「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。『だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。』そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。」
ヨハネによる福音書20章1-10節
今から約2千年前、十字架の上で神の御子イエス様が死なれました。多くの民が、またその周辺の国の中の人までイエス様を慕っていたのに、多くの人の病を癒し、また教え、しるしを示されてきたのに、何の罪も犯さなかったのに、人々はイエス様を十字架に架け、殺したのでした。その十字架上で、本来全人類が負うべき罪を背負い、人が裁かれるべきところ、その裁きを身代わりに受け、罪ゆえの呪い、一切を背負われて。しかしイエス様の死は、死で終わらなかったのでした!
ということで、↑はそのイエス様が復活成された日の出来事です。復活。これは実はイエス様の自力によってなされたことではありません。まあ言葉自体が受動態「復活させられた」ということばで表現されているんですけどね。
だってそもそもですよ、イエス様は私たちの罪の身代わりに「罰せられ、死なれた」のですから、その罰に対してゆるされなければ解放される事などあり得ないのです。もっと考えてみれば、裁かれた人が自分から牢屋からでる、なんて事は出来ません。罰を受けて良しとされて初めて牢屋から人は出ることが出来るわけですよね?もちろん、イエス様は一切の罪を犯しませんでしたが、私たちすべての人の、全人類の罪を身代わりに背負われ、罰せられたのです。
そう、私たちの代わりにイエス様は罰せられたんですよ?そうでなければ私たちの罪など赦されるはずがありません。イエス様が身代わりに私たちの罪などを一差引き受け、裁かれたから私たちは赦され、神様とつながることが赦されているのです。そして、神様のご意思によって、御使いを通してイエス様の封印された墓が開かれた。神様は、永遠に私たちの関係を断絶、閉ざすのではなく、イエス様の死を持って罰を良しとされた今、私たちを赦し、イエス様の復活と共に、新しいいのちの内に招き入れられたのです。
と、序論だけでだいぶ書いてしまいましたが、そんなイエス様が復活成されたその朝、というよりも神様がその墓場、断絶された世界を開かれた朝、神様は開かれた墓に色々な人が招かれていきました。マグダラのマリヤ、そして数人の女性たち。女性たちの中には、女性奉仕団のようなものがあったようで、自分の全財産をもってイエス様に仕えていた女性もいるくらいなんです。
彼女たちはイエス様の遺体があるはずのお墓に来ました。特にヨハネによる福音書ではマグダラのマリヤにその人物を絞っています。彼女はかつて7つの悪霊につかれ、悪霊に支配された大変な生涯を歩んできました。女性はただでさえ当時の社会では人数に数えられない程、その上に悪霊につかれていたのでは周りの人たちからさぞ蔑まれ、苦しんでいたことでしょう。
しかしイエス様に解放され、彼女の生涯に光が差し込んだのでした。もうイエス様なしの生涯は考えられない、と弟子たちが途中で逃げだす中、イエス様の十字架まで最後までついていったのでした。そういう意味でイエス様が自分の生涯からいなくなるなど考えられなかったのでした。だから彼女はイエス様を慕い、何とかイエス様にお会いしたい、そういう思いで墓場までいくのでした。
ところが、彼女が墓に行ってみると、何と墓石が開いていたのです。彼女たちはこの墓石をどうするか一生懸命考えていた、でも開いていたのでした。大人数人がかりでようやく転がせるような大きな岩によって墓が塞がれていたわけですから。実際はイエス様が復活され、出ているのですが、彼女たちはそれに気づかなかったのです。
そこでマリヤは弟子たちのところに行き、「だれかが墓から主を取ってゆきました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません」と報告しました。これには弟子の筆頭格だったペテロもイエス様の愛された弟子、ヨハネも大慌てです。いや、彼らもイエス様がどうなったのか知りたかった、だから彼らは競うようにイエス様の墓を目指し走り出しました。
そして彼らが墓の中で見たものは、イエス様の復活された痕跡、遺体を包んでいた布きれ、亜麻布だけでした。そう、復活されたから残されていた布きれ、亜麻布、これを彼らは見たのです。もし仮にイエス様が盗み出されていたとしたら、普通に考えて遺体に直接触りたくないでしょう、腐敗も進んでいるでしょうし。だから、それらのものを投げ出すよりも、巻いたままどこかに運ぶはず、しかし、それらが残されていたという事は、まさにイエス様ご本人がその布を外したのです。
実は、↑のマリヤのことばの「置いた」という言葉は「捨てる」、という意味があるそうです。そうすると、↑のことばはマリヤの視点から見たら、誰かがイエス様を捨てた、でもイエス様はよみがえられたのですからこの「捨てた」という言葉の意味合いは全く変わってきます。むしろ「イエス様が」「死を、闇を」、イエス様がその十字架に背負われた「人の痛みも病も」全部葬り捨て去ったわけです、復活と共に。神様が開かれた新しい道はそういうものなのです。
そしてペテロはこの時点ではまだ信じることが出来ませんでしたが、ヨハネは信じ受け入れました。この道を行き、進むことを。見ずに信じるものは幸いである、とこの先疑り深かった弟子の一人トマスにおっしゃった、まさにその通り、まだ復活のイエス様とお会いする前に信じたのでした。
イエス様はその墓を開け、私たちを待っています。イエス様と会いたい、出会いたい、そう願うマリヤ、またペテロ、ヨハネのためにイエス様はその墓を開け、あなたに新しいいのちを与えたいと待っておられるのです。
この後マリヤと復活のイエス様が出会われたように、また弟子たちに聖霊様の御力をこの先で与えたように、あなたに新たな復活のいのちに生きる喜びを、力を与えたいとその墓を開けて待っています。今は見えないから不安かもしれません。しかし、どうぞイエス様の元にいってみてください。主はあなたを待っておられるから。そしてあなたの暗闇の墓石を開かれるから。
墓の石は神様の石によって、御子イエス様の、私たちの罪の身代わりとなって死なれた十字架のいのちがけの愛によって、私たちは今この新しいいのち、復活のいのちに招かれている。これは神様ご意思によって開かれた新しいいのちの道。イエス様のいのちがけの愛で開かれた命の道。
後はその開かれた道に来るか否か、「神様が開かれた」道へ踏み出すか否かなのです。みなさんの、私たちの新しい生涯というのは私が切り開くのではない、神様が開かれた道を歩むんです。私たちの生涯は、このイエス様の墓が開かれ、復活される事によって始まったのですから。そして墓の中、元の自分の思うままに生きる道に戻るのではなく、神様の開かれた新しいいのちに歩む中にこそ祝福があるのです。あなたの命を贖い、イエス様のいのちをもって買い取られた神様が、あなたの道を開いて進ませるのですから。もう、いつまでも古い墓の中で真理を、いのちを捜し求めるのではなく、神様が開かれたこのいのち、復活のいのちの内を歩み続けようではありませんか。