ーイエス様がいるから恐れない人といるけど恐れる人ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

(本日は体調不良により入力困難なため、昨年の今日投稿したものをもう一度掲載します、ごめんなさい)

 

「夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。」
マルコによる福音書6章47-51節

 

イエス様の行けない場所はない。だから私たちはその中において恐れる必要はない。

さて、今から約2000年ほど前、神の御子たるイエス様が人となって生まれてこられ、人の間に住まわれ、生き、その愛を余すところなく注がれていった、そんなある日の出来事。約2万人ほどの人々を5つのパンと2匹の魚によって満腹にされるという驚くべき奇跡を行われた後、イエス様は弟子たちを先の地に向かわせました。イエス様は群衆を解散させました。

 

弟子たちはガリラヤ湖という大きな湖を小さな小舟で渡っていきます(まあ2000年ほど前ですからおおよそどんなものかは想像がつくとは思いますが)。このガリラヤ湖は季節次第ではとんでもない姿に変貌を遂げるところ。しかし弟子たちの中には漁師のプロが何人かいましたし、大丈夫だろう、と思っていました。ところが、舟がどういうわけか、やはりその季節に捕まったためか、漁師のプロが何人かいるにもかかわらずうまく進まず、漕ぎあぐね、夜中の3時ごろになってしまっていた。

 

一体どうしたらいいんだ?こんな湖のど真ん中で沈んだらひとたまりもない(そういうレベルの湖です)。しかもこんな真夜中に一体誰が助けに来れるだろうか?そのような絶望の中に弟子たちがいました。

 

しかし、なんと船でされ進むのに困難、漁師のプロたちが何人かいるにもかかわらず、そんな湖の上を、なんとイエス様が歩いてこられたのです。何という驚くべきはなし。忍者が水面を歩くとか、そんな話とかレベルの話ではない、何㎞も陸地から離れている、しかも波も経ち、舟もこぎあぐねるようなところを歩いてこられた。そして弟子たちのところまで来られた、助けに来られたのでした。

 

イエス様に降っていけない場所はない。神であられるのに人となって、罪の世に、すぐに神様を捨てる人間たちの姿を知っていても、来ることができる、それだけではない、最後は死刑囚となり、かつ神の子としては行くのは最も最悪な死、陰府にまで下って行かれた。私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かられ死なれたことによって。

 

私たちは神様を侮ってはいないだろうか?あなたを愛するがゆえに、神様の御子としてあり得ない、何の罪もないのに裏切者たちの罪をも背負われ十字架に架かられた、すぐに神様を裏切り離れ、切り捨てる、自分の都合のいい操り人形のように見てしまう、本当にどうしようもない罪人の私たちさえ見捨てずに十字架に架かってまであなたを取り戻し、その暗闇の誰も助けることのできない永遠の滅びから救い出すために、ありえない湖を渡った以上にありえない方法をもって行かれ私たちを取り戻し、神様の子へと引き上げようと、新しいいのちの陸地、いのちへと招かれようとされたのです。

 

しかし、弟子たちはこの最悪の状況の中にイエス様が来られたにもかかわらず、なおもイエス様を恐れた。まあ時間帯的には幽霊と思う気持ちもわからないこともないのですが。イエス様をまだこの段階では、残念ながら理解できていなかったのか、どんなに奇跡をされても、そのイエス様の愛を、その偉大さを理解できなかった。弟子たちにとっては預言者とかそういう一人のレベルでしかこの時はなかったのだろう。

 

いずれにしても、私たちはイエス様を侮って他の何かすごい偉人とか宗教人の一人程度にしか見ていない、なんてことがないようにありたい。あなたの罪をさえ身代りに背負い十字架に架かられ死なれ、陰府にまで下ってまであなたを取り戻そうとその手を伸ばされた、あなたをそこから引き上げに来られたイエス様のその愛を疑ってはいけない。この方があなたのところに来られたのならどうして引き上げられ神様の子とされた今、恐れる必要があるだろう。あなたの船には救い主が乗っておられるんですよ?そのイエス様が、わたしだ、恐れることはない、というのだから、信頼しようではないですか。

 

確かにその嵐は他の人には理解できないレベルかもしれない。しかしイエス様の行けないところはないし、鎮められない嵐はない。私たちはこの確信に立ち、主と共に歩もう。その導きに信頼し、聖霊様が私たちを導いてくださっている、この事を信じ、天の御国までの船旅、恐れず歩もうではありませんか。