ー死んだままではなかったー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」

ヨハネによる福音書112526

 

死。これほど人の恐怖する事はないですね。最近召天された日野原先生も、この死を前にそれでも恐れると言いました。この話を今日聞いてびっくり、日野原先生でも…と、死は人の手ではどうしようもすることができないことです。それはクリスチャンであろうとなかろうと誰しも一度は経験することになります。

 

実は神の御子イエス様も、一度死なれました。私たちの罪を、また私たちの病も何もかもすべてを背負われて。身代わりに。

なぜそこまで?・・・私たちは神様から離れ、自分勝手に生き、罪ゆえにやがては罪からくる報酬として、死・永遠の刑罰を受けなければならなかった。神様は愛の神様ですが、義の神様ですから。愛の神様がなぜ裁かれるの?と思われるかもしれませんが、じゃあ逆に無法状態に放置することも愛?やはり罪は罪として裁かなければならないんです。神様から離れていったのなら永遠の神様との断絶、死、滅びへ。

 

でも神様はそれを我慢できない。だってあなたは神様が丹精こめて造られた大切な人だから。だから神様は大切なひとり子なるイエス様をあなたの罪の身代わりに十字架にかけて死なせた。でも死んで終わり、罰して終わりにしなかったのです。罰して終わりなら、死して終わりなら、赦しはない。でも、イエス様のその刑罰を見て、もう赦そう、そう決めた「神様が」イエス様を「よみがえらせた」のです。誰にもどうする事さえできない死をイエス様が打ち破られたのです。

 

そのイエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」と、もし私たちが自分の罪を認めて神様の前に悔い改める時、私たちの罪もその呪いも、死さえもイエス様が身代わりに背負われ、これを打ち砕いてくださるというのです。私たちも古い自分が、罪も、あらゆる一切を十字架によって砕かれて、新しい、神様にあるいのちの内を生きる、神様の子としての特権をいただくのです。

 

死さえも打ち破られたイエス様が、あなたと共に歩まれる。

何と感謝なことだろう。人間にとって最もどうしようもない事を打ち破られた神様が共に生きるなんて何という恵みでしょう。

イエス様をもしあなたが救い主として信じるなら、今日という日は子の死さえも打ち破られた復活の主と共に、その恵みとともに生きるのです。もはやあなたの抱える痛みも何もかも何するものぞ。確かに戦いもあるでしょうけど、その中にも神様はそのあなたを通して働かれる。

 

私たちはイエス様をいつまでも墓の中に閉じ込めていてはいけない。復活の主と共に今日、明日、御国に至るまで歩みたいものです。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」