ーあなたを忘れないために用意された食事ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。イエスは言われた。『わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。』そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。『これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。』それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。』」

ルカによる福音書22章14-22節

 

イエス様は、十字架に架かられる前の最後の日、イエス様は弟子たちと食事、最後の食事を共にするという事を選ばれました。それはいわゆる最後の晩餐と呼ばれるもの。それが↑に記されたシーンでの事。

 

昨日はその前にまずイエス様が弟子たちの足を洗われた、弟子たち・いや私たちを、神様とは無関係のものとするのではなく、神様と関係あるもの、神様の子としたい、その事を示されました。心を砕き、神の御子であるイエス様が膝を屈めて。

 

それに続き、食卓の時を持ちました。まあもちろんイエス様自身この後十字架に架かられ、死なれる、だからその前においしい食事でも、とか最後に私の弟子になったんだからその記念のイベントにでも、とかそんな考えも普通なら出てきそうですが、イエス様はそういうつもりでこの食卓の場を設けたわけではありませんでした。それはイエス様と弟子たち・いや私たちが契約を結ぶ、その時となった。ただ単なる食事の場ではなく、記念行事ではなく。

 

ちなみに↑を見ると最後の晩餐がパンとぶどう酒だけかよ~と見えますが、この時はユダヤの大事な祭りの一つ、エジプトの奴隷状態だったイスラエルを神様がその憐みによって救い出されたことを記念する過越の祭りの時。その時に取られるのは「いけにえとしての羊が多くほふられ、食事は種なしのパンとぶどう酒を中心とする簡素なもの」だそうです。

 

話しは戻してイエス様は、この晩餐の時を↑のルカによる福音書を読みますと「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」とおっしゃりました。イエス様はこの時が楽しみで仕方がなかったのです。しかし、イエス様はこれから弟子たちに裏切られ、捨てられていく事を知っている、それにもかかわらず、そんな彼らをこの食卓に招き、食事をする。それのどこが楽しみなのか。

 

イエス様は自分の心が、これから裏切られる悲しみ、痛みで引き裂かれそうだったろう。しかし、イエス様は本物の神様の食卓、神様の家族の中に今、招かれている事、その予型のような形で彼らを招き、やがて本物の神様の食卓に彼らがつく事を考えるならうれしくて仕方ない、この痛みもその喜びを考えれば、と招かれたのです。

 

イエス様はパンを裂いた時、ご自身の体をこれから十字架上で、あなたがたが本来神様から引き裂かれなければいけない、罰せられ引き裂かれなければいけない、霊的な関係だけではなく物理的にも死・裁きをもって引き裂かれなければならないけど、その身代りに私が引き裂かれることを話されました。わたしが、あなたの身代わりに十字架で神様との関係が引き裂かれ、その身体も引き裂かれ死のう、と。そして身代りにその血を流し死ぬことを、ぶどう酒の杯をとってまた話されました。

 

ここ数日、イエス様による洗い聖めによる宮の造り変えられる事、罪を洗い聖められ、神様の家族へと招かれていく事を見てきましたが、私たちは罪がある中では、残念ながらこの神様のいのちに与ることはできないのです。だから、イエス様は強盗の巣になっていた宮を放置されるのではなく、聖められた。どうでもいいなら放置するけど、本来あるべき姿に戻ってほしいからそうされた。足を洗う、罪を洗い聖めなくても確かに生きられるかもしれない、でもそこには神様との関係はなくなり命は失われゆく、罪に支配されていくそんな事など我慢でいない、だからこそ、イエス様は足を洗われた。私たちはこのイエス様なしには、本来のいのちを受ける事はできないのです。

 

イエス様は、別に私たちが勝手に滅びゆけばいい、なんて思わなかった。裏切る弟子たちが死にゆく事よりも、私たちが神様なんていなくたって生きていける、と離れ捨て、イエス様を亡き者に自分の内側でしようとしている、しかし、私たちは神様によって生かされ、その愛によって生かされる存在なのに、神様を失ってどうします?だから、イエス様は私たちが神様と無関係になる事よりも、忘れられるよりも、「神様に覚えていただいている」いのちある関係の中に招かれたのです。

 

去年の受難週でもこの事を少し書きましたが、私たちにイエス様はこのことを「覚えて」行いなさい、とおっしゃられましたが、それ以上にイエス様があなたの事を覚えておあれるのです。見捨てる事、忘れ去ることができない、だから、わたしはこれからあなたがたの名前を憶えて、1人1人のいのちが失われゆく事を我慢できずその身代りに、あなたのため、あなたのため、とその顔を浮かべながら十字架に架かりに行く、このパンがさかれるように、わたしは進んでこの身を捧げよう、と。この血が、あなたがたへの愛の約束なんだ、と。神の御子が、罪のないイエス様が死刑になる、血を流されるなんてありえない、でも、そのありえない事を、あなたを忘れられないが故、あなたを忘れられたものとしたくない故、この十字架の道を進みゆかれたのです。

 

イエス様はこのパンを分け、受け取るように、この契約、愛の杯を受け取るようにおっしゃりました。あなたのためにわたしのいのちを裂き、分け与えよう、と。私たちはこのイエス様のいのちを分け与えていただき生かされたものなのです。本来神様に見捨てられるべきものが、忘れ去られるはずのものが覚えていただき、愛を注ぐ対象として、ご家族として、その食卓に招かれたのです。なんと、あのユダさえ。裏切るものはわざわいだ、というけど、その先どうするかは私たちの決断なのです。

 

イエス様のパンを取り生きるか?イエス様を売り渡し他の物をあなたの支配者として生きる、というか死にゆくかはあなたの決断次第。あなたは今日、どう決断するだろうか?

 

イエス様が何をなされたのか、この十字架で神様ご自身の心も裂かれたことでしょう。神の御子たるイエス様を死なせなければならない、あなたがいのちを得るためなら、と心を奮い立たせ。この神様の思いをあなたはどう受け取るだろうか?あなたが本物の神様の食卓、天の御国へ、裁きのゴルゴダの丘の十字架ではなく天の御国、神様の家族へと招かれるため、喜んでその身を進みゆかれたイエス様を覚え、今日決断しいのちをえよう。イエス様こそ主と告白し、生きよう。わざわいだ、と言われるものとなることがないよう。

 

イエス様はその十字架の契約ゆえに、回復された和解のゆえに今日もあなたを忘れず、あなたを覚え、あなたの内に住まわれ、あなたの内にその愛を、御心を現し続けている。