ー変わらぬ約束、変わらぬ神様の愛ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと。神は私たちとともにおられる、という意味である)…見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

マタイによる福音書123節、2820

 

神様の私たちへ向けられた愛は変わらない。ずいぶん昔の話、イスラエルが敵国に苦しめられていた時、かつて神様が約束されていた真の救い主を求め始めていました。かつてアダムとエヴァがエデンの園で罪を犯してしまった時、エデンの園追放の前に約束された救い主誕生の約束、それを神様に求めていた、その中で神様のことばを与り民に語る預言者イザヤさんを通して神様は民に約束されたのが上の言葉。

やがて救い主が誕生する、しかもいつまでも共におられる。

 

何という希望だろう。しかも処女がみごもるという、人の手でなし得ることではない、神様が必ず成し遂げる、と誓われたのです。そして今から約2000年前、確かに神様は御子イエス様を私たちのところに、人となって送られたのです。

 

でも神様は大切なひとり子なる御子イエス様を送るくらいだからよっぽど平和な時代、平和な世界、場所に送られたのかと思ったらそうではなかった。最も弱い赤ちゃんの姿からお生まれになられ、人と同じような姿、罪を犯さないという事を除いては全く人と同じ性質を持たれていた。おなかもすけば喉も渇く、傷つけば血を流す。しかも当時ローマ帝国に支配されていたイスラエルの国に送られたのです。

 

神様を見失い、また絶望の底にいた人々のところに、共に生き、共におられ、ただ一緒にいるというだけではなく、彼らの内に愛を示し、癒し、また悔い改めに導いた。

 

ところが、人々はどんなに神様からの愛をいただいても自分の思う通りにならなくなった時には、自分の思う通りのことを思う時にしないイエス様を退け、弟子たちに至っては裏切って離れていってしまった。そんな彼らを見て、「いつまでも共にいる」という約束をイエス様は反故にされたのか?いや、しなかった。見捨てなかった。そんな彼らがこのまま死にゆくのを、やがて永遠の死を迎える、裁かれることを我慢できず、それでも彼らの罪を、悲しみも痛みも一切を背負われ十字架に、途中でやめることもできたでしょうに辞めずに架かられ、死なれた。

 

そして3日目によみがえられ、そして天に昇られようとされている時イエス様は、上のことばの後半の話をされた。裏切った弟子たちを見捨てる、十字架にかけた君たちなど知らん。まあ今回は赦してやったが、もうお前たちのことなど知らん、とは言わなかった。それでも、世の終わりまで、あなたと共にいる、と今日もあなたと共にいると約束されたのです。信じられますか?

 

神様の愛は時と共に移りゆくものではない。神様の思いは私たちと共に神様が永遠におられること、勝手に離れていった私たちを取り戻し、もう一度神様と共に歩む本来の私、神様の子として取り戻す事にあるのです。神様は裏切る弟子たちを見ても見捨てなかった。十字架にかけた裏切った民衆へ恨み言の一つ漏らすことなく、「父よ彼らをお赦し下さい。彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と赦しを請うた。わたしがあなたの罪の全部を引き受け身代わりに十字架に架かり、神様との断絶された関係を取り戻すから、だから神様のもとに悔い改め帰ってほしい、私たちが罪の赦しを受け、神様のもとに帰ることを願われたのです。その時、神様は私たちといつまでも死して後も永遠にともにおられるから。

 

何と感謝な事。でも忘れないでください。赦されて終わりではない。「神様はいつまでも共におられる」という約束は、昔で終わらない。あの絶望の時代の中にイエス様が来られ、ご自身を現されたように、共におられる神様は精神的支柱で終わるのではない、あなたがイエス様をあなたの内に、置かれた場所に迎える時、そこに神様はご自身を現して下さるのです。

 

今日私たちは主に立ち返り、なお神様を私たちの内にお迎えしよう。神様はあなたと共にいつまでもいたいと願っておられます。あなたはこのイエス様の言葉にどう応答するでしょうか?