「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」
Ⅱコリント人への手紙9章7-8節
神様は首根っこひっつかまえて無理やり従わせることをしようと思えばできても、そんな関係、ロボット相手にするような関係を望まれない。神様は喜んで神様を求める生きた関係を持ちたいと私たちを求めているのです。まあ、上のことばは、献金についての話の一部なのですが、献金だけに限った話ではないんですよね。献げる、ということは。
ふと私たちが思うのは、神様も人を罪を犯さないように造ればよかったのに、と思う。そうしたら神様だって苦労したり悲しむ必要はなかったのに、と。確かに神様は最初からそれをすることはできたでしょうね。でも、無理やり従わせて、無理やり神様、愛している、と言わせるようなことをしたって何の喜びもない。神様はだから人が自分の意思で神様を求めるように造られた…
だからそんな神様の愛は半端なかった。最初から神様は人が不自由する事がないようにすべての物を備えてくださっていた。食べる物、環境、最高の伴侶まで。召し使い程度にしか、道具とかロボット程度にしか見ていなかったらここまでする必要はない。それに彼らが神様を選ばず自らが好き勝手に生き、神になる事を選んだ彼らをすぐに滅ぼすこともでいた。でも神様は彼らを見捨てられないから、彼らを陥れたサタンを必ず撃ち砕く事、救い主の約束、そしてエデンの園の土まで与えて、彼らが生きていく上でも養い続けてくださった。見捨てる事だってできたのに、仕えないなら処分すればいいのに、神様は私たちを愛しているから…捕囚に合おうとも見捨てず、その地において誰かしら助け手を与えられていた。
それでもそれでも神様に立ち返らない人間を神様は見捨てられず、ついにご自分の御子イエス様を救い主として私たちに与えられた。あの最初に人が罪を犯した時に約束されたことを、神様は反故にされる事はなかった。一人ひとりを訪ね歩き、一人ひとりに愛を注ぎ、また具体的に必要にも答えられた。彼らの目の前の問題を神様は無視されなかった。霊的なことだけだけではなかった。もしそうなら最初から十字架に架かればいい、でも一人一人の目の前の問題も無視されず、ご自身の愛を現し、最後は彼らの痛みも悲しみも、すべての罪を背負われ十字架に私たちの身代わりにかかられた。裏切者が出ても、十字架に架かることを辞めず、最後まで十字架から降りることなく、私たちの罪を身代りに引き受け、十字架で死なれたのです。
神様が私たちのことをどうでもよい存在と思っているならそこまでする必要はない。裏切者のためになんで十字架に架からなければならない!と辞めることをせず、あなたへの愛を辞めなかった。神様はあなたのためならご自分の御子のいのちさえ惜しまず与える決断をされる方なのです。あなたへの愛ゆえに。そうしてイエス様を復活させ、もし私たちがこの罪の赦し、救いを受け入れるなら、私たちも神様との死んだ関係、滅びからよみがえらせていただき、いのちを頂くのです。これらすべてとともに、天にある霊的な溢れるばかりの、神様しか与えることのできない真のいのちを与えてくださるのです。
私たちは最後、この愛を受け取るか否かは私たちが話に問われます。でも神様は私たちに投げやりであるわけではない。もうすでにそのご愛、救いの道を用意してくださっているのです。そこに救いを求めるか、別なものに救いを求めるかは私たち次第。でも神様はまだその救いの門を閉ざされていない。放蕩息子をまだ遠くにいるときからその帰りを待っていたように今でも私たちを待っておられる。神様が何より求めているのはあなたの悔い改めの心、神様を求めるその心。
あなたが神様を求めるなら神様は喜んであなたに答え、罪の赦しと救い、そしてあなたを神様の子として迎え入れ、あなたと共に生き、あなたと世の終わりまで、いやあなたが天の御国に行くその日まであなたを導かれる。私たちはもう、偽りの神々を捨て、真の生きた神様、あなたのためにご自分の御子さえ惜しまず与える神様を慕い、またこの方に従い歩もうではありませんか。主はそのあなたの心を喜びあなたに答えてくださるから。