ー何に満たしを求める?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「義に飢え乾く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」

マタイによる福音書56

 

私たちは様々なもので満ち足りることを望みます。人の愛?何かの物?趣味に没頭することで?でもなぜそれらを求めるのか?それは自分の内側がどこかで渇いて、何かをもって、それを潤したい、欠けた何かを埋めたい、その何かを求めます。

 

まあ人類最初の人アダムたちも神様との関係に満ちたらず、神様のようになりたい、もっと自分を満たすあの木の実が食べたいと求め、ついに神様から離れていってしまったのですが。神様は何でも彼らに下さった、環境も、最高の伴侶でさえ。しかし神様の下さるものは私には向いていないと他を求めていった…

 

しかし彼らは自分が神様のようになれると思ってはみたけど、結局はそこには何もないし、自分であれもこれも支配しようと思ってもそこには喜びはなく、満ち足りることもなかった。かえって悲しい罪の支配に苦しむこととなったのでした。自分の好き勝手生きていった人たちは嫉妬と妬み、復讐心に支配されていった人たちだらけ。その張本人でさえ、結局喜びに満ち足りることはなく、最後は肉的にも霊的にも滅びに向かっていくだけでした。

 

イエス様は、そんなところには喜びはない、とおっしゃるのです。満ち足りることはない、というのです。イエス様は「人はパンによって生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」ともおっしゃりましたが、ある意味で私たちの周りにある人間関係やモノでも生きていくことはできますが、しかしそれだけでは本当の生きた者には私たちは慣れないし、満ち足りることはできないのです。神様との生きた関係の中にこそ、私たちは満ち足りるのです。

 

イエス様はこうもおっしゃりました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」神様しかこれを与えることはできません。

 

神様は私たちが上のような状況に、神様から離れ、飢え乾き、死にゆくことを我慢することはできない。だから神様はもう一度わたしのところに帰れ、とご自分のひとり子なる御子イエス様を十字架にかけて私たちの罪の身代わりに罰せられ死なせ、またよみがえらせることによって、信じる人の罪を帳消しにし、あなたを神様の子として迎え入れてくださるのです。この真の親子関係の中において、神様はあなたを養育、責任をもって愛し養い、導き、なおご自身を現されるのです。世の中的には困難な状況であろうと神様があなたと共に進まれるのです。神様が。世の人は途中でやめるかもしれない、神様はでもあなたを見捨てない。あなたが死して後も、天の御国までも永遠に。もしあなたがイエス様を救い主として受け入れるなら。

 

私たちはイエス様を救い主として受け入れることで、罪人ではなく、義とされ、神様の子とされる。まず私たちはこの救いを受け取り、なおこの関係を熱心に求めていきましょう。主はあなたに今日も語られ、導かれる。この親子関係において、みことばを通し、祈りを通し、あなたを「義と平和と聖霊による喜び」(ローマ人への手紙14章17節)で満たして下さるから。

 

「義に飢え乾く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」あなたは今日、誰に何を求めるでしょう?