「愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。」
詩篇107篇17-22節
神様は黙す神ではない。語られる神様です。
神様は聞かれ、また語られる。また行動に起こされる神様です。どうも日本のイメージの八百万の神(まあ生きてもいないのに「神」という呼称をつけるのも真の神様に対して失礼なのですが)から、神は語らない、自分で何となくそう聞いた気がする、とかそんな感じ。答えもしない、後は自分の努力、と。でも真の神様は息もしないそうした張りぼての存在とはわけが違うのです。神様は語られ、またその言葉を実行に移される。
上の詩の中で愚か者、と言われている人たちへの神様の思いが歌われていますね。それは当時神様の愛を散々受けながらも、常に自分の思う通に応える神を求めていたイスラエルの民であり、また他人事ではない、同じように、自分の思う時に思う通のことをする神、自分で操れるという意味で自分が神になるという、そういう私たち人間を指しています。
そうして自分たちで幸せをつかもう、と神様が与えてくださる多くの愛も恵みも忘れ、そんなものよりももっと自分を満たすものを捜し求めるも、私たちはそんなものを見出す事は出来なかった。未だに多くの人は捜しているが、だれ一人見出せない。そして気がついたら神様のいないその罪の中に悲しみ嘆く…上の詩のように、神様から見たら愚か者もいいところなんでしょう。もう神様から見捨てられても仕方のない私たちだった…ただ死の門が口を開け、神様から見捨てられ罪の罰、滅びに向かうしかない存在だった。
でも神様は私たちを見捨てる事ができなかった。そして、かつて人が一番最初に罪を犯した時に一番最初に約束された、救い主誕生の約束を反故にすることなく、私たちのために与えてくださったのです。そして、イエス様は罪に苦しみ悲しみ、滅びゆくしかない私たち一人ひとりを訪問されていった。そして彼らの具体的な必要や癒しをなされていきましたが、でもイエス様はただ困ったことを助けて終わり、とはしなかった。救いの道をいつも語っていた。神様に立ち返ることを。癒された、よかったね~では終わらなかった。私たちの喜びが、いのちが、いや何より救い・罪の赦しはどこにあるのかを、いつも示し続けた。
そしてついには、私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられた。ご自身の私たちを愛する、ということばをその行動に示されたのです。確かに私たちが一時的に何かの問題や病から解放される、それもいい。それも神様は御心ならしてくださるでしょう。でも神様は、私たちの罪・死、滅びからの救い、言い換えるならそこからの癒しを行いたかった。失われた神様との関係を癒したかった。罪によって、愚かな私たちと神様と断絶されてしまった親子関係を。そしてその身に私たちの罪を背負われ身代りに罰せられたのです。
自分の思い通りにならないイエスさまではなく、自分たちの思い通りになるバラバを解放しろ、と自分勝手に叫ぶ私たちを見捨てず…「父よ、彼らをお赦しください、彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と赦しを懇願した。呪って迄裏切ったペテロの赦しも懇願された。すぐ横にいる死刑囚の赦しを懇願した。彼らが悔い改め神様に立ち返るなら、とその言葉を、愛を神様は行動に示されたのです。
私たちはまず求めるところは今の解決、癒し。まあそれも良いでしょう。大丈夫です、神様はあなたの叫びを上の詩にあるようにちゃんと聞かれています。でも、神様はそうした一時的なものの癒しを遙かに超えて、あなたのうちにご自身の愛を、その言葉を行動に移され、あなたとの失われた関係を癒されようとされたのです。失われたあなたを取り戻したいのです。そしてご自身のご愛を、御心を、あなたのうちに現したいのです。そのことばどおり、神様はくすしいわざを行われた。十字架の贖いを。そして悔い改め立ち返り、回復された親子関係の中にあって、神様の御心を、またくすしいわざを現されるのです。
私たちはもう死の門の前に立つ必要はない。神様はいのちのうちにその門を開かれた。イエス様の十字架によって開かれ、いのち溢れる神様との関係に私たちを招かれたのです。私たちはこの救いを喜び、主の前に帰ろう。もう神などどこにいるのかと嘆く必要はない。神様はあなたと共におられる。主の語られる声に耳を傾け従おう。あなたのために御子イエス様のいのちを身代りにするほどに愛され、また行動に移される神様があなたと共におられ、語られ、導かれるのだから。だからただ主に信頼し、委ねます、と告白し歩もうではありませんか。死の門から救い出されいのちの門へと今日も主は招かれている…