ーアーメンはー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「神様の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン。』と言い、神に栄光を帰するのです。」 

Ⅱコリント人への手紙120

 

アーメン。とても有名なことば。祈りの最後には、アーメンと言って閉め、賛美歌でもアーメンで終わります。

ちなみに、これは「確認する、支持する、固く立つ、信ずる」という意味で、そこから「確かに、真実に」という意味になっているそうです。上のことばのしかり、も、アーメン、です。

 

まあ小難しい話はともかくとして、神様は、私たちに対して約束を必ず守られる方です。どうしてか?それはあなたを愛するが故です。本来私たちは神様にとっての喜びの存在として造られたので、神様はご自身の愛をあなたの内に現したいのです。

 

でも、私たちはこの神様の愛を拒否した…神様は創世記を見る限り、すべての食べ物、環境、またその人にとっての最高の伴侶をも備えてくださっていたにもかかわらず。それは私の満足するものではない、と。その伴侶を見た時最高の喜びの声を上げたのに…そして自らにもっと喜びを与える神を探し始めた、いや自らがその主権を奪ってしまった。

 

これ、聖書の中だけの話ではないのを私たちは実感するのではないでしょうか。しかしそんな彼らを神様は見捨てる事はできなかった。私たちがそうして神様から離れても本当の喜び、幸せ、愛、命を見いだせずに結局のところ彼果て死にゆく姿を見てられなかった。だから神様はそんな彼らの内にご自身を現された。

 

それは何を目的としていたのか?それは私たちを救い、取り戻す、神様の子として迎え入れたかった。その約束をずっと昔から変えることなく、そしてついに今から約2000年前に神様の御子イエス様を、人として生まれさせ、人と共に歩み、そのご愛を示し、時に癒し、その道を示し、悔いらために導き、最後は私たちの罪をすべて背負って、私たちの一切を身代わりに背負われ十字架で死なれた。でもそこで終わることなく、3日目によみがえらされたことによって、信じる私たちにも、復活の約束、そして神の子として受け入れてくださった、そこに神様の愛の約束を果たされたのです。

 

神様はその御子イエス様の十字架によって、信じる者には永遠のいのち、そして神の子として迎え入れてくださったのです。神様との親子関係に入れてくださったのです。そこにまっているのは時には試練もあるでしょう。しかし、その親子関係故に神様はあなたのうちに計画を持っておられる。あなたの内にあの天地創造の時に人に最善の全てを備えられたように、時に助ける人を与え、また主ご自身が共にいてあなたの内にご自身を現されされるでしょう。どんなふうに、かは私は神様ではないので分かりませんが。

 

だからこそ私たちはこの神様が語られる声に耳を傾け、御言葉に堅く起ちましょう。祈り求めましょう。そして最後はこの神様に全てをゆだねアーメン、と告白し委ねようではありませんか。

 

アーメンは「人に聞かせるものではなく」、「神様に対する」同意、委ねます、信じます、という「告白」です。まあそれゆえに、アーメンという事は軽いことではないんですけどね(;^_^Aもう「主の前に」アーメンと告白したなら、あとはでも、いやこの場合はそうもいかんでしょう、とか思い煩わず、信じ従おうではありませんか。主は御子イエス様ゆえにあなたを見捨てず、世の終わりまで、いや死して後もあなたと共におられるから、だってあなたは神様の子だから。