「私は、私の杖、慈愛の杖を取り上げ、それを折った。私がすべての民と結んだ私の契約を破るためである。その日、それは破られた。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが主のことばであったことを知った。私は彼らに言った。『あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。』すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。主は私に仰せられた。『彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。』そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」
ゼカリヤ書11章10-13節
神の御子イエス様は、なんと銀30枚で売られた。ちなみに、ある宿屋で病人を面倒見てほしいと言って一晩で支払われたのが銀貨2枚。入院15日分の金額でイエス様のいのちは売り渡された。しかし、その銀30枚で売り渡されたがゆえに、私たちは救いをいただくことができた。それでもあなたに慈愛を示すべく、命を投げ出された。あなたが神様と和解するためなら、と。この愛の前にあなたは今日どう応えるだろうか。
さて、↑はゼカリヤという人を通して神様が語られた預言の一つです。ゼカリヤという人はバビロン捕囚から解放され、イスラエルに帰って来たユダヤの民に遣わされた預言者。バビロン捕囚によって、すでに分裂していたとはいえ、北イスラエルと南ユダヤは散らされ、また捕囚によって国は崩壊していました。しかしそんな中で神殿再建のために、かつてのイスラエルの回復のために神様が働かれている事を改めて、このゼカリヤという人や、もう一人のハガイという人を通して神様は語られたのでした。
でも、神様が彼らを通してイスラエルに語りたかったのは、単純なイスラエル再建だけの話ではなかったのです。神様との関係の回復、和解のための御子イエス様が来られる事、そして後にはこの分裂、分かれてしまったイスラエルが一つとなって回復していく事、さらに後にイエス様が再び来られ、イエス様の治める千年王国なるものについても預言されていきます。
ふう~ん、だから?と突っ込みを入れられそうですが、これらに共通するのは、御子イエス様によって回復される、という事です。バビロン捕囚にしても、私たちと神様との関係にしても、↑に見るように、本来私たちは神様に繋がりその慈愛の中で生きている者たちでした。しかし、その罪ゆえに慈愛を受ける者からおられてしまった。国の分裂以上に、私たちは神様から引き名はされてしまった、その関係が折れてしまったのです。
しかし、神様は私たちを見捨てる事はできない。そこで、神様は、ご自分の御子イエス様を、神であられるのに人とならせて、赤ちゃんとして生まれさせてくださった(まあそもそも、天地万物が造られるよりはるか昔よりイエス様は存在しておられたのですが)。大変な犠牲を払われた。胎も減るし、走れば疲れる、傷つけば血も流れる。悲しければ涙も流すし、痛みも感じる、罪を犯さない、という点を除いて全く人と同じようになられた。そこまでの犠牲を払ってでも、彼らの内に住まい、いや私たちの間に住まわれることによって、私たちを回復させたいと願ったのです。神様の愛を惜しむことなく注ぎ、いのちを注がれ、導かれた。
でもそれだけではなかった。イエス様は十字架に架かられたのです。イエス様は別に逃れようと思えば逃げる事だってできたんです。神様だってこんな裏切り者たちのために、自分の都合のいいこと以外は神様にも留めない、神様を神様とせずに裏切る私たちを見捨てる事だってできた。しかし、そのままにされた。
有名なイスカリオテのユダという男、彼はイエス様を銀貨30枚で、イエス様を殺したい宗教家たちに売り払った。↑の約束通り。イエス様はそれを拒否したり逃げる事も出来ない事もなかったし、ユダを例えば討つ事によってそれを防ごうと思えば防げた。でも、イエス様はそれでも、私たちがそれで命を得るというなら、救われる、神様と和解されいのちを得るというなら、構わない、とそのままなすがままにされたのでした。銀30枚どころの騒ぎではない。神の御子イエス様のいのちが私たちの救いのために支払われたのです。
そして十字架に架かりに行くその足を止めず、途中で降りる事なく私たちの罪の身代わりに十字架で身代りに罰せられ、死なれた。しかし死で終わらずよみがえられたことによって、復活されたことによって、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る時、私たちもまたこの復活の恵みに与り、イエス様があなたの内に住まわれ、治め、養い導かれる、その御国、↑でちょっと解説した千年王国の前味、天国の前味を味あわせていただけるのです。
イエス様のいのちによって、私たちが得たのは銀貨30枚どころの騒ぎではない。永遠のいのち、神様の子としての特権をいただく、死、裁きは取り消され、私たちは神様によって新しく回復され、建て直され、導かれていくのです。御子イエス様のいのちさえ惜しまずささげられる、そのいのちゆえの御心があなたの内に現され、建て上げられる。
ユダは、確かにイエス様を銀貨30枚で売り払った。しかし、もし彼がイエス様の十字架の前に悔い改めたのなら彼は赦しをいただくことができたかもしれない(書いていないのでわからない)。イエス様も最後までユダの悔い改めを願っていましたから。しかし、ユダは悔い改めず、せっかくの救いの機会さえ拒否した。あなたはあなたのために差し出された御子イエス様のいのちの前にどう応えるだろう?どう応答するだろうか。あなたのために支払われた御子イエス様のいのち、代価の大きさをもう一度覚え、歩もう。この投げ出されたイエス様のいのちを拒否するのではなく、受け取り、このいのちの内を歩もう。