ー大いなる救いの日・本当の安息の日ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。』」

レビ記23章26-32節

 

神様の私たちへの愛は、私たちの想像をはるかに超えている。何と、神様は御子イエス様を十字架に架けた私たちの罪さえ背負って赦してくださる。私たちが安息を得るために。本当の安息を得るために。イエス様ご自身が私たちの罪の身代わりのいけにえとなられた。最後まで降りることなく。この愛を私たちは覚え、この愛の内に生かされている事を覚え、歩もう。

 

さて、↑はレビ記という、聖書の中ではちょっと難しい書簡の中に定められた、神様の定めた律法の一部です。↑は特に、「贖罪の日」・もっと厳密に言えば「大贖罪の日」について定めたものです。これを守り行うように、と。

 

贖罪だの大贖罪だのなんなの?それって感じでしょうが、これは普通は誰かが罪を犯したら、その罪の身代わりとしてのいけにえを当時捧げ、それによって罪が赦される、そのようなものでした。しかし年に一度、大祭司という神様と民を繋ぐ人が、民全体の罪の赦しを神様の前に乞う日、そのためのいけにえを大祭司と呼ばれる人が捧げるのです。もちろん、大祭司も人間ですから罪を犯します、だから自分たちのいけにえを献げ許しを乞うというのは言うまでもないのですが。

 

見えてきたと思うのですが、この贖罪、というのは、ようするにスケープゴート、私たちの罪の身代わりとなるわけです。何か随分気前のいい話、と思われるかもしれませんが、実はこの贖罪、いけにえによる罪の赦しを定めたのは人間ではありません。神様です。神様が、私たちが何か悪いことをした、神様を神様と思わず歩んでいる、そのような罪を見て、すぐに断絶、もうお前たちは知らない、と切り捨てる事をしない、私たちが神様を覚え、立ち返る事を願っておられる、そして迎える準備をしている何よりの証拠。だからこそ、神様はこの贖罪について、いけにえについて定められたのです。↑にある「安息」というのは、本当の意味で得られるのは、神様の中に憩うことにほかなりません。神様との和解の中で選ら得るのです。

 

しかし残念ながら、このいけにえは完璧ではありません。完全に神様の内に私たちを立ち帰らせる事などできない。だから、罪は繰り返されていった。極論、どうせいけにえを捧げれば赦されるんでしょ?と思っていた人たちもいたでしょう。聖書の歴史を見ていくと、そうとしか見えない。

 

だから、神様は完全なるいけにえを、贖罪のいけにえ、私たちの罪の代価となる、身代わりとなるスケープゴートに、イエス様を与えられたのです。完全に焼き尽くされる全焼のいけにえとして、神様の裁き、怒りの裁きを注ぐいけにえとして御子イエス様を私たちに神様は与えて下さったのです。

 

おそらく罪の贖いのためのいけにえ、これ、動物の立場にたったら何と理不尽な、と思うでしょう。でもね、その身代り、スケープゴートとなられたイエス様からしたらもっと理不尽です。イエス様は神であられるのに人となって来られた。そして多くの奇跡、愛を注がれた、それにもかかわらず、弟子たちに、また群衆に裏切られ捨てられた。そしてその彼らの罪の罰のスケープゴートとなる、普通なら冗談じゃない!とやめたくなることでしょう。

 

しかしイエス様はその十字架から降りる事はなかった。その裁きの座から、降りようと思えば降りれただろうにそれをされなかった。イエス様は、それでもあなたを愛する事を選ばれた。あなたが逆にこのいけにえのように滅ぼしつくされる、焼き尽くされる、神様の怒りが注がれるくらいなら、わたしが身代わりのその怒りを、裁きを引き受けよう、と最後まで十字架から降りず、死にまで従われたのです。

 

そして死で終わらずに、この完璧なスケープゴートとなられたイエス様は復活させられることによって、私たちにも死からいのちへ移される、復活の恵み、本物の神様の安息へと招いてくださったのです。神様の子として神様の家族に。ただ天国に行けるようになった、ではない、この神様の内に招かれ、イエス様があなたの内に住まわれ安息を与えられる。

 

と、実は今日の話はここでは終わらない。実はこの「大贖罪の日」というのは難しい神学的な話をすると、イエス様を十字架に架けた張本人たるユダヤ人、神様が愛し抜かれたユダヤ人の中で、イエス様を救い主として受け入れなかった人たち、イエス様の救いを受け入れなかったのだから当然救われるはずがない、しかも事もあろうに彼らはイエス様を捨て十字架に架けた、もう完全に捨てられるはず…ではなく、その彼らのために憐まれる日、その約束がここに示されたのです。後の時代、世の終わりには大患難時代を迎える、その中でそんな見捨てられても当然、と言われても仕方ない彼らの民族を、イエス様を捨てた張本人の民族を神様は憐れまれ、救いに招きいれる日が来る、そう約束されたのです。

 

イエス様を十字架に架けた張本人さえ憐れまれ、なお救いの御手を伸ばされ続ける。何という深い愛だろう。実にその一部が今成就し、イエス様を救い主として認めない彼らの内からイエス様を救い主として受け入れる人たちが今多く起こされているのです。確かに神様の御手はまだ引っ込んでいない。その憐み深い神様の愛の御手が私たちの内にも伸ばされている、私たちはこの第贖罪の日に示された神様の愛の一端をも味あわせていただけているのです。神様の愛の深さは人間には計り知れない。しかも永遠の定め。

 

神様はこの愛を覚えるように、そう今日、訴える。この真の安息の中に憩い、歩むよう、今日訴える。あなたがどこにいようと、この贖いの中、和解の中生きるように。あなたのためにスケープゴートにさえなられたイエス様が今あなたの内に住まわれ、あなたの内に御心をなし、世の終わりまであなたと共におられる。この素晴らしい愛に感謝し、信頼し、今日も歩もう。