「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられるのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富むものとなるためです。」
Ⅱコリント人への手紙8章9節
キリスト教に対し、ある人たちは我慢の宗教だ、という。あれしてはいけない、これをしてはいけない、とか。日曜日は教会?友達と遊ぶ方が楽しくないの?とか。いや、下手をしたらクリスチャンでさえ、クリスチャンなんだから仕方ない、と我慢、というかあきらめというか、なんかそんな風な心持をする人もいます。
でも神様は、私たちに宗教を与えたわけではない。宗教的行為を強制し、縛り付けようとしているわけではない。むしろ神様は私たちを自由にし、ある意味で富ませたいのです。
私たちは神様の子として本来神様の下さる富の中、愛の中、本当に豊かな命を歩むはずでした。この天地万物ができたころの完璧なる世界の中で、神様は何でも備えていてくださっていました。環境的なものや食べ物、最高の伴侶。いや何より神様ご自身が共におられ、いつもその愛を注ぎ彼らを導いていた。でも、人は、私たちは神様の下さるものに満足せず、他にこれを求めていったのでした。でも、それは一時は自分たちを喜ばせ、満足させても、それ自体に富がないからやがて、勝も人間関係も、その偽りの富は尽き果てていく。
でも神様はそんな私たちを見捨てられなかった。
だから神様は、自分のことなどどうせわかってない、と思う私たちを救うために、神様でありながら、その弱い私たち人間の姿、性質(罪を犯すこと以外一切)を取られ来られた。そしてご自分の持つ富、ご愛を、御力を現わされ、最後は人の最も恐れる、いや最後の運命となる死という最もみじめで貧しい状態となった…でもそれでもイエス様は良い、もしあなたが罪を悔い改め、神様に立ち返るなら、と。そしてあなたに神様の子という最高の富を与えたかったのです。そしてあなたがこの救いを信じ受け入れるなら、あなたもこの最高の富、永遠のいのち・神様の子とされるのです。
確かに、神様に従う歩みの中には困難や問題に当たるかもしれない。でもそれは他も同じでしょう?誰だって困難苦難はある。まあもちろん、イエス様に従うゆえに受ける迫害や問題もあるんですけど、この姿は周りの人からは貧しいみじめなものに見えるかもしれない。でもあなたの内には、神様の命が与えられている。神様ご自身があなたと共に生き、その希望となられ、あなたをいのちの道へと導かれる。あなたを慰めはげまされる、苦難の中においても神様があなたと共におられて進まれる。こんな神が、友が他にどこにいるだろう?神様から見てあなたに必要なすべてを神様はあなたに与えたいと、その栄光の富をもってあなたにその手を差し伸べられているのです。
あなたは今日神様に何を求めるでしょう?
神様はあなたに、神様しか持ちえない富をもって、御子イエス様の名にかけ、応えられる。あなたは今日神様に何を欲しますか?