「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビ人という取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」
ルカによる福音書5章27‐28節
イエス様はあなたのことをじっと見ておられる。別に監視するような意味合いではなく、あなたに深く関心を持っておられる、と言っていいでしょう。
このわずか2節しかない、イエス様とレビの話ですが、このレビという人は取税人でした。彼は取税人でした。国税局の人とかそういうものではなく、当時イスラエルを支配していたローマ帝国の代わりに、民から税金を取り、そして彼らに納める、というまあイスラエルからしたら裏切り者。でもそれだけではない、納めるべき量よりも多く取り立てて、それを自分の懐に入れる、という、まあ今でいうなら横領までしていたわけです。もう、箸にも棒にも掛からぬほどの人。それが取税人。
まあ、このレビがどこまでその犯罪とも呼べることに手を染めていたのかはわからない、しかし取税人というくくりで、レビは周りからも白い目で見られ、彼には居場所がなかった。
そんな彼をイエス様はじっと見られた。どんな目で見たのだろう?この犯罪者、お前はそこで一生座って後悔するがいい、とでも思ってみていたのだろうか?侮蔑の目で見ていたのだろうか?いや違う、彼はそうした悲しみの中、また罪の中にいつまでも座っていないで、罪の奴隷のまま座り込み、生きるのではなく、わたしのいのちの内を歩みなさい、と招かれたのです。侮蔑なんかではない、そんな神様から離れた彼、神様の恵みを知らずにいる彼を憐れまれ、ご自身のもとに引き寄せられたのです。
ちなみにこの後レビは、同じような取税人仲間を集め、イエス様を食事に招き、もてなしていたところ、罪人と食事をするイエス様を馬鹿にする人たちに、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」とおっしゃられた。そう、イエス様はこうして神様から離れたところで座り込み、自分が命を失いゆく状態にあることを知らないでいるわたしたち、罪人を招き、悔い改めに導き、ご自身のいのちの内に招かれようとしているのです。
そのために、イエス様はレビの罪も、私たちの罪もすべて背負われ身代わりに十字架に架かられ、罰せられた。イエス様は十字架上で裏切り者たちを、罪のない自分を十字架にかけた者たちをどうみたか?隣にいる死刑囚をどうみていたのか?イエス様はじっと見つめられ、「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分では何をしているのか分からないのです」と懇願し、また悔い改めた死刑囚にさえ、ご自身の言葉をかけ、「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます」と宣言された。裏切った弟子たちのところに現れたときも、裁く目ではなく、彼らを悔い改めに導き、またいのちの道へと引き戻された。
そうして身代りに罰せられ死なれ、また復活させられたことによって、私たちにいのちの道を示された。悔い改める者に永遠のいのち、神の子としての特権を与えてくださったのです。
主は十字架から私たちを見つめられたように、復活された後に、裏切った弟子たちの前に現れ、わたしのもとに来なさいと招かれた主イエス様はあなたに同じように招かれている。いつまでそこに座っているんだ、わたしのいのちを、新しいいのちを得よ、と招かれている…そしてこのいのちをいただいたあなたにも、今日、わたしを信頼し、罪から離れ、神様不在の歩みから離れ、起ち上れ、と。レビは応答し、自分の生涯にイエス様をお招きしました。
さて、あなたは今日、あなたをじっと見つめ「わたしについて来なさい」と招かれるイエス様にどうこたえるだろうか?