ーどうしても必要な事ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」

ルカによる福音書1038-42

 

私たちは周りの事に一生懸命になってどうしても大事な事を忘れてしまう。あれできないこれできない、どうしようどうしよう、と不安になって走り回る。でも、本当に大事なのは、イエス様のおひざ元に座って安心をいただく、そこから始まる。

 

神の御子たるイエス様が人となって来られ、神様の愛を余すことなく注がれるためにあっちこっち旅して回っていたある日、マルタとマリヤ、ここには登場しませんがそれにラザロ、この3人の住む家に来られました。イエス様はよくこの家を訪問していました。その内の一人のラザロは一度死んでしまいますが、イエス様によって生き返らせていただいた事もありました。

 

そんな時、お姉さんのマルタは、イエス様をもてなさなければ、と食事の準備等をもってイエス様をおもてなしいようとかけずりまわっていました。ところが、ラザロは、まあ当時の文化的背景から家のことをしていないのは分かりますが、マリヤまで何もせずにイエス様の前でその御言葉を聴いている…それにお姉さんのマルタは我慢できず、なんで手伝わないの?と思い、イエス様に注意するようにお願いするのでした。

そこでイエス様がおっしゃったのは、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」。別にイエス様はマルタのしているおもてなしを否定しているわけではないんです。誰かしらそういう人がいないと、お客さんをもてなす事なんてできませんからね(^^ゞ私は個人的には、何も言われずともこうやって動けるマルタさんを尊敬します。

 

でも、マリヤ云々の前に、マルタは一つ大事なことを忘れていたのです。あれをしなきゃ、これをしなきゃ、で一生懸命になるのは別にいい。でも、そこにあくせくしていると、肝心なイエス様の養いを受けることを忘れてしまうのです。問題や、目の前の事象にばかり目が行って、その問題にいつか自分が縛られてしまう。せっかくイエス様が彼らのうちに来られて、何かをなされようとされているのに、それが見えなくなってしまうのです。

 

私たちはいつでもイエス様にフォーカスしましょう。あの問題この問題、明日はどうしよう、あれできないこれできない、そう心配する前に、イエス様の足元にひれ伏し、イエス様のお声に耳を傾けましょう。あなたの不安や問題から目を離し、イエス様にフォーカスしよう。パウロという、迫害を多く受けながら、また教会などで多くの問題を抱えながらも、彼はいつもそうしていた。そしてその手紙の中に「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」と書き残すのでした。イエス様は、あなたのすぐそばにおられ、あなたに語り、養い、平安を与える。

 

イエス様はマルタたちのところに来られたように、あなたのところにも来られ、あなたに真の平安、罪の赦しと永遠のいのちを与えるため、神様の子として招くために来られた。そしてそのためにご自身のいのちさえ惜しまず死に渡してまで、あなたに命をもたらされたのです。そうして神様は本来私たちがあるべき姿に、罪で汚れ傷ついたあなたを本来の姿に変えて下さるのです。ここにこそいのちがあるのです。私たちは日々、このイエス様の足元にひれ伏し、その御声に聞き、またイエス様と語り合おう。この愛に、このイエス様の十字架にフォーカスしよう。主はあなたの声を聴かれ、またあなたに命の道を、御心を、また平安を、喜びを、あなたの必要を知っておられる方があなたに最善を与えてくださるから。あれやこれやに目をとらわれる必要はもうない。もっと私に喜びを与えるもの、私を喜ばせる者はないか、と探す必要はない。あなたのためにいのちさえ惜しまず与えられるイエス様が、あなたと共におられ、導かれるから。