「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。』」
レビ記19章9-18節
聖書にはすごくたくさんの事が書いてあります。その中で神様が最も大事な事は2つである、そこに全てが集約する、とおっしゃられました。1つは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(最近ではいのちを尽くしてと訳されていますが)。もう1つは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」。この2つに全て集約する、と。神様の御心を求める、従う、信頼する…それこそ神様を愛すること。その神様の愛をもって私たちは世を愛する事をも神様は求めておられる。
↑はその律法の一部、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という中の具体例を挙げたのが↑。まあこの愛の実践と言ったら本当に色々あるんです。↑で挙げたものはほんの一部。手すりをつけるとか、今でいうところのバリアフリー的な命令も実はあったりします。
それにしても、神様は社会的弱者に目を留めておられるように上を見ると思える。貧しい人たちが生活に困窮しないように、畑仕事の際、落穂は拾わず彼らが生活できるようにそのまま残しておいてあげなさい、とか、人の大切にしているものを盗んだり、欺いたり陥れたりしない、とか。隣人をしいたげない、中傷しない、ちゃんと給料を払う、耳の聞こえない人を侮らない、目の見えない人の障害になるものを置かない…
これらを見ていると、私が思うのは神様の目は本当にこまごまとしたところにまで行き届いているんだな、と思わされるわけです。一見すると、それはそうだよね~とモラル的に思える内容ですが、神様は私たちに隣人を愛するように、の前に神様はそうした人の目に届かない、愛の行き届かないところにまでその愛を届けたいのです。気にかけておられるのです。
私たちはこと問題があったり苦難困難の中にいる時、神様はわたしに目を留めていない、私の事なんて愛していない、そう考えたくなるのですが、しかし神様は当時誰の目にも留められないような人にまで気をかけておられた。目を留めておられた。私たちが知らないだけで神様は私たちのことを心配してくださるのです。
しかし、神様の愛は、私たちへの愛は、ただ心配している、思っているよ、とかそういう薄っぺらいものではない。神様は愛を実行されるのです。え?↑を見ると人任せにしか見えない?そんなことはないんです。神様は、旧新約時代一貫して、天地創造から一貫して、その愛を注ぎ続けている。この天地万物を保持され、私たち一人一人を生かし、作物を生えさせすべての必要を、私たちが当たり前と思っているだけで備えてくださっているのです。
↑の律法が語られる前、イスラエルの民はそれをリアルに体験していました。エジプトの奴隷として捕らえられていた時神様の憐みによって救い出された。でも救い出して終わりではなく、彼らが安心して住める、神様が養われる最高の場所へと連れて行こうとされた、何もない荒野の中で、水も食べ物もない中で毎日神様は生きるに必要な全てを備え、毎日食べ物を備え、敵との戦いにおいても守られた。実はこの先の闘いでは地球の自転を止めてでもその戦いに勝利させる、なんてこともあるんですよ?
そして、その愛の究極の形として神の御子たるイエス様をお与えになられた、私たちに。罪人、神様を裏切る者たち、神様を神様とも思わず、思っても神頼み程度の操り人形だったり。しかしそんな目にも留めてもらうに値しない人たちのところに来られた。そして、イエス様の目的、私たちの罪を贖い救うため、だからさっと来て、十字架に架かって、とすればいいところ、赤ちゃんとして生まれてこられ、人と同じ歩みを歩まれ、苦労を負われた。そして霊的な事だけではなく、具体的にも彼らの苦難困難に答え、癒し、慰め、その道を示され続けた。神様の愛を届けて行かれたのです。受けるに値しない者たち、裏切るとわかっていても、それでも彼らがいのちを受けてくれるなら、と。
神様は、復讐、呪いを私たちに架ける事を選ばず愛される事を選ばれた。落穂さえ残さず裁きつくすのではなく、その憐みを私たちに示される事を選ばれた。虐げられ見捨てられるべき私たちを愛された。そのまま容赦なく罰する事よりも、十字架による救いのすべ、釈放の機会を示された。全部その身に、御子イエス様の十字架にこれらの罰を負わせ、私たちが神様に対して犯した罪に対する復讐を、御子に負わせ罰し、私たちの身代わりに死なせたのです。私たちを罪人としてではなく最も身近な隣人としてくださった。神様の家族とするために、神様の子として迎え入れるべく、この愛を示された。
しかし死んで終わりではなく復活されたことで、復讐で終わりではなく、回復、その愛をわたしたちはその実に受ける事が赦された。御子イエス様のこの十字架の前に罪を悔い改めるなら、イエス様を救い主として受け入れるなら、あなたの罪によって崩された、汚れてしまった、弱り切ってしまったあなたは神様の愛が多い、回復され、いのち溢れる者としてくださるのです。究極の隣人となってくださったイエス様があなたの内にその愛を、御心を注がれることによって。
もう、私たちは罪の中を歩むのではなく、神様の御心の中、この新しいいのちの内を歩もう。このイエス様の愛をいただいた者として、このイエス様の愛があふれ流れていく事を何より願おう。その中において神様の御心を願い歩む中において神様の栄光が現され、御心があなたを通してあふれ流れさせてくださる。そこが神様の国と変えられる。私たちは、神様に信頼し従い隣人に仕え生きる中で、その中にイエス様が共におられ、そこにイエス様の治める御国がなるのです。天国の前味を私たちは味わうのです。
このイエス様のくださった新しい復活のいのち、究極の愛の内を歩もう。もっともっとイエス様がその御心を現して下さる事を期待し歩もう。あなたの周りが、復讐したい、とまで行かなくても嫌いな人たちがイエス様を信じたらどれだけすごいことになるか想像つきますか?あなたの人生を変えてくださった主が、復讐の対象としてではなく愛する対象としてあなたに御子のいのちを差し出された、死をいのちに移し替えた神様がなされる事、期待せずにはいられないじゃないですか。私たちはイエス様のいのちを持って買い戻された用意された神様に信頼し委ね歩もう。