ーケチなのではなくー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』…そこで、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません』」 創世記21617節、34

 

神様はケチなのか?

まあこんな事を言うのも神様に失礼かもしれませんが(;^_^A祈りを聞かあしれない、私の思う通りにしてくれない…ケチ、という言葉を使わなくとも、それにあたるような思いを持つのが人。

 

神様はその昔、天地万物を造られました。それはもう、今では考えられないような完璧な世界でした。それを見て良し!と言うほどに完ぺきだった。その出来を見て、うーん、いまいちだなー、なんておっしゃらなかった。それは人間に対してもそう。非常にいい、そういわしめるほどでした。

 

そして人は神様とエデンの園というすべてが供えられた完璧なところで生きていました。そしてそのの中にあるものは何でも食べていいよ、と。すごいですね。なんでも食べていいんですって。何と気前のいい神様。ところが、神様は一つだけこれはしないでね、ということを言いました。それは「園の中央」にある木・善悪の知識の木からは取って食べないでね、と。

 

なんだ、やっぱり神さまはケチなのか?

いえ、違う。「園の中央」、それは神様の主権。神様は私たちを最高の存在として造られたし、喜びの存在ゆえにあなたを祝福し、いのちであふれさせたいと願っている、でもその神様の計画、主権を私たちが侵害してしまうなら、まさにサタンが言うように肉体的には死ななくても、霊的な、神様との命ある関係が「死ぬ」、断絶され、最後は永遠に神様から引き離されてしまう。それを神様は惜しまれた。あなたが命を失っていくことを我慢できな。だから、そうおっしゃられたのです。

 

しかし残念ながらアダムたちはこの主権を神様から奪い取ってしまった。私が望むままになりたい。私が主権者なんだ、と。確かにそれで彼らは美味しい実を食べられたかもしれない。ただ結果として神様から引き離されて行ってそこに見たのは何だったのだろう…

 

でも神様は彼らを、そんな神様を神様とすることができずに、いのちが失われていく私たちを神様は見捨てることができず、代わりに十字架をたてられた。私たちが神様から断絶され、「死」ななければならない、霊的ないのちさえ失っていくそのような罪を一切背負い十字架に御子イエス様を架けられた。そして、私たちをもう一度神様のいのちあふれる子、神様の子へと回復させてくださったのです。

 

私たちは神様の主権を奪ってはいないだろうか?

神様、信じているよ?でも、神様を神様としていますか?存在を信じている、で終わっていないでしょうか?神様はそこいらの八百万の神と同列に並べるようなものではない。神様は昔も今もこれからも存在し続ける神様。あなたのためならご自分の大切なひとり子なる御子イエスさまさえ身代わりに十字架にかけ死なせることさえできるお方。それほどまでにされたのは一時的にあなたを振り向かせるため?いえ違う。あなたとの本当のいのちあふれる関係を取り戻すため。

 

今日私たちは主権を神様にお返ししよう。私たちがそれを欲さずとも、御子イエス様さえ惜しまず与えられる神様があなたに、真のいのち、それだけではない、私たちが本当に必要なことを教え、また与えないはずがないでしょう。今日神様に主権をお返しする、神様を神様とし、神様と共に今日も明日も歩み続けよう。