ーあなたをイエス様と関係ある者としてくださったー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。『主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。』イエスは答えて言われた。『わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。』ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないでください。』イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』シモン・ペテロは言った。『主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。』イエスは彼に言われた。『水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。』イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、『みながきよいのではない』と言われたのである。…』」

ヨハネによる福音書13章1-11節

 

イエス様は、私たちをご自身と関係ある者とすべく招かれた。その中には裏切ることを知っている者たちもいた。それでも招かれた。どうして?彼らを、あなたを神様とは無関係だ、とバッサリ切り捨てたくないから。あなたを神様の子として引き戻したいから。イエス様の愛を今日今一度覚えよう。

 

さて、今はいわゆる受難週。そして↑はその受難週、特にイエス様が十字架に架かられ死なれる前夜にイエス様が行われたことでした。最後の晩餐、と言えば話が分かりますかね?その最後の晩餐の中の一つの出来事なんです。イエス様は12弟子を招き(たぶん他にもいた?)ました。その中には、驚く事に、裏切ることをもうすでに知っているユダ、この後3度イエス様を否定し呪いまでかけるペテロもいた。

 

イエス様はそれでも「その愛を残るところなく示された」のでした。愛?食事を提供する事?↑の足を洗うという行為?それも確かに一つですが、記念行事として、イエス様の12弟子になった記念としてこの機会を設けたのではない、明日イエス様が十字架に架かられ死なれる、その前に、この十字架にこそ命がある事、この関係の中に留まり続ける事を訴えたのです。聖められ続ける、イエス様のいのちの中に日々生かされ「続けていく」ことを何より訴えたのでした。

 

今裏切ろうとしているユダ、サタンの誘惑が入る中でどうするか…イエス様と一緒ならどこにでもついていこう、というペテロ、しかし今彼にもまたサタンの手が伸ばされる…世の試練の中にあって、どこにこそ命があるのか。

 

と、話はだいぶ本題から離れましたが、イエス様は弟子たちの足を洗い始めました。これは本来いやしい奴隷がすべき行為でした。当時の話。いやそれにしたって、神の御子イエス様がされるのも変な話。むしろ弟子たち・罪人である弟子たち、また私たちがすべきこと。しかし弟子たちは仕えるよりも、その直前に誰が偉いのか、という議論をしているばかりで何もしない、私がします、とも言わない。イエス様にしてもらうことは求めても、積極的にそのいのちの関係の中に踏み込んでいかない。

 

それでもイエス様は、当時の道事情を考えても、汚い、その足を、1人1人丁寧に洗っていきました。弟子たちから始めないから、業を煮やしてされたのではない、イエス様は1人1人の足を丁寧に洗って行かれたのです。なぜそこまで?しかもユダの足までされる必要があったのだろう。

 

イエス様はこのことについて、「このわたしがしていることは、今のあなたには分かっていない。しかし、これらのことの後で知るでしょう」と答えられました。もちろんこの先で、互いに足を洗い、仕え合うことをイエス様がおっしゃっているので、そういう意味合いがこの洗足にはあるのですが、イエス様がそうおっしゃったということはもっと深い意味があるのです。ではいつになったら分かるのか?それはイエス様の十字架と復活、そして聖霊様がお降りになった後です。

 

そう。このイエス様のされた洗足の第一義的な意味は十字架です。イエス様は↑で上着を脱いで洗い始めたとあるように、その上着を脱いで、自分のいのちを十字架の上で捨てることで、私たちの罪を洗い流す、この十字架はあなたは無関係なのではない、あなたのためにものぼるんだ、と一人一人に思いを込めながらその愛を訴え続けたのです。

 

イエス様は自分の足を洗うのをやめてください、というペテロに「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」とばっさりおっしゃられた。裏を返せば、イエス様は、十字架によって私たちの罪を身代りに背負われることは、ただ赦してはい終わり、ではなく、イエス様の関係の中にまさに招くために、神様のいのちが溢れるその関係の中に、神様の家族の中に招き入れるため、十字架に架かられたのです。神様が日々聖め整えて下さる、そのいのちの関係の中に。

 

その事もユダの足を洗いながら、そのユダにさえ示された。残念ながら彼はそれでもイエス様の救いよりも、神様の中に生きる事よりも、イエス様を売り払う事を選んだわけですが。そして最後は悔い改める事よりも後悔のみで自ら命を絶つという結末を迎えてしまったのですが。もし彼が悔い改めていたなら・・・?と聖書には書いてはいませんが思うところ。

 

私たちは、イエス様が示されたこの十字架による救いの機会を、この愛を逃してはいけない。今日もまだその手は伸ばされ続けている。いのちがけで、口先だけではなく、その愛を行動に移された、ただ足を洗って私は愛しているよ~で終わらず、いのちが下でその愛を示された。罪深く汚れた者への愛の証として、私たちへの愛の証として、私たちの罪を見狩りに背負われ十字架に架かられ、死なれた。神様との断絶という最大の哀しみさえ、アジアわれた。神の御子であられるのに身代りに死ぬ、神様に呪われた者とされるというあり得ない、経験もされた。それでもあなたへの愛を示されたのは、あなたをこのいのちの「関係の中に」招き入れる事にあった。復活によるそのいのちの恵みの中に、神様との和解の中、神様の家族の中に子として招かれたその関係の中に私たちを招かれているのです。

 

あなたはこの十字架の足洗いの前に、その血潮の前にどう応えるだろうか?この足洗の後の行動はそれぞれに委ねられました。ユダも、ペテロも。12弟子も、あなたも。あなたの家の主人は誰ですか?主は誰ですか?その主人はあなたのためにいのちを張られ、あなたの足を洗い聖め、いのちあるあなたへと日々聖めたい、養いたいとあなたの前に今日座られている。イエス様を売り渡し追い出すような事はしてないか?今日もう一度主にあなたの家を洗い聖めていただき命で満たしていただこう。