ー語られる神様・自由にする神様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」

詩篇197-8

 

神様は黙ったままで何もしない神様ではない。そこいらに「置かれているだけの」物、仏像とかお地蔵さんとか、八百万の神(神という名称を付けるのも神様に対して失礼ではあるのですが)のようにそこに置かれているだけで生きてもいなければ語ることもできない物とはわけが違う。神様は語られるのです。びっくりしました?語るんですよ?

 

また、何か宗教家や、世の啓発本とかともまた違う。何か教えのようなもので私たちを縛り付けようとするわけではない。かえって、神様の語られることばは私たちを自由にする、魂を生き返らせる、私たちに知恵を与え、いのちで満たし、喜びで満たされる。

 

でももっとすごいのは、一方通行の関係ではないのです、神様と私たちの関係は。神様は、この天地万物を造られ、私たち人間をつくられた時に、どこか遠くかけ離れたところにおられたわけではなかった。そのエデンの園の中で共に生きる関係であった。支配する関係ではなく。

 

ところが残念ながら人は神様以外に喜びを求めて行った。離れて行ってしまった。もちろんサタンの誘い文句、誘惑もあったでしょう、でも神様が自分たちが望むものをくれないなら、別なものに、と求めて行った…神様は彼らを喜ばせるすべての物を備えていた、でも彼らは自分の望むものをくれない者は神ではない、としてしまって離れて行った…でも彼らはそれを見出す事は出来なかった。いつまでも変わらない喜びも、愛も、そんなものはない、それを本当に与えることができるのはとこしえに代わることのない神様だけなのに。そのいのちの源、真の神様から離れて行っては死にゆくしかなかった…その罪によって神様との関係が断絶されてしまった。

 

神様はどれだけ悲しんだことでしょう。でも、神様はそのまま失われた彼らを見捨てる事は出来なかったのです。私たちが神様から離れ死にゆくことを、神様のいのちがなく疲れ果て倒れて行くその姿を見ていられなかったのです。だから、この失われた関係を取り戻すために、ご自分の御子イエスキリスト様を人として送られた。ただ遠くで見ているだけの一方通行の関係ではない、直接私たちのところに降りてこられたのです。しかも同じ人の姿を取られて。最も貧しく、また最も弱い存在として。そして一人ひとりを訪問されながら彼らの悲しみを喜びに換えて行った。死んでいた状態からいのちを与えてくださった。

 

でも、そこで終わらずに、私たちの死にゆくしかないこのいのちを生き返らせる、真のいのちに、真の神様の子に造り変えて下さるべく、私たちの罪を身代りに背負って、十字架に架かられたのです。一方通行になっていた愛を、開通させるべく、まずイエス様ご自身がその身に、無実であるにもかかわらずすべての罪を背負って身代わりに罰せられ、身代わりに死んでくださった。あなたが生き返るためなら、あなたが神様の喜びで満ち溢れるためなら、と裏切る弟子たち、ののしる群衆を見捨てる事なく最後までその十字架から降りることなく死に渡された。出も死んだままにせずよみがえらせていただいたことによって、墓で死んでいるような、暗闇に閉じ込められていた私たちに神様のいのちを新しく吹きこまれ、信じ受け入れる人を神様の子として迎え入れてくださったのです。

 

神様は御子イエス様を差し出してでもあなたへの愛を示された。あなたを生き返らせ、また喜びで満ち溢れさせるべく今日もあなたにこの福音を語り続けている。わたしのもとに帰っておいで、と今日も。そしてあなたにも今日もそのいのちの道を示し続けている。私たちの歩むべき道を。その御力を、御心をあなたに示しまた現したいとあなたに語りかけている。私たちは神様は語らないと思う、でも神様は私たちがこの声に応答するのを、語り「合う」べく私たちの心を神様に向けるのを待っておられる。神様はあなたのうちにご自身を現したいのです。

 

今日私たちは主の元に帰ろう。生きた神様との関係の中歩もう。神様は喜んであなたのうちに喜びを、御心を現し導いてくださるから。