「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」
創世記1章1-5節
私たちは神様に不可能なことはない、ということをどうもどこかで抜けてしまう。これはできるだろう、でもこれはできないよね、と考える。そしてそれを叶えてくれる別な神を探しに行ったり、思想を求める。これ人の弱いところで、こんな事を書いている私自身もたまに陥る罠。
そんな中、ふとこの御言葉を思い出した。そうだ、神様は何もないところから天地万物すべてを造られたんだ。暗闇、茫漠としていて何もない、闇の中から神様が命じると光を現させたのだ。しかも一日で。でもここでも人は疑問に思う。そんなことは科学的に不可能だ、一日?ありえないでしょ、と。これは何千年とかそういう長い期間のことなんだ、と。
まあ、その辺をどう解釈しようと別に私は何も言わないですが、でも、科学という目であり得る、ありえない、人間の目でできるかできないかを考えて、だからこの神様の言いたいことは別なことだ、と神様の言葉を疑ったり、それは昔の話と片付けてしまうことが実は一番怖い。私たちは神様を人間の目で、測りで測ることはできない。でも、化学は所詮は人が見つけ出した法則であり、未だに全てを解明できていないのに人の目で神様を押し込める、神様の力量を測ること自体が無理があるというか。まあ、本当に有能な科学者や医者などは「神様」とは呼びませんが、何か特別な創造者なる方がいる(まあそれが神様なんですけど)ということを知っているんです。
と、ちょっと科学とかの話が多くなってしまった、まあ私自身が理系なのでどうしても(^^ゞ神様が天地万物を造られ今もすべ治めておられます。あなたも神様が同様に精魂込めて造られました。そしてそれを見て神様は「良し」と言ってくださったのです。それゆえに、神様は私たち一人ひとりを造り主として私たちを愛し、養おうといつもその御目を注がれています。天地万物ができた時、その造られた者を見ていたように、今も。ただ、私たちが神様にそんなことができるはずがない、と疑い、神様から離れ、罪の中に、闇の中に、神様以外の力も息もないものに求めているだけで神様はその御目を注がれているのです。
その神様を私たちは疑う必要はない。この天地万物すべてを見た時、どうして神様に不可能なことがあると言えるだろう?何もないところから、真っ暗闇の中から光を現され、輝かせた神様が、どうしてあなたのうちにある戦い、暗闇、問題に光を灯し、いのちへと導けないはずがあるでしょう?
いや、それ以上に、私たちが罪の奴隷、神様から断絶し、滅びゆくしかない、神様の恵など、愛など受けるに値しない私たちを、神様は見捨てなかった。永遠の断絶、神様は罪の満ち溢れた人間のところに行くなど考えられない。でも神様は一つの決断をされた。御子イエス様を神様であられるのに人として生まれさせ、また生きさせその間に住まわせ、ご自身の愛を現し、具体的に現し、私たちの罪の闇の中、罪の奴隷から解放し、光、救いへ、神様の家族へと引き戻すために、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に架け、死なせる決断をされ、実行された。神様の御子を。あり得ない話。でもそのあり得ない愛を神様は私たちのために実行に移されるのです。いや、もっとあり得ない話。罪の身代わりに罰したはずの御子イエス様の罰を良しとされた神様はイエス様をよみがえらせ、私たちもイエス様の十字架の前に悔い改めるなら、私たちもその死の奴隷から救い出し、永遠のいのちへ、神様の家族へと引き戻してくださったのです。
罪の刑罰としての死を打ち破った。人間が抱える最も大きな問題、裁きと死、これさえも打ち砕かれた。そこまでしてでもあなたの罪を身代りに引き受けてくださったのに、どうしてそこまでして取り戻したあなたに神様ができないことがあるでしょう?今自分の思うベストになくとも、暗闇に光を照らされる神様があなたが思う、あなたができる、世ができること以上のことをあなたのうちに、その御心を現さないはずがあるでしょうか?
今日、私たちは世の光なるイエス様の元に帰ろう。そのイエス様の内を歩もう。ここにいのちがある。ここに愛がある。この十字架の愛を仰ぎ見るとき、私たちは神様に不可能はない事を知るのではないか?私たちはいつもこの救いの原点に帰ろう。神様はあなたを罪の奴隷から、闇の中、死の墓の中から救い出したいとこうも待っておられ、なおあなたのうちに共に住まわれながら、あなたの内を家が開かせてくださるから。