「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」
ミカ書6章8節
昨日死のことについて触れたのですが、実は聖書の中では死を見ずに神様のもとに帰っていった人がいます。その一人はエノクさんという人でした。聖書にも、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と記されています。
すごいですね。実は彼は、あまりに世が罪に汚れすぎてしまった結果、神様がやがて大洪水によって全地を滅ぼす計画を立てていることを何かで知ったのでしょう。彼は、そこで悔い改め、神様とともに歩み始めましたのでした。
これすごく大事なことかな、とふと思うわけです。確かに神様は私たちを愛しています。神様は私たちと共に歩んでくださいます。それは本当に豊かな神様の祝福です。が、私たちの側はどうなのでしょう?エノクは神様を喜び主体的に神様とともに歩みました。私たちは?
考えてみれば、神様は最初から人と共に歩み、その愛を惜しげもなく注がれ続けた。でも、人は神様と共に歩むことを選ばなかった。その愛に応答することを選ばず離れていった…でも私の求めているのは別なんだよね~私を満足させる事を「神様が」してくれない…などなど。これ、放蕩兄息子がそんな感じでしたね。
神様はそんな神様の側からのみの一方通行の関係を望んではいない。それだったら神様が御子イエス様を十字架にかけて殺してまで、あなたの罪を赦し、その断絶された関係を回復させる必要なんてない。だって、離れていったままならどうしてそこまでする必要があるか、という話なわけです。
神様はあなたを見捨てることができない、愛する子ゆえに、あなたの罪の身代わりに御子イエス様を十字架にかけ死をもって罰せられた。それほどに神様は愛されている、でも赦して終わり、元通りの関係ではない、神様が与える愛に応答する関係、信頼し従い歩む、そのような相互的な生きた関係、親子関係を願っているのです。
上の言葉にあるように、神様は、あなたがあなたと共にいる「神様とともに」歩む、歩き続けることを願っておられるのです。神様のみことばを思いめぐらし、味わい、そのいのちの中に生きることを選び取ることを。神様はイエス様の十字架にかけて、あなたを愛しています。
あなたと共に歩まれるし、そのご愛を今日もあなたの内に現したいと願って今う。それは私たちの、私の、あなたの思うものとは違うかもしれません。でも神様は私たちの思いをはるかに超えたベストをあなたのために御子イエス様とともに備えていてくださるのです。私たちはイエス様の救いをいただき、またなお、この主があなたに示され続けている愛を信じ、受け取り、この道を歩もうではありませんか。