ー寝ずの番をされる神様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。」出エジプト記1242

 

神様が寝ずの番をされた。いや今もされている…神様は救い出したからとは後は好き勝手に生きなさいと放り出したわけではなく、私たちを今日も寝ずの番をされながら導かれる…

 

この話は、昔エジプトでイスラエルの民が奴隷としてとらえられ、闇と絶望、神などどこにいるんだ?そのような状況の中にいた、その時神様は、彼らをその心に留め、また彼らを見、彼らの叫びを聞き、下って来られた。そして彼らを救い出すために行動に移され、ついにイスラエルの民はそのエジプトから脱出する事となるのでした。

 

でも神様は、そうか、困っているのか、じゃあ助けてあげよう→助けた→じゃあね、後は頑張ってね、とはしなかった。神様はエジプトの追っ手から守るために寝ずの番をされた、もしくはさあ救いはこっちだ、っとその手を差し伸べられていた…何と驚くべきことに、この時エジプトから出たのは神様を信じるイスラエルの人たちだけではなく、エジプトに愛想をつかし、イスラエルの上に神様が働かれるその様子を見た外国人たちも一緒についていきたいと脱出していくのでした。そして神様は先頭に立ってイスラエルの民の行く道に同行し、彼らを地図のないその道を導いていくのでした。約束の地まで。

 

神様は私たちのある1点、困った時だけ助ける、そんな関係を望んだわけではないのです。神様から離れた、もういのちを失いしぼみ、死に向かっていくしかない私たちのいのちそのものを取り戻したかった。だから、神様はご自分の御子イエス様を私たちのところに送られ、住まわせ、ご自身のご愛を、御力を現し、またここにいのちがある、と悔い改めに、神様に帰るようメッセージを語られた。そしてそれでも信じることのできない、今ひと時の平安を求める彼らのため、神様を神様と認めることのできない彼らのために究極の愛・十字架で彼らの罪の身代わりとなって、私たち、私、あなたと神様の断絶された関係を修復された。無実の罪で十字架にかけられたのに、そのかけた、裏切ったその彼らのために、どうか彼らを赦して下さい、彼らは何をしているのかわからないのです、と神様に乞い願った…私が彼らの罪を背負うから、どうか、と。

 

時々助ける程度の関係だったら、神様はわざわざ御子イエス様を、大切なひとり子を、殺そうとしようとするとわかっている人たちのところに送らないでしょう。裏切るとわかっているような人たちのところには送らないでしょう。

 

御子イエス様のいのちにかけて、あなたが神様から離れていのちが失われていく、滅びに向かっていく事を望まない。だから今日も神様は寝ずの番をされながら十字架の愛を示し続けている。あなたの希望は、喜びは、救いは、いやまことの神様はここにいるんだ、さあ我に来よ、と。救いを受けよ、と。わたしは、神様はここにいるんだ、と。あなたを神様のいのちがない、死した罪の中から救い出し、取り戻し、永遠のいのち・神の子として特権を与えたいのです。困った時の神頼みの関係ではない、もっといのち溢れる、あなたの生涯全体に及び神様が共に住み、ご自身の愛、御力、ご栄光、ご計画をあなたの内に現したい、と。そしてそこに留まらず寝ずの番をもってあなたの生涯を今日も導かれる。たとえ水も食料もないような砂漠のようなあなたの今日であろうと道であろうと主はあなたと共におられ、守られる。

 

今日、私たちは主のもとに帰りましょう。十字架に帰りましょう。そして神様不在の世界から踏み出して、神様の差し出された御手を握りしめ歩みましょう。神様は寝ずの番をされる、「見よ。イスラエル(あなた)を守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」神様が、御子イエス様を十字架にかけるほどに愛される神様が今日あなたと共におられ導かれるから。あなたが天の御国に行くその日まで、いやそれ以後も。

そしてイスラエルの民が寝ずの番をしたように、私たちも世の人たちにイエス様の愛をもって仕え、証していきたいものです。