ー履き物を脱ぐ・神様に明け渡すー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。『あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。』すると彼は言った。『いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。』そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。『わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。』すると、主の軍の将はヨシュアに言った。『あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。』そこで、ヨシュアはそのようにした。」

ヨシュア記513-15

 

神様はただ見ているだけで何もしない神様ではない。神様は行動を起こされる神様です。そこいらの神社仏閣の仏像や道端にある息もない「物」でしかないお地蔵さん、人の手で運ばれなければ何もできないような者とはわけが違う。神様は行動を起こされる神様です。そして語られる。問題は私たちがそれを聞き、また信じ委ね従うか、そこにある。

 

昔、エジプトにずっと奴隷として囚われていたイスラエルの民は、神様の憐みによって救い出され、かつて彼らの土地として神様が与えてくださっていた土地に導き出されました。上の時は、モーセから、ヨシュアにバトンは引き継がれ、今まさにそのところに帰って来ていた。ところが、目の前には巨大な城壁があり、要塞都市であり、かつて偵察に行ったときには巨人もいたとか。当時のイスラエルの民は多少闘いの経験は積んできていても、たかが知れている。奴隷であった時代も長いし、戦闘力では相手の方が上。40年ほど前にここに偵察に来た12人のうち10人が、その巨大な城壁と戦力に圧倒され、繊維を失ったほど。まあそれが原因で、ここに来るのが40年遅れる羽目になったのですが。

 

人の目にはどう考えても彼らには勝ち目がありませんでした。人間の知恵ではこれを攻略するすべはありませんでした。まあだからこそ、このエリコの町というところは鉄壁で守られていたわけですが。そんな状態の前にあって、ヨシュアは、またイスラエルの民は神様の救いを待ち望んだ。そして神様は導き入れると約束されたように、主の将として共に戦うために彼らのところに来たのです。上から何か直接指示をするわけではない、神様が共にその道を進まれたのです。そのために来られたのです。

 

ヨシュアは、その人?まあ受肉前(人となってお生まれになる前)のイエス様なのですが、この方が誰なのかわからず、あなたは味方なのか?と問いましたが、この方はヨシュアに対して、味方とも敵とも答えなかった。ただ一言、「あなたの履き物を脱ぎなさい」というのでした。履き物を脱ぐという事は当時は自分の権利を譲渡する、という意味がありました(契約を結ぶ時によくされていた行為)。

 

そう、私たちが神様に味方になってくれるか否か、ではなくて、神様の前に私たちがへりくだり、従うか否か、そこが大事なのです。神様はあなたのために行動される。それはちょっと思いもつかないことかもしれない。実際、この後どうやってその城壁の町を陥落させるかと言ったら、ただ主の箱を先頭に町の周りを黙って1日1周まわり、6日つづけ、7日目に7周して時の声を挙げる。それだけ。はっきり言って信じられない方法だった。または自分の思う時に思う結果とは違う方法になるかもしれない。でも、自分と違うから味方ではない、ではなく神様の御心がなるように、そう願うことが大事なのです。その時、神様が思いもよらぬ方法をもって、あなたを囲う壁を持撃ち砕き、神様の御国がそこに建て上げられるのです。イスラエルの民が、その町を得たように。

 

この出来事は、昔の物語では終わりません。神様はあなたのうちにご愛を、神様の御心を現し、あなたの罪、悲しみ、苦しみ、死、サタンに打ち勝つべく、この時主の将を送られたように、御子イエス様を私たちのうちに送られた。人として来られ共に歩まれ、共に住み、また一人ひとりを訪問されて一人一人の問題と闘ってくださった。でもそこで終わらず、あなたを支配する、神様との関係を断絶するエリコの壁、ならぬ罪の壁を打ち砕くべく、私たちの罪を身代りに十字架に背負って罰せられたのです。勝手に神様から離れ、好き放題生きている私たちのために、そんな御子イエス様のいのちを代価にしていただくなど値しないような私たちのために。あり得ない方法をもって、戦われ、死なれてもよみがえられ、この罪を、死を、サタンを、あなたの悲しみも苦しみも全部撃ち砕かれたのです。そこまでしてでもあなたを取り戻したかった。本来神様のいのちであふれるはずの、神様の祝福であふれるはずだったあなたという町を。

 

あなたがその履き物を脱ぐ時、あなたの権利を神様の前に譲渡するとき、自分を神としていた、あなたの罪を悔い改め神様に立ち返る時、今日、あなたのうちを支配する罪は打ち砕かれる。あなたの町を覆う壁も、悲しみも痛みも主が打ち砕かれる。その方法、時はそれぞれかもしれない。しかしもう主はあなたのためにこれらを打ち砕かれた。ただ私たちは主の前にこれらを委ねよう。主の御心がなる事を祈り願おうではありませんか。