「私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。」 詩篇119篇111節
聖書。神様から私たちへの約束、そして私たちをどれだけ愛しておられ、そのためにどれだけの事をされてきたのか克明に記されている…信仰者の失敗も包み隠さず書かれている。また、私たちがどのように歩むべきか、その道標も記されている。
聖書というとあれをしてはいけない、これをしてはいけないと、こう、私たちの自由を奪うようなイメージを持つ人がいますがそうではない、私たちの内に神様のご愛が、喜びが溢れ、私たちがいのちある者となるための神様からのメッセージなのです。
昔、アダムとエヴァが神様の御前に罪を犯した、神様を神様とするよりも、自分が神のようになりもっと幸せは別なところにある、と神様から離れたその罪故に、エデンの園を追放され、神様と断絶関係になりました。もう神様に見捨てられても人はおかしくなかった。
でも神様は見捨てなかった。見捨てることができなかった。だから、彼らがエデンの園を追放されて後も、神様は人の前に現れ、また語られ続けたのです。当時は今教会やお店に置いてあるような形で聖書はなかった(まあ何らかの形で記録に残されてはいたのですが(それを指し示すことも創世記という書簡の中にしっかりと記されているのですが))のですが、神様はそのご愛を、その御手を、御力を、なんとか彼らが神様のもとに立ち返るようにと示され続けたのです。
しかしどんなに神様がそのご愛を示しても人は神様のもとにいつまでも帰らない。そこで神様はずっと約束され続けていた、救い主、御子イエス様を私たちのもとに送られた。その約束は何千年前に、人類が一番最初に罪を犯したその時にされて以来、変えられることなく、人に約束され続けたこと。その究極の約束、愛を、私たちに現されたのです。そして私たちの内に住まわれ、直接目に見える形で彼らに愛を示し、道を失い、絶望の底にいる人たちを引き上げた。罪の中をさまよう人たちに悔い改めへ導かれた。死刑囚さえも悔い改めに導かれた。
でも、イエス様のなされたのは私たちの一時的なピンチを切り抜けるすべではなく、もちろん神様は私たちの困難な中においても今申し上げました通りその御手を伸ばされ救われましたが、しかし究極的なイエス様のご愛の目的は、私たちの罪を全部背負い十字架に架かられる事。私たちの罪も病も痛みも何もかも。そしてそれらをご自身のいのちと共に葬り去り、復活される事で、イエス様を私の罪の贖い主として信じ受け入れる人に罪の赦し、永遠のいのち・神の子としての特権を与えられたのです。
そう、聖書に記されていることは、いや神様の私たちへのメッセージの究極はまさにここにあるのです。私たちが悔い改め神様のもとに立ち返ること。そして「永遠のゆずり」、つまり罪の赦しを受け、神様の子とされ、神様と永遠に生きる、それを受け継ぐことにあるのです。神様がいかにあなたを愛され、そのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず死に渡されあなたを取り戻す、それほどにまであなたを愛しているその愛が。
そしてもう神様から離れ、また再び神様のいのちから離れることがないように、そのいのちの道をも記されているのです。ここに愛があるんだ、我に帰れ、ここにいのちの泉が湧き出でる、と。そこにいのちがあり、平安があり、喜びがある。あなたを導く道の光がともされている。
私たちは、あなたは、神様の子とされた「永遠のさとし」、を心の喜びとしていますか?御子イエスさまさえ惜しまず与えられたその愛を忘れていませんか?これをしっかり心に結び付け、喜び、いつも神様に立ち返り、その御声を祈り・また御言葉に聴き、神様と共に今日も明日も歩もう。