ーあなたの身代わりに見捨てられたイエス様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、『この人はエリヤを呼んでいる』と言った。また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの者たちは、『私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう』と言った。ほかの者が槍を取って、イエスのわき腹を突き刺した。すると、水と血が出て来た。そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現われた。百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、『この方はまことに神の子であった』と言った。」

マタイによる福音書27章45-54節

 

イエス様は今から約2000年ほど前、人となってこの世に生まれてこられ(もともと、天地万物が造られるよりもはるか前より存在はされていたが、人として生まれてこられた、という意味で2000年ほど前)た。血も涙もある、痛みもあれば、腹もすかせれば疲れる、まったく人と同じようになって来られた。決して旅行気分出来たとか、機の迷いで来た、人のように自分探し的な感覚で来た、ボランティアできた、そんなレベルではない。いのちがけでイエス様は来られた。あなたを救うために。

 

ということで、↑は神の御子たるイエス様が人となって来られ、多くの奇跡をなされ、癒され、励まして来られた、何より、人々自身が待ち望んでいた、やがて来られる救い主が来られていたにもかかわらず、民は裏切り、イエス様を十字架に架けた。執行は確かにローマ兵だが、すべては民自身が、自分たちが望む事をしない神など神ではない、と御子イエス様を切り捨て売り渡した。

 

え?売り渡したのってユダじゃないの?ええ彼もそうですが、イエスを十字架に架けろ、と叫んだのはユダだけではない、多くの群衆、また神様を愛すると言いながら宗教を食い物にしていた宗教指導者たち。

 

本来救い主として、罪から私たちを解放し、サタンの支配から解放し、私たちが裁き化釈放され、永遠のいのちを得、神様の子とされる、受け入れられるべく、そのために御子イエス様が来られたのに、こともあろうに、民はイエス様を受け入れなかった、拒否した、見捨てられたのです。何とありえない話だろう。しかし、これを他人事のように誰が言えるか?あれはユダのせいだ、と責任転嫁を誰ができるか?私たちもまた神様を神様とせず、こんな神などいらない、私のために私が思う良いことを、私の思う時にすぐに答えない神など神ではない、と裏切って来たではありませんか。

 

イエス様は見捨てられた。信頼する12弟子にも見捨てられた。あなたと一緒になら牢獄でもどこでも行きましょうと言っていた弟子の筆頭格(という立場はありませんが中心人物の一人)ペテロに至っては、呪いと共にイエスなど知らない、と否定されてしまった。どれだけの哀しみを背負って十字架に架かられたのだろう。

 

昨日、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と、イエス様は前日の最後の晩餐の時を喜ばしい時だった、ことを記しましたが、なんとその後はただただ裏切り、苦しい鞭打ち、嘲り罵り、最後は、ぶっといくぎを打ちつけられ十字架に架けられた。

 

あなたの手首を見てほしい、細い2本の骨が見えませんか?その手首の2本の骨の間にぶっとい釘をそれぞれ刺されたんです。打ち付けられたんです。気に刺さり身体を支えるほどですから相当長く太いものですよ?そして足を重ねられそこにさらに1本。どれだけの苦しみだったろう。最初に書きましたが、イエス様は痛みを持つ体で来られたんです。

 

↑のイエス様のことば、なんて叫んでいますか?「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ですよ。それほど苦しいんです。でもそれだけではない、民に捨てられ、裏切られ、それだけにとどまらず、神様にさえ見捨てられなければならなかった。天地万物から共に歩まれたのに。

 

じゃあ神様は助けられなかったのか?いえ、できます。できました。しかしそれをしなかったのです。十字架の横で同時にかけられていた死刑囚は「お前が神の御子なら降りて私を助けろ」と言われ、観衆からも、降りてきたら「信じてやるよ」とまで言われていた。おお、信じるならやってやろう、とか、こんな裏切り者のために、なぜ我が御子イエスキリストを死なせなければならないんだ!と十字架から降ろすことはしなかったのです。

 

それは、私たちが神様から「見捨てられる」、それを神様は選べなかったのです。私たちを捨てるよりも、あなたを生かす、そのことを選ばれたのです。私たちを死なせる、十字架に架けて死なせる、私たちは神様を捨て、あまつさえ御子イエス様を十字架に架けるようなもの、どうしてそんなものを神様は赦せるか?しかし、あなたを赦すために、御子イエス様を身代りに十字架で、最後の最後までイエス様を降ろさず、架け続け、死に引き渡されたのです。

 

私たちに十字架から降りるという奇跡を見せる事よりも、そんなあなたを救うという最大の愛、奇跡を現された。神の御子が十字架に架かり死ぬ、というあり得ない。

 

イエス様は、痛みどめの葡萄酒を飲むことを拒否した。あなたが負うべき痛み、担う悲しみ、病を、呪いをあなたが苦しむ代わりに、イエス様が苦しみあじわい、これを死と共に葬り去るため、あなたが一切負う事が無いよう、それを逃れるのではなく、最後まで担われたのです。

 

イエス様は十字架上で父なる神様にこのように祈られた。「父よ。彼らをお 赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。わたしが、身代わりになる故、どうぞ彼らを赦して下さい、と。この十字架こそ、あなたへの最大の奇跡であり、唯一の救いです。このイエス様のいのちによって、私たちは罪赦されるのです。この十字架の前に悔い改めるなら。神様と断絶されるのを御子イエス様が引き受けられた、十字架によって、それゆえに私たちは神様と和解させていただけるのです。神殿の幕は避け、私たちはこの神様のいのちの関係に引き入れていただけるのです。

 

イエス様はあなたのために完全に一度死なれた。神様の御子であられるのに。あなたの身代わりとなるために。仮死じゃない。ちょっとだけ死ぬ体験しました、というレベルではなく完全に陰府に降られた。あなたの代わりに。しかし死で終わらず、3日の後、この身代りの死・十字架を良しとされた父なる神様はイエス様を復活させ、和解された。それと共に私たちをもこの和解の内に入れてくださったのです。罰で終わらず死で終わらず、墓は開かれ、私たちは神様の家族へ引き上げられ、その恵みのいのちに与り生きる者とされるのです。

 

あなたは今日、この十字架の前に何を思うだろうか。この十字架を前に「この方はまことに神の子であった」と告白するだろうか。私の救い主です、と告白し、彼のようにいのちを得るだろうか。血と涙と、いのちがけの「父よ。彼らをお 赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」というイエス様の祈りによってあなたは生かされた。あなたはこの十字架の前に今日、何を決断するだろうか。