「…あなたがたの父なる神様は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ…』」。
マタイによる福音書6章8‐9節
あなたの祈りを聞いてくださっている方がいるって知っていますか?人は何か善行を積んだら祈りが聞かれるとか、たくさんお金を捧げたら聞かれるとか、何か償いをしたら聞かれるとか、聴かれたかわからないけど、何となく聞かれた気がするとか、そんなあいまいな感じになっているんですけど、実にあなたの祈りを神様は知っています。
このことばを神の御子イエス様は誰に語ったかと言ったら、何か特別な弟子たちだけに語ったのかと思ったらそうじゃないんですよ。イエス様についてきた群衆に向けても語られたんです。別に誰かお偉いさんだから、一生懸命善行を積んだからこんなことを言ったのではないんです。それでも、神様はあなたがたの必要を知っているからこう祈りなさい、とおっしゃるんです。祈りなさい、と勧めるという事はその祈りは聞かれる、という事。いや何よりあなたの必要を知っているとは何とすごい事だろう。神様が、ですよ?どこかの家族がたまたまあなたの必要を知って助ける、とかではない、神様が知っている、何という恵み。
実は、本来私たちは神様に祈る資格なんてないものなんです。この場にいた弟子たちだって群衆たちだって。だって、私たちは神様から勝手に離れていった罪人だから。あなたにわたしの何がわかるんだ、あなたよりきっともっと私を満足させる神(偽神、まあそんなものは存在しませんが)がいるに違いないと勝手に離れていってしまったもの。どうしてそんなあなたの事を神様が心配する必要があるか、願いを聞く必要があるか…
もはや父なる神様、となんて呼ばせていただく資格なんかなくなっていた。お前などわたしの子ではないと、見捨てることさえできた。実に十字架上でイエス様が私たちの身代わりに裁きを受けられた時、イエス様でさえ「父なる神さま」と呼ぶことさえ許されなかった…
それでもイエス様が祈る事を教えられたのは、それでもあなたを見捨てられない愛、そしてそのあなたとの失われた、死んでしまった、断絶された関係、あなたが死していくしなかいところから救い出し、あなたとの本来の親子関係を取り戻すために十字架に御子イエス様をかける、という約束ではないでしょうか。
だから言葉だけだらだら並べたような祈りじゃない、外見を着飾る必要だってない。何か死んだ神ではない、聴いても答えない虚しいだけのものに頼るのではなく、心を寄せるのではなく、あなたを思い煩わせるもの、罪、あらゆるものから目を天に向けよ、たとえ何も見えないようなところであろうとも、あなたのために御子イエスさまさえ惜しまず与える方があなたの祈りを聞いている、そう約束されているのです。何よりあなたにとっての最大の必要、罪の赦しと永遠のいのち、このために御子イエス様を身代わりに死に渡すことさえできる方があなたの祈りを、必要を知っているのだから。私たちがこのイエス様の十字架による救いを受け入れる時、私のためのものでしたと、信じ受け入れる時、この祈りは本当に生きたものになる。
あなたの神様は誰ですか?あなたは誰に心を注ぎ、祈りますか?それほどまでに愛された神様に何を求めますか?
この回復された親子関係故に祈っていいんだよ、とイエス様が教えてくださったのですから、後はただ神様の声を待ち望みましょう。神様が私のために最善を知り御子イエス様を十字架にかける行動に移されたように、あなたのために最善をなして下さると信じ、ゆだねようではありませんか。その時、祈りの結果が思う通りではなくとも神様はもっと最善に導いてくださるから。だって、あなたの祈りを聞かれる方はあなたのために御子イエス様を身代わりに死に渡すことさえできる方だから。