ー十字架への決意決断・あなたへの決意決断ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。『父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。』」

ヨハネによる福音書17章1-5節

 

イエス様はあなたのためにいのちを投げ出された。当時最悪と言われた処刑方法、十字架をお受けになり、神様に呪われた者となってでも、あなたが永遠のいのちを得る事を願われた。イエス様のあなたへの愛、決意は揺るがされることなくあなたに注がれた。この愛をあなたはどう受け止めるだろうか。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が十字架に架かられる直前に祈られたものの一部です。イエス様は最後の時を弟子たちと過ごし、裏切るとわかっている弟子たちのその汚い足を洗い、また聖餐の時を持ちました。またイエス様が十字架に架かり、復活され、天に昇られて後の私たちの歩みのために聖霊様という助け主を送られる事を約束をされ、迫害・世にある戦いへの圧倒的な勝利など、彼らを力づけ、励まされました。

 

そして最後に、祈りの時を持つのでした。まず、イエス様は「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」と祈ります。

 

少し難しいことばになっていますが、栄光には重い、富、栄誉、誉、尊厳、超越性、完全性、愛、恵み、力、義、聖という意味があります。ひとまとめにするなら、神様のくださる愛と言ってもいいでしょう。イエス様はその栄光を願うわけですが、それは十字架よりも自分の誉れを望んでいる?さっさと弟子たちと別れて天の御国に帰りたい?違います。

 

イエス様の望まれた栄光、それは十字架における栄光なのです。私たちにとって十字架と栄光という言葉がどうしても重ならないかもしれませんが、それがイエス様の祈り、願いなのです。なんで十字架に架かり死ぬことがイエス様の誉れ・栄光なのか、不思議です。

 

しかし私はこのことを書きながら震えました。イエス様の望まれた栄光は十字架にあることに。あのむごたらしい、人の憎悪が現れた、あの呪いの象徴の十字架に架かる事が栄光であるという事実に。聖書には木につるされた者は神様から呪われた者であることを記しています。まさに、神様の呪いの象徴なのです。十字架は。神の御子が、十字架で神様の呪いを受ける、罰、死を。

 

しかも、十字架刑は恐ろしく苦しい。手首のところをご覧くださると2本の細い骨が見えますでしょう?その間にぶっといくぎを刺し貫くんです。そして、足首の辺りにも。ひもでくくりつけるんじゃないんです。釘で、打ち付けられる。しかも、すぐに死ねない。呼吸困難と、最後は心臓破裂。そんな恐ろしい物、それが十字架なのです。

 

しかしイエス様は、あなた、父の栄光、つまり父なる神様のご愛を「私たちに」現すために、私たちの命を贖うための十字架の計画を、わたし・イエス様が苦しもうとも途中でやめることなく必ず遂行してほしい、そう願い出たのです。

 

何という崇高な愛、祈り、願いでしょう。何で罪人などのために、裏切る弟子たちのために十字架に架からなければならないんだ?さっさと天国に、あなたの元へ戻してください、そして元の関係に戻してくださいと願えばいいのに。

 

しかし、イエス様が十字架の上で死なれることでその栄光が、ご愛が現されるのです。私たちが十字架の前に、父なる神様の元に帰るなら、天でも地でも喜びが起こり、その十字架が栄光の輝きを放つのです。そして父なる神様の御名が崇められるように、そう祈るのです。どうして?愛する私たちが、失われていた子が帰ってきて神様の家族に戻ることほど喜ばしい事はないからです。

 

この十字架によって全人類の救いが成し遂げられ、十字架上のイエス様をやがて全世界の人々が賞賛し、イエス様を救い主として信じ、受け入れ、神様の元に帰り、感謝と賛美の礼拝をささげるようになるよう祈るのです。

 

何というへりくだった祈りでしょう。まさに、ご自分のいのちを十字架に架けてでも私たちに神様の元に帰ってきてほしい、という私たちへの愛がまさにあらわれているのではないでしょうか。そして、イエス様はその十字架上で自らをいけにえとして捧げ、父なる神様から与えられているすべての者に永遠のいのちを与えるのです。

 

みなさん、十字架をただの罪人の象徴やアクセサリーで終わらせてはいけません。殺してはいけません。旧約時代は、この贖いの行為を遠くから見守る事しかできませんでした。しかし今や、イエス様ご自身が十字架に架かられ、私たちを招いておられるのです。遠くから見ているのではない、この十字架の御元に来なさい、と。この愛を受けよ、いのちを得よ、と招かれているのです。遠くからではない、十字架の足元に来るように。

 

あなたのために、こんな罪人のために十字架に架けてください、と自ら願われたあのイエス様の愛を信じようではありませんか。神様の愛が分からなくなったら、いや、なる前からいつも大胆に近づこうではありませんか。そこには確かに神様の愛が光り輝いているから。

 

イエス様はご自身の命を懸けてあなたに永遠のいのちをもたらそうと決意され、決断され、行動されました。それは一時の何かのためではない、永遠のいのち。それは、一方的な神様の愛、贈り物では終わりません。死んだ後も続く幸せな生活だけではありません。

 

永遠のいのちは、私たちが、私が、あなたが、神様とイエス様を個人的に、人格的に知っていく過程にすぎません。罪の赦し、最後の審判からの無罪放免、神様の家族の養女、養子として入籍し、聖霊様が住まわれ、そして私たちは日々、祈りの中で、御言葉の中で、神様がどのようにかかわってくださるかを知り、神様の家族の子供としてふさわしく、神様が導いてくださっていく、十字架によって和解されたいのちの関係、歩みです。命を懸けられ、あなたを導かれた十字架を、イエス様の決意・決断をもう覚え、このいのちの内を歩み続けよう。