「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」
黙示録21章3-4節
上の言葉は、神様の私たちに対する約束の言葉です。私たちはいつかは死に、そしてこの地は過ぎ去って、神様の治める新しい王国・御国が築かれます。その時の様子、約束がまさに上の言葉です。何と素晴らしい約束。ある意味ではこの地上の私たちの生活とは全く逆。何と感謝なことか。
神様は私たちにこんな素晴らしいものを用意して待っていてくださっています。でも私たちは実はこの前味を私たちが生きている間も味わうことができるのです。
ある人は、クリスチャンは苦行、我慢ばかりだ、束縛だらけ、戦いだらけ、という。天国に行くまで神様は私たちに関心を持ってくれないのでは?と。でもそうではないんです。
いや、本来はそのような恵みに私たちは与るに値しないものでした。神様から離れ、自分勝手に生き…他の神を求め、いや自分が神になろうとして…そうして私たちは神様から離れるという罪を犯した・・・神様から勝手に離れていったんだから、上の約束に与るに本来値しないし、地上においてだって神様から何かお恵みを~なんて言えるものではなかった。
でも神様はそんな人間の思いをはるかに超えて私たちに愛を注がれたのです。このままでは私たちは滅び去るしかない…そんな私たちを見てられず、御子イエス様を私たちが本来負うべき罰・死を身代わりに背負われた。悲しみも、叫びも、苦しみも。そして、このイエス様の救いを信じる人、あなたが自分の罪を認め、この十字架の前に悔い改める時、このイエス様の十字架の救いはあなたのものとなり、あなたは罪赦され、神様の子とされるのです。そう、罪を身代わりに背負われただけではない、あなた自身を神様の家族として迎え入れてくださったのです。あなたの父、真の父なる神様としてあなたを買い戻された、ご自身のものとされたのです。親が子に対して養育の義務があるように、神様はあなた自身を引き取って、あなたと苦難の日も喜びの日も共にあり、はげまし、力づけ、また神様ご自身をあなたの内に現し、導かれる。いや親が子に語り養われるように今日もあなたに語られるのです。
私たちが、あなたがこの救いをいただくとき、御子イエス様の十字架において、あなたを神様は罪赦され、神様の子として迎え入れ、あなたのこの地上において、また死して後のあなたに対しても、責任を持たれたのです。上の約束とともに。この方のみ声を聴き、また従うとき、この前味を私たちは味わうのです。
主はこのヴィジョンを、約束を語り、これに希望を抱くよう語られた…あなたは今日誰の姿を、声を聴いて歩んでいますか?主はあなたを子として迎え入れたいとまずご自身の愛を示されました。あなたはこれにどうこたえるでしょう?