ーあなたのための書ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」

ローマ人への手紙154

 

ある人は神様は何もしないじゃないか、という。誰かが造った話でしょ、神という概念を人が造ったに過ぎない、という。でもそうではないんです。神様は、ご自身がどのように私たちを愛されているのか、それを聖書という書物に残されたのです。聖書を見ると、裏切り者や、信仰の父と呼ばれる人の失敗とか、人間だったら隠したいことも。

 

でもなぜそこまで?それは神様の愛、お働きは、その時代の人だけ、とか、その人が特別だからなされたのではない、それだったら、わざわざ書物に残す必要はない。上の言葉にあるように、神様の御目は、そのご愛はあなたという人にも向けられていることを知ってほしい、教えたいと、時代時代の人たちを通してその記録をくまなく残し、あなたにわたしの愛を注ぎたい、そのご意思ゆえに聖書にその一つ一つの記録を残されたのです。神様の愛は昔だけのものではない、昨日も今日も明日もあなたの上にも現わしたい、と。

 

その究極の愛の形として御子イエス様を神様は私たちのためにお与えになったのです。ここに希望があるんだ、と。私たちは神様とは別なところに希望を求め捜し、さ迷い、せっかく見つけたと思ってもそれは一時的なものでしかなく、疲れ果て、枯れ果てていく、死にゆく者でしかなかった。神様から離れては人はどうして生きていくことができるのか?私たちの造り主なる神様から離れては、ぶどうの実がその枝から離れたらただ死にだけなように、神様から離れては私たちは本当の喜びも平安も無い、死にゆくだけ。

 

そこで、御子イエス様を私たちの罪の身代りとして十字架で罰し、死なせ、なおよみがえらせることによって、この救いを信じるあなたの罪をゆるし、神様の子として迎え入れてくださるのです。これほどの希望があるでしょうか?あなたが悔い改め神様に立ち返るならもうあなたは神様の子として迎え入れられるんですよ?こんな希望、他にはありません。

 

その親子関係故に、昔聖書にしるされた人と神様との間にあった素晴らしい関係があなたとの間にも結ばれるのです。御子イエス様の十字架が神様とあなたを親子関係へと。主従の関係ではない、愛の親子関係へ。それゆえに神様はあなたの内に生きて働かれ、ご自身を現し、たとえ火の中水の中、あなたと共に励まし進まれる。あなたの内にご自身のご計画、最善をなされる。

 

人は希望を探し求める。でも、そのすべてはこの親子関係の内にある。希望はどこから来るか?イエス様の十字架ゆえに結ばれたこの親子関係の内にある。このことは昔話でも作り話でも何でもない。この約束を記して残した神様の御手は今日もあなたに伸ばされている。ここに希望があるんだ、と。

 

主は今日もあなたに語られる。戦いの中であろうと、嵐の中であろうと、喜びの日であろうと、あなたの内にご自身を現したいと今日もその御手を伸ばされている。あなたは誰に希望を持ちますか?