ーあなたの労苦は無駄ではないー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

Ⅰコリント人への手紙15章51‐58節

 

私たちはイエス様に繋がっているからこそ、その労苦は報われる、というよりもイエス様がそれを良きものに変えて下さる。私たちにとって大事なのは、このイエス様に繋がっている事、そのことなしには私たちは本当にあるべき者と離れない。神様の計画する素晴らしいあなたに。

 

さて、↑はパウロという伝道者、初代教会の時代の働き人の一人、パウロという人がコリントという場所にある教会に書き送った手紙の一部です。まあ彼らは本当にいろんな問題を抱えていたのですが。彼らに神様の愛をもう一度↑のように語るのです。私たちが朽ちる者から、朽ちない者、いのちあるもの、神様の子となること、罪の奴隷から解放される事、それこそが何よりの神様の願いである、と。

 

↑の話がちょっと難しいかもしれないけど、私たちは神様から離れて、罪の中に、サタンの支配下にいる。罪とかサタンというとぴんと来ないかもしれませんが、神様が造られた完璧な世界、愛の中から離れてしまった故に、私たちはその神様の守りから離れてしまい、様々な労苦、苦労、哀しみ、痛みにいる。それは世の中を見回してみればよく分かるでしょう。神様以外に、喜びを見出そうと捜しまわったアダムたちのように、私たちは捜しまわるも、一体私たちをそれらは自由にし、喜び、平安、いのちを与えるだろうか。しかしそれはかえって私たちを支配する。

 

私たちはどれだけ労苦しているだろう。本来神様の養いの中、導きの中、その愛に満たされ生きるはずだったのに、それを拒否し離れて。でも、神様は私たちを見捨てる事などできないのです。そんな罪に、世の哀しみに縛り付けられているあなたを見捨てる事などできない。神様と断絶され、墓の中に、暗闇の中に閉じ込められ続けているあなたを見捨てる事などできなかった。だって、あなたは、知ってます?神様によって造られた、偶然できたわけではない、大切な神様の作品、子どもなんですよ?そんな子をどうして見捨てる親がいますか?ましてや神様です。

 

だから、神様は私たちを解放する事を選ばれた。身代りに御子イエス様を十字架上で罰せられる事で。本来神様の愛から離れ、朽ち果てて行く私たちを朽ちない者へと造りかえる、神様の愛によって、御心によって生かされる者とするべく、御子イエス様を十字架に架けられ、身代わりに罰せられ、死なせたのです。私たちを見捨てるよりも御子イエス様を見捨てられたのです、十字架上で。我が子を十字架に架けても罵り続ける愚かな民を、神様の愛を知っていながらなお神様をののしり続ける私たちを見て、もうやってられるか、と私たちを見捨てるのではなく、最後まで十字架上から降ろさず罰せられたのです。完全に死に渡されたのです。

 

信じられますか?私たちが受けるべきその罰をその身に受ける事で、この世に、罪の中に沈む、いのちなき者の中に生きる私たちを引き上げるべく、その墓場、いや陰府にまで下って行かれ、私たちを引き上げに来られたのです。復活と共に私たちもまた、その復活の恵みに与らせてくださったのです。罪の、罪人の服は脱がされ、神様の子としての服を着せていただけるのです。もし、あなたがイエス様のこの愛を受け入れるなら、自分の罪を悔い改め、神様の元に立ち返るなら、あなたはこの恵みに与る。

 

最後は、↑で約束されているように、滅びる事のない、永遠のいのち、引き上げられ、永遠の神様と御国で住まう事が赦されるのです。永遠の裁きではない、永遠の神様とのすばらしい愛の交わりの中に引き上げられるのです。死んで終わりではない、天の御国へと。そこには涙も悲しみもない、神様の永遠の喜びの統治が溢れるのです。そしてその前味を、私たちもまたイエス様を救い主として受け入れる時、罪人・死刑囚の服を脱がされ、神様の子としての服を着せられたとき、その歩みの中で味わわせていただけるのです。あなたの内に復活のイエス様が住まわれ、あなたの内にその愛を、あなたのためにいのちさえ投げ出す事の出来る方の愛があなたの内にあふれ、その御心を現し、導かれるのです。そのイエス様があなたを生かし、あなたを世の終わりまで共におられ導かれるのです。

 

この十字架にあって、この十字架と復活にあって、私たちは世にあって圧倒的な勝利者とされる。私たちが出はない、イエス様があなたの内に働かれる時、そこにはあなたを打ち倒すことができる者はいない。このイエス様の御心があなたを覆うのだから。このイエス様に繋がっているからこそ、私たちは労苦は無駄ではなくなるのです。イエス様が無駄ではない、価値あるいのちをもってあなたを覆い、罪もサタンも打ち砕き、良き者へと造り変えて下さるから。

 

今日、私たちは誰に繋がっているだろう?いや、繋がり続けているだろうか?あなたに神様の御手は今日も伸ばされている。が、この手を、いのちを私たちは日々選び取らなければいけない。常に選択だ。主はあなたを愛される事を選択された。あなたは主の前にどう応答するだろう?

 

「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」