「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。」
アモス書9章11節
神様は、私たちの破れをつくろい、廃墟を立て直される神様。いのちのないところに神様のいのちを吹き込まれる神様。神様は人の目には廃墟となったようなところも癒し、またいのちある町・あなたに変えることができる方。
昔、イスラエルは飢饉を逃れエジプトに避難し、そこで先に遣わされていた一人のイスラエル人によって(総理大臣になり)エジプトをもその飢饉から救ったことがありました。そしてしばらくしてそのイスラエルの恩を知らない王朝が立ち、その地でイスラエルは奴隷と化していました。しかし神様は彼らの叫びを聴き、イスラエルを捕らえていたエジプトを討ち、イスラエルを救い出し、かつて神様が与えると言っていた地に連れ上られました。そしてやがて神様がその恵みを注がれる王国も築き上げられるのでした。
ところが、のど元過ぎれば熱さ忘れる。平和な時代が続くと、神様なんていなくても生きていけるよね、自分たちの好き勝手に生きよう、あんな神様よりもっと自分を喜ばせる神、まあ要するに自分の都合よく動く神を求めていたわけですが、を求め始め神様から離れて行ってしまいました。まあ、これ人の弱い所で、わたしも含め多くの人が陥ってしまう所なのですが…
すると神様の祝福は離れて行き、ついに王国分裂、そして捕囚へと向かって行くのでした。その間も神様は多くの救いの機会、ご愛を示しながら回復する機会はいくらでもあった。でも彼らは神様をそれでも忘れ、認めず、ついに北イスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロンに捕囚されていくのでした。そこに残される土地は廃墟となりました。あれだけ神様に愛され、異国の地にまでその名をとどろかせ、また絢爛豪華なソロモン神殿も、もはや廃墟と化したのでした。いや、物理的な話だけではない、そこに住んでいた人たちの心は廃墟のようになり、もう絶望しかなくなっていた、救いはどこにあるんだ!神様、なぜ私をこのような状況に置かれるのですか!と叫びたくなるほど。まあ歴史やこれまでの彼らの歩みを考えたら自業自得と言えば自業自得だったのです。
でも、神様は自業自得、後は勝手にすれば!?と彼らを見捨てることはなかったのでした。捕囚の地にあっても神様は彼らに愛を注ぎ、また彼らを助ける人を起こし、何より直接働きかけて彼らを捕囚の地から70年後に救い出し、連れ帰ったのでした。彼らの壊れた国、地、いのち、それらを神様は放置される事なく建て直されたのです。神様は愛する民が、私たちが廃墟であり続けることは我慢できなかったのです。だって彼らは、また私たちは神様が愛を込め、精魂込めて造られた愛するべき存在、大切な存在なのですから。
上のことばをアモスに語ったのは、一義的にはイスラエルの捕囚からの解放、イスラエルの復興、そしてもしかしたら後の今から約70年近く前のイスラエルの帰還も指していたかもしれませんが、そこではでも終わりません。神様の彼らへの愛は私たちにも向けられているのです。私たちが神様から離れ罪に汚れ、傷つき、神様のいのちが失われた廃墟となった人生、本当の喜びも愛も捜せども見いだせず苦しんでいた私たち。もはや私たちのその罪ゆえにもう滅び行くしかない私たち。その私たちを神様は放置できなかったのです。だから神様はご自分の御子イエス様を人として生まれさせることを選ばれた。神であるにもかかわらず。私たちがいつまでも帰らないので、いや帰れなくなってしまった私たちを探し出すために、その廃墟を立て直し、神様の栄光、いのち、ご愛で満たすため、来られたのでした。そうして彼らのうちにいのちが溢れて行った。そう、イエス様がお住まいになるところにいのちが溢れるのです。
だから、イエス様は私たちの罪を、神様から離れて行って廃墟としてしまったこの罪を身代りに背負い、十字架に架かられ、死なれた。そしてよみがえられたことによって、私たちの内を支配する罪を打ち破られたのです。そうして神様と失われてしまった関係が修復されたのです。
神様はご自分の御子のいのちを賭してでも、失われてしまったあなたを建てなおし、また癒したい。破れを繕い、本来あるべきあなたへと造り変えたい、取り戻したいのです。あなたを復興させたい、死して滅びるしかない、奪われてしまったいのちを神様の愛、いのちで溢れさせたかった。イエス様の十字架の愛はまさにそこにあるのです。もし、私たちが自分の廃墟となってしまったこの町、自分のうちにイエス様を救い主として迎え入れるとき、「その日・その時」イエス様は私たちのうちに住まわれ、あなたを新しく造り直し、癒し、建てなおされるのです。イエス様が住まうところにこそ命が溢れるのです。
あなたはこの神様の愛を知っているだろうか?
私たちは今日神様の元に帰ろう。あなたの町にイエス様を迎えよう。神様は喜んで廃墟を立て直し、傷ついた心を、いのちのない喜びもないところに、神様の癒しを、御心を、いのちを溢れさせてくださるから。どこに救いがある、希望がある、というところに、人の手では廃墟となっても神様の御国が、ご支配がそこに広がるから。もうその町を、あなたを罪は、サタンは、世は、悲しみも絶望も支配することはできない。イエス様の血によってもう買い戻され、神様の者とされたのだから、これを打ち壊す事はできない。ただ主により頼み期待しよう。主の救いを待ち望もうではありませんか。