たちもまた、その天幕、神様の住まうところに招かれる、神様の愛が、祝福が、いのちが私たちを覆い、養われ、いのちある者としてくださるのです。ワインが聖書では「神様の祝福、恵み、喜び、力」という意味があると、↑で書きましたが、真のワイン、イエス様の血潮によって、私たちは喜び溢れる者、罪ある者として罵られ、捨てられるはずのものが、神様の愛によって喜び溢れる者へと変えられるのです。

 

神様は、ご自分の作品である私たちが罪に染まって行く様子を、どのように見ていたのだろう。ざまあみろ、勝手に私を捨てたんだから、もうどうなろうがわたしの知った事ではない、とでも思い、高らかに罵り笑ったのか?本当に惨めだね~とでも言っただろうか。いえ、されなかった。ハムのように私たちを嘲笑するのではなかった。私たちの罪を嘲笑するのはサタンだ。

 

しかし、そのまま恥じるべき存在として滅びゆく事を神様は良しとはしなかった。嘲笑するどころか、涙を流されながら、あなたの恥を覆うため、あなたの罪人の奴隷という汚れた衣を、イエス様のいのちの衣、義の衣によって覆われた。私たちの罪を、御子イエス様に身代りに背負わせ、その罪の奴隷、死刑囚の服を御子イエス様に着せ、身代わりに罰せられ、死なせることによって、また復活させられたことによって、私たちの罪を赦し、罪の奴隷・死刑囚の服を脱がせ、神様の子として受け入れ、その義の衣をあなたに着せてくださったのです。覆ってくださったのです。

 

あなたをその天幕、神様の家族に招かれた、その裾野を広げ、ハムという名のあなたをもまた、その家族に引き入れてくださったのです。あなたを、神様の真の「神様の祝福、恵み、喜び、力」で覆うために。イエス様ご自身があなたの内に住まわれ、あなたの内にその栄光を現されるのです。洪水の後350年生きたノアのように、死して後天の御国に行くその日まで神様はあなたを導かれる。家、死して後天の御国においては真の天幕、天国であなたを迎え入れて下さる。

 

神様は、あなたを救う事を恥とは思わない。罪人のために御子イエス様のいのちを犠牲にするなんて、馬鹿げている、と言われそうでも、それでもあなたを愛する事をいとわない。そのために、自分の衣、神様であられるのにそれを捨てられないとは考えず、その神の御子としての衣を脱ぎ捨て、人間となられ、死刑囚の服を着てでもあなたを救うためにいのちを投げ出された。

 

その神様の愛に、あなたは今日どう応えるだろうか?この義の衣を着せられたものとして、この愛を受けた者として、私たちはこの愛を現すものであろう。その裾野を広げ、神様の愛をもって世に仕え、またこの方に信頼し歩もう。そこから神様の祝福は、いのちは広がって行く。ノアの一族が増え広がって行ったように、神様のいのちが溢れ広がって行ったときに何が起こるか、楽しみではないですか。イエス様のいのちがけの愛によって広がるこの祝福が。私たちはこの義の、白い衣を今日いただき、歩もうではありませんか。