ー負債を支払われたイエス様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。…もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。この手紙は私パウロの自筆です。私がそれを支払います」

ピレモンへの手紙10-19

 

神様は私たち一人一人のことを覚えておられる。神様はご自分のお心をあなたのうちに現したい…

 

昔、ピレモンと言うお金持ちのキリスト教徒がいました。家族で教会を開いていました。ところがそこに仕えているオネシモという奴隷が、主人の家の財産か何かを盗み、逃亡しました。彼はそこから約2000㎞の道のりを進み、当時の世界の中心の都市であるローマに逃げ込みました。なんと、そこでパウロというクリスチャン、使徒に出会い、神様の憐みとパウロの導きにより、彼は奴隷として生きるしかなかったような暗闇の世界から、神様の光のうちに招かれ、神様の子とされたのでした。

 

ただ、一方で彼は盗人であり、逃亡者でもありましたから、彼はまだ主人から赦しを受けていないし、それを引きずることになれば、彼の本来あるべき姿にはなりえない。しかも、当時の奴隷が主人の家の物を盗んだり逃亡を勝手にすれば死刑。どうか彼を赦してやってはくれないだろうか?とそこでパウロさんはピレモンさんに懇願の手紙を出したのでした。

 

でも、どうしても赦せないというなら私が彼の負債を負う、彼はわたしの心そのものだから、と。それ程に大切な存在である、と。当時はいて捨てるほど多くいた奴隷、価値のないような彼にその愛を注いだのです。

 

でも、その意味する負債はお金の問題ではないのです。盗んだものを返せばいいとかそういうレベルの話ではない、オネシモは「いのち」をもって支払わなければいけないのです、当時。そう、パウロが自分が代わりに負債を追うという事は、どうしても赦せないなら彼が身代わりにいのちを差し出す、わたしのいのちを取ってくれ、と訴えたのです。

 

気づくでしょうか?これと同じことをイエス様がされた事を。イエス様は、本来私たちが神様に損害を与えた罪の奴隷であった私たちを、彼らは、あなたはわたしの心なんだ。だから父なる神様、どうしても彼らを滅ぼすというなら、わたしにその請求書を回してほしい、と懇願し、赦しを乞うたのです。そして私たちが支払わなければならなかったそのいのちの代価、罪の罰を身代りに引き受けられたのでした。イエス様にとっては、私たちはイエス様のお心そのもの。私たちが滅びゆく事、神様との命が失われ、本来神様のうちにあるあるべき姿を失っていくのを我慢できなかったのです。

 

神様は2000㎞も離れたオネシモにパウロを引き合わせた。神様の愛に、偶然や、図らずも、たまたまはありません。神様にとってオネシモは神様の心そのもの。だから見捨てることができない。そのオネシモにパウロを通して、イエス様のその愛を具体的に見せ、神様のうちにある真の救いに招きたかったのです。オネシモよ、あなたは掃いて捨てるほどいる奴隷という道具のように生きてきた、罪の奴隷として縛られ、いのちを失っていた。でもあなたはわたしの心だから、あなたのためにその支払うべき代価を御子イエスに負わせる、と。その愛を示されたのです。あなたは神様の心そのもの。あなたのうちにわたしの心が注がれるのだから、愛が注がれる、注ぎたい、だからピレモン、そして何より父なる神様の元に帰ってほしい、と。罪の奴隷から自由の身となり、神様の子として迎えたい、と。その後彼はなんでも本当に自由の身となり、神様にある命ある生涯を、この福音を握りしめ歩み続けたそうです。

 

私たちを本当の意味で造り変える、生きた者とすることができるのは神様だけです。そうするために、パウロとオネシモを出会わせた神様は、あなたと御子イエス様を出会わせ、あなたをイエス様の心である、と語り、あなたのためにその罪の報酬、死という請求書を引き受けられたのでした。そこまでするほどに神様のお心はあなたに注がれている。そのことを今日ぜひ覚えていよう。あなたは御子イエス様のいのちをもってまで取り戻された者、そのあなたのうちに神様のお心が今日も注がれているという事を。この神様に今日もより頼み、歩もうではありませんか。そして神様のお心そのものである私たちは神様のお心を自分の心とし、歩んでいきたいものです。