「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さの内に完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ喜んで私の弱さを誇りましょう。」
Ⅱコリント人への手紙12章9節
イエス様の恵みは私には十分。不足が無い。それはすごい話ですね。私たちは様々な場面で足りない、もっともっとと思う。それは自分の満足するもの・結果を得ていないから。
実は昔のイスラエルの民もそうだった。神様がここを与えるよ、と約束された場所を目指して旅をしていた時、飲み水も食べる物もない中、神様が毎日のように備えて与えて下さっていたのにも関わらず、すぐに神様を忘れる...ついには自分の思う時に思う通りの結果を与えない神様など神ではない、と自分たちの思う通りになる偶像を作り出す始末だった…
でも神様は彼らが大切な存在ゆえに、ベストを与えようといつも考え、彼らがエジプトの奴隷で辟易し、衰え死にゆくのを我慢できず、神様は彼らを救い出し、神様のいのちが溢れる生涯へと救い出したのです。しかし、彼らが求めていたのは自分を満足させる道具的神であった...そして神様から離れて行ったイスラエルの民のほとんどは途中で結局は打ち滅ぼされるなり、約束の地に入ることが出来なかった。自分でここにいのちがあるんだ、神様なんていなくても大丈夫、と思ったところには命はなく、結局はそれらは朽ち果てて行き、死へと向かって行ったのでした。
私たちは忘れてはいけないのは、上のことばのように、確かに世的に見たら私たちは弱い、不足だらけなのかもしれない。神様が恵みを十分に与えて下さるって言っても、何もいい事が無いじゃないか、と「世的」に見たら言えるような状況にいるかもしれない。しかし、神様が私たちの内に現したいのは「世的」な満足、一時的な満足ではない、神様ご自身が共に歩まれ、あなたの内にいのちを溢れさせたい、その力であなたを覆いたい、と願っているのです。
だからこそ、失われた、神様からかってに離れて行ってしまった私たちを取り戻すために、神の御子イエス様を身代わりに私たちの罰を負わせ、死なせてまであなたを取り戻された、神様の子へと変えて下さったのです。これ以上の恵みはあるだろうか。
神様はあなたを一時的に助けたいために働かれるのではない、あなたのいのちそのもの、死に向かい闇に閉じ込められたあなた自身・存在そのものを取り戻し、本来ある神様のいのちであふれさせる、いやこの地上の一時に限らず、死して後にも永遠に神様の懐で喜び生きる者とさせて下さったのです。
それほどまでにあなたを愛された神様があなたを不足させることがありましょうか。「世的に」は不足に見えても、神様はあなた自身をその愛で覆い導かれる。あなたのベストを知り、あなたを導かれる。十分、いや十二分に満たされるのです。だってあなたは御子イエス様のいのちをもって買い「戻された」のだから。
信仰の父アブラハムさんという人は波乱万丈の生涯でありながら、本当に苦労も多かった中でも、「十二分に満足して眠りについた」と誰しもが認める程の死の迎え方だったそうです。彼にとっては神様がいる生涯こそどんな財産にも勝る喜びだったから。
さて、あなたは今日イエス様と共に歩むことが許されていることを喜んでいますか?あなたはその主権を自分で握っていないだろうか?神様にこれを明け渡すとき、今日、あなたのうちに、神様の溢れんばかりの恵みが、力が覆う…
今日、神様に自らを明け渡し、神様、あなたが私と共にいるだけでも十分です、と告白し主と共に歩もう。その時、世も私も想像できないはるかに神様のいのちに溢れたあなたが始まるから。