ー子ロバに乗って来られたイエス様ー | とある働き人の聖書のお話

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東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「わたしは、わたしの家のために、行き来する者を見張る衛所に立つ。それでもう、しいたげる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。望みを持つ捕らわれ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。」

ゼカリヤ書9章8-12節

 

イエス様は子ロバに乗って、その十字架への道を進まれるためにエルサレム、彼の処刑場に向かってこられた。彼とは誰か?イエス様自身が処刑される場所に。軍馬に乗ってではなく、私たちに本当の平和をもたらすために。罪と闘うべく。あなたの罪を背負うことを恥とすること無く。

 

さて、↑のことばはかつて預言者ゼカリヤという人を通して神様が語られた預言の一つです。当時、このゼカリヤという人が遣わされていたイスラエルは、バビロン捕囚によってすでに分裂していたとはいえ、北イスラエルと南ユダヤは散らされ、捕囚によって国は崩壊していました。そんな中で神殿再建、またかつてのイスラエルの回復のために神様が働かれている事を、そして本当の救いの日が来ることを彼を通して語られたのでした。その預言の一部が↑。

 

その預言の成就のため、必ずメシヤ、救い主を彼らの内に送る、と神様からゼカリヤを通して宣言されたわけです。そして今から約2000年ほど前に御子イエス様がこれを成就されたのでした。当時イスラエルは宗教的に腐敗し、またローマ帝国の支配という圧政に苦しめられていた時代。わざわざそんな時代に救い主として来なくても、と思うような中に人となって来られた。私たちと同じ人となって。しかも赤ちゃんとしてまず生まれ、人と同じように育ち。

 

しかもイエス様は彼らがこれから裏切る事など知っていた。だから↑の約束を反故にする事だってできた。ないし先延ばしにして、もっとまじめに人間がなったら救ってやろう、そんな考えなど持たなかった。神様のあなたへの思いは一時たりともかわってはいない、あなたを早く救いたいという思いは変わらないのです。

 

じゃあイエス様が来られる前はどうだったんだ?と思う。でも、イエス様が来られる前だって神様はいつでも救いの手を伸ばされていた、直接語られたり、誰か助け人を通して語ったり奇跡を起こしたり、直接下って来られて戦われた事だって何度も何度もあった。でも、彼らは一時の「軍馬に乗る王」、自分の目の前の問題だけを解決し打ち破る王は求めても、自分の人生に神はいらない、といつもはねのけ続けていたのです。今実はイエス様が来られた時でさえもそうだった、ローマ帝国から解放する「軍馬に乗る王」は求めても、戦わないならいらない、とこの後イエス様を群衆たちは、弟子たちは裏切り、当時の宗教家たちに、ローマ帝国に引き渡すのです。

 

イエス様は、あなたのすべてを癒したい。ある一部だけ幸せにして後は好きにしたら?とはしなかった。だったら、神の御子にふさわしい姿で来られたでしょう。乗り物ももっとかっこいい、軍馬じゃなくとも馬を選んだってよかった。しかし、イエス様はろばを選ばれた。あなたに「神様の」義と平和、救いをもたらすために来られたのです。

 

ちなみに、ロバというのは神様から汚れた動物として挙げられていました。さらにもっと調べてみると、出エジプト記という聖書の書巻の中に「すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない」という箇所があります。なんと、ろばには羊、イエス様。もうすでにロバという動物を神様は最初からえり分けられていた。もっというと、子ロバの背中にはなんと、驚くべきことに十字架が描かれている。そのように神様は創造された。御子イエス様を十字架に連れ上る動物として。

 

余談はそこまでにして、イエス様は本来、汚れた動物であるロバのごとく、私たちが引かれて連れて行かれなければならない処刑場に身代りに進まれていったのでした。汚れた動物、罪に汚れた者として、そのロバのああないとして首をおられなければならない中で、身代わりになられた。あなたという、神様から汚れたものとされ、断絶された者となるべきはずの存在が、いのちを受けるために。その背に十字架を負わなければならなかった私たちの身代わりに十字架を背負われた。

 

イエス様はあなたを自由にし、解放を告げるために今来られている。いや来られた。あなたはこの方をどう受け入れるだろうか?どんなに時が経とうと状況がどうであろうと神様はその約束を変えなかった。あなたの内を占領するローマ兵、もといサタンを、罪を打ち砕くために、そして神様のいのちがあなたの内を支配し、平和をもたらすために来られた。契約の血、御子イエス様の十字架の血によって洗い清められ、また復活と共にあなたは罪の奴隷から解放され、釈放を告げられ、神様の恵みによってあなたは回復され、いのちが溢れる。そのためなら、と普通に考えたら屈辱な動物・ロバの子に乗ってまであなたの元に来られた。最後までその歩みを止めることなく。

 

あなたに本当の平和をもたらす力があるのは、軍馬でもどこかの有名人でもだれでもない、神の御子たるイエス様のほかにはいない。この十字架のほかに神様との和解を、いのちをもたらす事はできない。サタンに、罪に、この支配を打ち破り神様のいのちが溢れさせることができるのはこのイエス様以外にはいない。いのちを投げ打ちあなたにいのちをもたらすために来られたイエス様を今日お迎えし、いのちを得よう。十字架はあなたのためになされたのだから。軍馬が必要?大丈夫、復活のイエス様があなたの内に住まわれ、一緒に戦い、一緒に導いてくださるから。今日、主イエス様をお迎えしよう。