「しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。」
Ⅰコリント人への手紙12章18-21節
神様の目にはあなたは高価で尊い存在です。他の誰が何と言おうとそれは変わらない。あなたには神様の愛の目が向けられている。あなたはそのことを知っていますか?
さて、上のことばは、主に教会の話で、必要のない人はいない、一人ひとりの働きによって教会が建て上げられていく~というのが主だった視点なのですが、今日この箇所を読み返したとき、はっとさせられた。それは、このからだ、というのはイエス様ご自身を現していて、私たち一人一人がキリストの器官(上のことばに従うなら、目とか耳とかからだの部分)というのですが、イエス様が、私たちを切り捨てなかった、いらないと言って見捨てなかった、ということ。
あなたはすぐに神様に不平不満を言う、だから私はあなたをもう救わない、見捨てよう、いらない、とは言わなかった。目よ、お前はいらない、まことよ、お前など不要だ、とはいわなかった。人は、まあ会社もそうでしょうがその人の、会社の役に立つかどうかで評価する。でも神様は違ったのです。本来今の人間や会社の視点だけで見るなら、神様からしたらこんなすぐに離れていく私たちを子だ、愛する、なんていうことなど恥もいいところでしょう。でもそんなことは思わなかった。汚れた、罪人、神様を裏切る、そんなあなたをいらない、と切り捨てなかったのです。
あのイエス様が人となって来られた時、人々はイエス様からたくさんの愛をいただいた。癒し、満腹、教え、生きるべき道を示されていった。でも自分たちの都合が満たされればもう言いや、とイエス様を切り捨て、裏切った。事もあろうに主たるイエス様を、私たち人間が切り捨て十字架に架けるという事をしてしまったのです。神の御子たるイエス様はそんな事をされたら、普通だったら、それなら救い主や~めた、お前ら裏切り者何てもう知らん、滅びればいい、と言って天にそのまま昇って行かれなかった。側近の弟子の1人ペテロが呪いをかけて否定しようとも、彼に滅びの宣言をしなかった。むしろ彼ら全員ひっくるめて、神様、彼らを見捨てないでください、彼らをお赦しください、彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです、と赦しを懇願し、神様から完全に切り捨てられることがないよう、私たちの罪を身代りに背負われ、代わりに神様から切り離された。でも、そこで終わらずに、その罰を良しとした神様は、私たちとの関係をその御子イエス様の十字架の死からよみがえらせることによって、私たちとの関係ももう一度その家族に引き戻されたのです。
これぞ神様のあなたへの愛なのです。願わくばあなたが滅びゆく事、断絶される事、真のいのち、イエス様のおからだ、神様の養いの中から引き離され死にゆく事が我慢できず、私たちが救われるためのその道を示されたのです。わたしに帰れ、と。
ぶどうの実は、その枝に、枝が木に繋がっていなければ実を結べませんし、地面に落ちて死にゆくだけです。同様に私たちはこのイエス様に繋がることによって、本当の意味で神様のいのち、養いの中、生きることができるのです。そのためにイエス様が十字架に架かられ、私たちをそのおからだに、家族(一般的にはこの体は教会を指しますが、神様の家族と言っても広い意味では問題はないでしょう)の中に組み込まれたのです。
そこまでしてでもあなたを愛する決断をした。あなたがいらない存在、養う必要がないと判断するなら、あなたのために御子イエス様を十字架になんてかけやしない。また、ロボットや機械のように造りだされた大量生産の器官でもない、あなたという一人の人を一人の子として見てあなたにとっての最善の計画をも用意しておられるのです。
今日私たちはそれほどに愛される神様の元に帰ろう。神様は「あなた」を高価で尊いとおっしゃり、愛している、とおっしゃる。いらない、ではなく、あなたが必要な存在として、愛する存在として神様の家族の中に引き入れられたのだから、この方にただただ信頼しよう。主はあなたを愛しておられるから。