ー救い主があなたの味方となる時ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』しかし、イエスは言われた。『やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。』」

マルコによる福音書938-40

 

神様が私たちの味方なら…そんな事を想像した事はないだろうか?聖書の他の書巻の中に、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」とも書かれているのですが、神様が私たちの見方であることほど心強いことはない。自分より力のある人が仲間であれば、スポーツであろうとなんであろうと心強い。ならなおさら神様が味方ならこれ以上の恵みはないのではないか?

 

ある時、イエス様のお名前によって祈って悪霊を追い出している人を見かけたイエス様の弟子の1人のヨハネがそれをたしなめ、イエス様に報告しました。その時イエス様が、強烈な人ことを言いました。「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」

 

おそらく神様の子とを知らない人や人間が同じようなことを言ったら、おそらく何と傲慢な!などと思うでしょう。わたしに反対しない者は味方。何やらいつぞやかの総理が抵抗勢力がどうたらこうたら、なんて言っていたのを思い出しますが。

 

まあそんなどうでもいいことは置いておいて、私たちは残念ながらイエス様を味方に「自力で」することはできません。なぜなら私たちはみな神様に逆らい、自分で主権を取り、神となりたいからです。自分の思う通に自分の思う時に応える神を求め(そんな操り人形を神様、とは言わないでしょ)、応えなければ神と認めず…そうして神様から私たちは離れていく。もうもはや神様の前に私たちは敵対者であった。

 

でも、神様はそんな私たちを見捨てられなかった。敵対者である私たちのために、ご自分の御子イエス様を使わされ、私たちが神様に反対する者であった、その罪を背負われ、十字架に架かられ、身代わりに罰せられたのです。そうして、神様と私たちを和解させてくださったのです。私たちがこの救いを受け入れるとき。その時、イエス様の十字架の血潮によって和解がなされた時、私たちは初めてイエス様の味方に「していただける」のです。ただ一方的な愛、恵みによって。本来そんなものを受けるに値しないのにもかかわらず、あなたの味方となるために、ご自分のいのちさえ惜しまず与えてくださった、そうして和解された私たちは神様の子とされ、受け入れられるのです。

 

その時、起こることは計り知れません。上のケースではイエス様の御名ゆえに悪霊は何もすることはできなくなる。そう、イエス様を信じ委ねる故に、そのあなたを通して神様の御心が、御業がなされるのです。

 

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」イエス様ゆえに私たちは神様の味方にしていただいた。招かれた。そのイエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださったゆえに、それほどまでに愛される神様があなたにどうしてすべての物を恵まれないはずがありましょう?ただただ私たちは神様の味方にしていただいたことを感謝しつつ、期待し祈ろう。神様の愛が、御心が完全にあなたの上に成される事を。

 

「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」イエス様に反対しない、すなわち、悔い改め、イエス様を救い主として受け入れること。その時、その瞬間、あなたは神様の味方、神様の子として招かれる。今日主の前に悔い改め、また立ち返ろう。神様はあなたを今日も待っておられる。