ー強盗の巣から祈りの家へー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「まことに主はこう仰せられる。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。』」

イザヤ書56章4-7節

 

イエス様は、愛の神様。しかしダメな事はだめ、と明確におっしゃる。聖なる怒りをなされることもある。愛の神様なのに?と驚く人も多い。でも、それは私たちが罪に、サタンに食い物にされてせっかく神様がくださろうとする聖なる宮を壊され、汚されたくないからです。イエス様は罪を、哀しみを、痛みを放置されたのではない、癒し、造り変えるために来られた。

 

さて、↑は預言者イザヤを通して神様が語られたことばです。当時イザヤが遣わされていたイスラエルは分裂状態にあり、北イスラエルはアッシリヤに捕囚、南ユダはバビロンによって捕囚される、もうまさに危機的状況にあった。その中で何度も何度も悔い改めを求めるも彼らは立ち帰らない、だから神様は見捨てる、とおっしゃったか?ところが神様は彼らがやがて神様を捨て捕囚される、でも必ず神様が連れ戻す事を預言した(預言というのは予測ではなく、神様の約束、という事です)。そしてさらには救い主メシヤがただの解放ではなく、罪からの解放をもたらす、救いをもたらすと約束されたのでした。サタンを打ち破る。

 

それは人の始め、アダムとエヴァが初めて罪を犯したときに神様と断絶される前、神様が彼らに約束されたことだった。サタンを打ち砕く事。そして本来あるべき姿への回復をも意味していたのです。神様との和解。それは全人類が願っていた事でした。まさに罪が入り、サタンによって食いつぶされた、神様が造られたあなたという宮が、罪によって食いつぶされたあなたという宮が、神様をほめたたえるような素晴らしい宮に、神様に祈ることさえ許されるすばらしい最高の関係のある宮に回復される、と預言された。

 

その預言がまさに御子イエスキリスト様において、今から約2000年ほど前に成就したのです。イエス様は、人となって来られた。神の御子であられるのに。しかも赤ちゃんになってまで。どこか高いお空で見ているだけ、見守っているだけではなく、時々助けを送るとかそういうレベルではなく、神様は行動に移される神様だったのです。同じ苦しみ、痛みを担うために来られた。罪に、サタンに、神様の大いなる恵みを食い散らかされたこの世界を、いやあなたを回復するためなら、そこにまで降りてこられたのです。

 

そして、今そのために私たちの罪を贖うためにエルサレムに、本来王として迎え入れられるはずのイエス様が来られた。ロバに乗って。神様から見たら汚れた動物とされたロバの子に乗って。しかし王となるためではなく、私たちの罪を身代りに背負い、その王として座るべき場所で、身代わりに私たちの罪を背負い十字架に架かられるために来られたのでした。

 

そんな中で、一つの大きな事件が起こった。その時の事を聖書にこのように記しています。「それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。『【わたしの家は祈りの家と呼ばれる】と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。』」

 

神様を礼拝する場所において、神様の愛を伝えるべきはずの祭司たちが偽りの教えを広め、また礼拝したいという人たちが礼拝できないよう商売の場所を広げたりしていた。神様の愛を妨げる、まさに強盗の巣と化していたのでした。イエス様は神殿で商売していたこと以上に、彼らが神様に近づこうとすることを妨げる行為を場所的に、また教えにおいてなど様々な形で阻害していていたのです。

 

イエス様が十字架に架かられる直前にこれを行われたのは、まさに「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」そのことの成就を現す一つの行動だった。まさに、神様との関係を奪い去ろうとする罪を、サタンを追い出そうとしているのです。私たちを支配するのは、そうした強盗ではない、罪ではない、サタンではない、私たちの内にあるべきは神様のいのちそのものなのです。一ところであっても神様の愛が及ばない場所が、そこに入らない、という場所があってはいけない、と。

 

最初に私は聖なる怒り、と書きましたが、それは愛ゆえです。愛していなければ放置すればいい。そんな強盗など滅びてしまえ~で済ませればいい。でもこの事を通して、宮に、私たちにいのちをもたらすのは何なのか?自分たちの内に支配しているものが何か?もう一度イエス様を迎えよ、神様を信じているふりをしているけど、していない強盗たちよ、もう一度立ち返れ、そう訴えたのです。

 

裁くため?違う。↑のイザヤの預言をもう一度見てください。強盗たちは除く、とは書いていない。「すべての民の」祈りの家、と。彼らにだってイエス様はその愛を示されたのです。

 

そして、イエス様は十字架に架かられた。今目の前で怒り神殿から追い出した彼らの罪さえ。これらを本質的に洗い清めることができるのは、私たちの内にある罪、汚れを、強盗者サタンを追い出すことができるのは、御子イエス様の十字架の血潮以外にはないのです。罪に対する代価として御子イエス様がそのいのちを身代りに、私たちが支払わなければならないいのちを身代りに差し出され、十字架で罰せられ、死なれた。そしてよみがえられたことによって、その流された血潮によって、私たちはこの死せる宮、からだ、罪の、サタンの支配から解き放たれ、いのちを得るのです。もし、あなたが、あなたの神殿に御子イエス様を受け入れるなら。

 

あなたの宮を支配する、というよりも満たされる方をあなたは誰とするだろうか?ないし自分の価値観によって支配させていないだろうか?満たそうとしていないだろうか?御子イエス様のいのちによってそこが溢れていないだろうか?私たちがそこに居座っているうちは、それは追い出された祭司たちと変わらない。神様がいたって何にもならないだろう?なんて疑って座り込まないでイエス様を迎えましょうよ。

 

イエス様はサタンから、罪から、ないし自分で一生懸命建て上げようとして疲れ、神様の御心、素晴らしい宮、形を崩してしまったあなたを回復させるため、本来神様の考える最高のあなたに回復させるために来られたのです。イエス様を追い出したままでどうしますか。自分であれはいらない、これはいる、これは神様、これは自分、とえり分けるのではなく、イエス様にあってもう一度新しくきれいな、本来神様が計画されている最高のあなたに造り変えていただきましょう?そこに神様の素晴らしい栄光が輝くから。

 

「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える」。あなたは神様の子としての特権をここで受け、真の安息を受け、永遠の神様との関係に入れてくださったのです。今日、イエス様の執り成しの祈りによって支えられ、イエス様が住まい生かされ導かれる宮・あなたに作り替えていただくよう願い、お迎えしようではありませんか。

 

何より、イエス様がいのちがけで洗い聖めて下さった、取り戻してくださったあなたの支配権をもう、サタンなんかに、罪なんかに奪わせないよう、いつもイエス様に繋がっていきましょう。あなたのためにいのちを張られる方が、あなたの内に住んでご自身を現してくださるのですから。