ー陰府に降られたイエス様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

イザヤ書53章1-12節

 

イエスキリスト様は、今から約2000年ほど前に人となって来られ、人々に愛を現された。社会から見捨てられていた人たち、不治の病を抱えた人、悩む人、また何より神様を知らずに希望を失っている人たちにその愛をとことん現されていった。最後は、私たちの最大の問題である神様からの断絶、神様を神様とせず神様を捨て生きている私たちの罪、これを贖うべく、罪の代価、死を身代りに背負われ十字架に架かられ死なれた。完全に死なれた。そして3日目によみがえられた。

 

イエス様が死んだこと、よみがえられた事、ここはクローズアップされる。でも、もう一つ大事な事がその間にあった。それは、イエス様は陰府に降られたのだ。完全に死んで無になられた、というわけではない、地獄の苦しみを味わいながら、神様に見捨てられて死なれた。そのことは昨日書いたので、もう一度書くと今日の肝心な話ができなくなるのでよければそちらを。

 

イエス様は、私たちが神様から見捨てられる代わりに、身代わりに見捨てられ、私たちが本来降って行くべき陰府に降られた。聖書のほかの箇所、十字架で死なれたイエス様と復活されたのを目撃した、何より裏切者の張本人の一人、ペテロはこのように書き記しています。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです」。

 

イエス様は、私たちが負うべきものを全部、丸ごと背負われた。イエス様は痛みもあれば血も流す人となって来られることで、私たちの苦しみも痛みも、私たちが本来負うべきすべての痛みを背負われたんです。私たちが裁かれ行くべき場所に身代りに行かれた。

 

↑はまさに、昔ユダヤ人のために神様が約束された預言、それが御子イエス様にあって成就されたのです。↑に記された地獄の苦しみをイエス様の身に負わせた。約束通り。あなたをとらわれ人から自由人へ、罪の奴隷から解放し、神様の子へ、釈放を告げるべく。

 

イエス様は十字架の上ではなく、十字架以前から地獄の痛みを味わっていた。神であるのに人となられ、貧しい両親の元で育ち、裏切られ、時には殺されそうになり、いやした人からも裏切られ。イエス様にとっては言いがたい苦痛だったでしょう。そして神様から本来罰せられる必要がないのに私たちの身代わりとして罰せられ、恐怖の中で、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ、我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになられたのか」と叫ぶほどに。そして陰府にくだり、最低最悪の、神様に呪われ、捨てられた場所にまでくだられたのです。本来繰る必要もない神の子が。

 

陰府。陰府は一切の希望のないところです。絶望と尽きることのない後悔をするところ、神様の愛の届かない、見捨てられたところ。好き放題やった金持ちでさえ、その世界に絶望し、苦しんでいます。神様なんて関係ない、と好き放題やってきたものでさえ。そこにイエス様は十字架で死なれ、死にて葬られ、くだられたのです。あり得ない。神様に見捨てられた時、私たちは本来、絶望と講解、苦しみに沈む。

 

↑に神様ご自身が約束されました。罰して終わり、ではない、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と。この懲らしめによって、うち傷によって、私たちに平安をもたらし、また癒しを与える、と。

 

そのために、イエス様を、私たちがこのような最低最悪の苦しみにとらわれる事が無いよう、永遠に裁かれ続けるそのような事が無いよう、主ご自身がその罪を負われた。あなたが、神様の愛の届かない絶望的な中に捕らえられる事が無いよう、あなたにこの死をもって赦し、福音のメッセージを主は届けられたのです。いのちがけで。神様に見捨てられるという最大の地獄の苦しみを、神の御子イエス様自身が味わわれ、体験される事で。主ご自身が降って来られたのです。底の底まで。

 

イエス様のことばは、愛は、福音はきれいごとではなく現実です。いのちがけであなたの内に実現される神様の愛です。あなたのために行動に移される、あなたが味わうべきすべての痛みを担われる。そしてあなたに解放を告げる。イエス様にとって何のメリットが?愛するあなたが滅びることなく永遠のいのちを持つ事、神様と和解されいのちを得る事に他ならない。だから、御子イエス様が身代わりに打ち砕かれたのです。そして復活と共に、この素晴らしい恵みに私たちをも引き上げて下さるのです。

 

ここにこそ、本当の↑に約束された癒し、平安があなたの内にもたらされる。主イエス様の復活のいのちによって、イエス様ご自身があなたの内に住まわれ、世の終わりまであなたと共におられながら、導かれ養われながら。

 

ハイデルベルグ信仰書のQ44に、なぜ陰府にくだりと書いてあるのか、という質問がございます。その答えは、「主キリストが、魂において、十字架において前もって私のために苦しんでくださいました。この主の体験された言葉にできないような不安と痛みと苦しみによって私が地獄の不安や苦しみから救われているということが、最大の誘惑においても保障されているということです(イザヤ53:10、マタイ27:46)」と記されています。このハイデルベルグ信仰書を絶対視するつもりはありませんが、確かにイエス様のこの死と葬り、復活にあって私たちはこの約束に与るのです。

 

あなたと、神様と断絶された完全な悲しみの中に、降って来られた、身代わりに陰府にまで下られてまであなたにいのちの福音、救いのメッセージを届けに来てくださった。あなたは今日、このの前にどう応えるだろうか?このいのちがけのメッセージの前にどう応答するだろうか?