「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。 『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」
ローマ人への手紙10章11‐13節
彼に信頼する者は、失望させられることはない。あなたにとってのその「彼」はだれですか?それが大きく私たちの生涯を左右させるでしょう。あなたにとっての「彼」は誰ですか?ここで言っている彼、というのは神のひとり子御子イエスキリスト様の事を言っているんですよね。
人の愛には限界がある。価値観が変われば昨日までよかったことも今日にはひっくり返ることもある。でもイエス様は昨日も今日も明日も決して変わらずあなたを愛しているんです。ただ私たちがそれを知らないだけなんです。
イエス様からしたら十字架によって死に渡されるだなんてあり得ない話でしょう。実に十字架に架かる前夜、イエス様は苦しみ悶え、血の汗を滴らせるほどに苦しまれた。できればこの盃・十字架によって死に渡されることを避けさせてほしい、と。でもイエス様は、私たちが「救われる」ためならこの盃を飲もう、と決断され立ち上がったのでした。
イエス様はもう数時間後には弟子たちが裏切っていくことも知っていた。でも、その弟子たちの顔を見て、のちに生まれてくる私たちの顔を思い浮かべながら、この者が救われるためなら喜んでこのいのちを差し出そう、と決断された。それほどまでにあなたを愛し、命を懸けてあなたを取り戻された、愛を注がれた、父なる神様のもとに引き戻されたのです。そしてそれゆえに、イエス様を「救い主として」呼び求めるならあなたは罪の赦しをいただき、救われる…神の子とされる…新しいあなたとされる。だからこそその神様に信頼する者は決して失望で終わることなく希望を与えられている。あなたはイエス様のいのちにかけて神様の子とされたという最大の希望を。
「失望させられることはない」「ゆらぐことはない」「救われる」のはこのイエス様の愛ゆえにです。「彼」をあなたのためにいのちさえ惜しまず与えたイエス様と認め、信頼するからこそ、私たちは、あなたは失望させられることはない、揺らぐこともない、救われる(あらゆる意味で)のです。「信頼する」、今の状況の中に置いてイエス様が共にいてくださること、そして導かれたことに、言葉に信頼し従うなら。私たちのためにさえどん底にまで下りてこられたイエス様があなたの内に生きて大胆に働かれるでしょう。
黙ってても神様が勝手に何かしてくれる、なんて思いたいところでしょうが、主をあなたの主として迎え入れなければ、認めなければそれこそ安心しますか?その状況に神様が置かれた中でむしろ失望しないだろうか?でもイエス様を主として告白するなら、迎え入れるなら私たちに確信、力、また希望さえ与えて下る。あなたは誰に信頼しますか?「彼」を誰と告白しますか?