「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、『私が悲しみのうちにこの子を産んだから』と言って、彼にヤベツという名をつけた。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。』そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」
Ⅰ歴代誌4章9-10節
私たちは様々な願い、祈りをする。これは神様を信じていようといなかろうと、対象はともかく人間だれしもが祈る。でも、よく考えてみたら、祈る相手がいなければ祈りは応えられない。神社に行こうと、仏壇の前で祈ろうと、そこには神様はいないから、そこにいると思っている何者かはあなたの祈りには答えることができない。しかし、真の神様は私たちの祈りを、叫びを聴いておられる、この事を忘れないでいたい。
上の話は、捕囚から帰って来たイスラエルの民をエズラさんと言う人、まあ学者さんでもあるのですが、その人が神様がどういう方のか、どのように彼らを愛しているのか、働かれてきたのかをもう一度思い起こさせるために書かれた、歴代誌という者の中に書き記されたものです。この4章の中には、イスラエルの全盛期を支えたダビデ王(ダビデ像も有名ですね(^^ゞ)の家系図になっているのですが、そんな中でひょっこり現れる、書き記されたのがヤベツさんと言う人の記録。エズラさんと言う人は、捕囚に会い、かつて栄華を極めたイスラエルの姿を見失い、何もない状態になった中で絶望下にいる民に、またこの地上を真の神を、真の喜び、愛を、何より救いを捜し求め彷徨う私たちに向けて語られたのです。
彼の名前は聖書の中には他には見当たらない。ただ祈りに応えられた、と言うだけの話。まあチャック・スミス氏などが取り上げ、一時期日本でも有名になった祈りでもあるのですが。
このヤベツさんと言う人は、お母さんが何かしらの苦しみに合った、出産の苦労なのか?その理由は定かではありませんが、お母さんは「苦しみの子」と言う意味のヤベツ、と彼に名前を付けたのでした。いやいや、そんな名前を付けられたらたまったものではない。周りの人たちにどんなふうに扱われてたんでしょうね。子ども同士で遊んでいて、「や~い、苦しみの子~!」なんて言われたらたまったものではないでしょう。
彼の生涯について↑の箇所意外にはどこにも記されていないのでどんな生活をしていたのかは定かではありませんが、その彼はお母さんに苦しみにあわせ、私をそれによってさらに苦しめる神など神ではない!そうは思わなかった。「神様に呼ばわった」、むしろ自分の思う時に応えない神などいらない!ではなくむしろ神様を求めたのでした。そして、神様はその彼の祈りに応えられたのでした。そう、神様は神様に忘れられていたのではない、覚えられていたのです。ちゃんと。別に神様が彼を苦しみにあわせていたわけではないのです。そのことを彼は知っていた。そしてこの神様こそ彼の人生を造り変える、救うことのできる唯一の方であることを。だから、「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように」と祈ったのです。
この祈り、これは神様が彼のうちに住まわれ、悲しみに、苦しみに、何より神様から離れ、罪の中に閉じ込められ暗闇の中にいる狭くてどうしようもない彼の生涯を打ち砕き、神様のいのちが豊かにあふれる生涯に造り変えて下さい、それこそがこの祈りの、彼の本質的な願いだったのです。彼の財産も確かに聞かれ、増えたかもしれない。でも、神様が彼のうちに働かれたからこその物。その神様により頼み求めて行ったゆえに増えて行った。
私たちが覚えておきたいのは、誰かの祈りが聞かれたからその祈りを唱えれば何かある、ということではない。主の祈りも同じ。文字を呪文のように唱えれば聞かれる、そういうことではない、私たちが神様に、神様の御心を自分やその願いの対象のうちに現してほしい、そう信仰を持ってい乗り求めること、それこそが重要なのです。
神様はあなたのことを忘れているわけではない。神様はあなたの地境、罪に縛られ、自分が支配する狭い世界から、神様の愛が、御心がなる事によって広げたいのです。私たちを造り変えることができるのは、あなたを変えることができるのは、いのちある者に帰ることができるのは神様だけです。人の手で変えようと思っても、人のできる範囲、自分のできる範囲内ですし、それもすべてのことに対して有効ではない。
でも、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者 です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあるように、神様から離れ、罪によって支配され、汚れ、命を失った、あなたを神様は、新しい、神様の子として造り変えたいのです。
そのために神様は御子イエス様を私たちのうちに遣わし、ご自身の愛を具体的に注がれるにとどまらず、あなた自身を新しくするため、本来あるべきあなた、神様の子とするために、あなたのその罪を身代りに背負われ、その古い、死にゆくしかない私たちを葬り、イエス様がよみがえられたことによって、信じるあなたにも新しいいのちを与えてくださったのです。神様があなたと共に住まわれ、神様の御心が働く新しいあなたへ。本来あるべきあなたの姿へ。神様の子としてのその特権を受け。
神様はあなたのことを忘れているわけではない。あなたのことを覚えておられる。あなたが求めるのをいつでも待っておられる。一時的な回復や恵みではなく、いやそれも神様は与えることができるでしょうが、神様はもっと大いなることをしたい。あなたを、あなたの地境をイエス様の十字架によって広げたいのです。ご自身の御心、栄光をあなたを通して現されることで。
ヤベツのように私たちは様々な問題や壁に囲まれ、もううずもれてしまうように感じるかもしれない。でも神様はその隠れてしまったあなたを、あの隠れたアダムとエヴァを探しに来られた神様があなたを覚え、探しに来られた。そして御子イエス様のいのちと言う代価を支払ってでもあなたを買い戻し、地境を広げたい、とあなたに訴えているのです。もう死んだ中、罪の中にうずもれるのではない、あなたを覚えておられる、御子イエス様のいのちさえ惜しまず差し出す神様を「呼ばわれ」求めて行こうではありませんか。あなたを変えられるのは、あなたを愛し造られた神様だけ。祈りに難しい言葉や決まり文句なんていらない、ただこの神様を慕い求めて行こう。今日も明日も…