「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」
マタイによる福音書5章5節
イエス様はある時、私たちに柔和である事を勧めたのですが、柔和って何でしょうね。物腰が柔らかい人の事?偉大なるYesマンである事?まあ確かに物腰柔らかければその場の雰囲気が何となく良くなる感は否めませんが、意外に、仕事において偉大なるYESマンや物腰が柔らかい人が出世するかと言えばそうとは限らない(政治の世界はまあ、まあ、って感じですが)。
でも神様がおっしゃりたい地はそういうものではない、また柔和というのはそういう意味ではないのです。柔和であるという事は、「神様や他の人に対する穏やかで、従順である事、神様に従う事」なのです。そこに豊かな御国が広がっていくのです。
昔イサクさんという人がいました。アブラハムさんという偉大なお父さんが彼にはいたのですが、彼はお父さんがどうのこうのよりも、その神様を慕い求めていました。だからお父さんは偉大だ、私も勝手に祝福されるだろう、私は偉いんだぞ、と決して高ぶることもありませんでした。
そんなある時彼の住む地に飢饉が訪れて、さあどうしようか困っていた時、神様が「わたしの示す地に住み、滞在するように」と言われ、そこに留まった結果、彼は大いに祝福されていきました。飢饉で井戸が枯れようとも彼が掘ればどこでも水が沸き上がった。また、地に種をまけば百倍の実が、収穫を得るのでした。
またある日、彼があまりに祝福されるので彼をねたんだペリシテ人たちが彼の井戸を土で埋めたりする妨害行為をしましたが、イサクは争うことをしませんでした。彼は神様や他の人に対する穏やかで、従順だった。神様が私にいのちを与えてくださる、私の神様なんだ、私にここにとどまりなさい、というんだから、大丈夫、と確信に立ったのでした。結果、何と、敵国とアビメレクと友好条約を結ぶのでした。何と神を神とも思わない民に、イサクのうちに生きて働かれている神こそ真の主、と告白させるに至ったのです。イサクの従順によって神様を恐れるものとなったのです。イサクは争って勝利をとるよりは、一歩身を引いて、一途に神様を信頼した、その中に神様は豊かに彼の地を祝福されたのでした。
イサクがとどまっていたのはまさに神様ご自身。さてさて私たちにとっての留まるべき場所はどこなのでしょう?私たちは誰に信頼を置くべきなのでしょう?そう、神様ご自身。
本来私たちは飢饉の訪れた中に住まうイサクのような状態だった。何のいのちもかけらもない。もはや飢えて死んでいくしかなかった。でもそんな私たちをあわれまれた神様は、あなたが行くべきところはそこではない。あなたがこのまま滅び行くことが我慢できない、と御子イエス様を私たちのところに送られご自身が共に歩まれた。そして私たちの罪もその呪いも痛みも悲しみも一切引き受けられ十字架に架かられたのです。そしてその流された血潮によって、埋められてしまった、からっ空になった井戸に水を満たし、砂漠に水を、いのちをもたらされたのです。あなたの死に行くいのちにその血を注ぎ、新しいいのち、土地へと造り変えられた、あなたを飢え乾く奴隷としてではない、神様のいのちがあふれる神様の家族へと取り戻して下さったのです。
もう私たちは神様から離れてはいけない…それはあなたを惑わす多くの問題や戦いもあるでしょう。でも昨日もちょっと書きましたが、神様はあなたを寝ずの番をして守られる方。イエス様のいのちにかけて、あなたを取り戻した方。その神様のうちに留まる時、もはやそれらの戦いも問題もあなたに打ち勝つことはできない。枯れた井戸は水のあふれる井戸へ、食べ物のない所にもいのちが、アマレクに神様を認めさせた神様があなたの内に生きて働かれるのです。
「子どもたちよ。あなたがたは神様から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者(サタンを含めあらゆる苦難・問題・戦い)よりも力があるのです。」とあるようにこれらはあなたに打ち勝つことはできない。
私たちがイエス様を救い主として受け入れるなら、もうあなたは神様のもの。私たちはもう一度主の前に帰り、救われたからはい、終わりではなく、主のことばに信頼し従い歩もう。その時あなたの地は神様が生きて豊かに働かれる地、またあなたに変えられるから。世の悩み、サタン、アマレクにあなたの土地が奪われることが内容、主にしっかり今日繋がろう。