ー十字架によって釈放された今ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、『行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい』と言った。…彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、言った。『あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。』ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。『人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちは彼にあってそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。』」

使徒の働き5章12-32節

 

私たちは奇跡というか素晴らしいことには目を見張る。でも、奇跡が無ければそこから離れる。これは神様を信じている人でもなくてもある話。でも、私たちは実は最大の奇跡を見ている。体験している。いただいている。それは御子イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架に架かられ死なれた、そしてよみがえられたという。でもそれだけではなく、これによって私たちの罪が赦され神様の子とされた、これ以上の奇跡はない。あり得ない話。でもそのありえない「事実」をあなたの内に神様はなされた。そして神様と和解され、神様の子とされた。こんな素晴らしい話、ありませんよ?あなたはこの素晴らしい事実を信じ受け入れていますか?

 

さて、↑はそれこそまさに神の御子たるイエスキリスト様が、人となってお生まれになった、まあそれだけでもまた奇跡的な話なのですが、そして私たちの間に住まわれ、生きられ、あらゆる愛を現し、多くの奇跡をおこなわれ、最後には裏切る弟子たち、群衆たちを見捨てず、十字架に架かられ死なれ、3日目によみがえられ、天に昇られた、その後の出来事です。

 

その復活のイエス様と出会い、この素晴らしい愛に触れられ、多くの人たちが罪を悔い改め、イエス様を救い主として信じ受け入れ、教会が誕生しました。イエス様は復活の後に、なんと裏切者たちを裁くのではなく赦された。神を神ともせず、殺し、自分勝手に生きる彼らを裁くためではなく赦すために彼らに現れ、ご自身の交わり(分かりやすい言葉で言うと交流)の中に招き入れてくださった、神様の家族の中に、子として招き入れてくださった。

 

使徒と呼ばれる人たちはこの新しくされた神様のいのちの内を歩んでいました。彼らが特別何か変化した、というわけではない、神様を自分の主として受け入れた、それゆえに「神様ご自身が」彼らの内にその御心を現され、彼らのうちに生きて働かれながらその生涯を導いていた、生かされていたというだけの話なのですが。

 

↑を見ると、弟子たちが多くの奇跡を行った、とありますが、実は弟子たちにそんな能力があったのではない、神様を主として受け入れた、彼の内に働かれる神様の御業が彼らを通して現されていたというだけの話。そう、奇跡が神様と人を繋ぐのではない、神様と人が繋がるからこそ神様の御心が現されるのです。神様に信頼しているからこそ。

 

奇跡だけで繋がる関係では彼らはここまでではなかったでしょう。何せ、この前にもイエス様の話をしたら掴まって鞭打たれ、なんてことがあった。神様を信じているのにどうして神様はこんな目に合せるんだ?とは考えなかった。神様と和解されたこのいのちの関係はそんな世の迫害や力は打ち勝つことができないのです。どれだけ彼らをとらえようとしても、イエス様の大いなる業を押しとどめる事などできない。神様の御心を押しとどめる事はできない。弟子たちをとらえていた人間たちの価値も、物理的な牢も、彼らをとらえる事はできず、神様ご自身がその扉を開かれそこから脱出させてくださったのです。

 

これを見た宗教家たちは、弟子たちはイエスを十字架に架けた血の責任を我々に負わせようとしている、と弟子たちに言いますが、事実は違う。いや、確かに彼らがイエス様を十字架に架けた、でも弟子たちだってイエス様を裏切った、十字架に架けた犯人としては同罪です。しかし、この血の責任、私たちが神様の前におかした罪の、血の責任を実は、御子イエス様ご自身が負って払ってくださったのです。ご自身のいのちをもって。

 

弟子たちも、当時のイエス様を十字架に架けた宗教家たちも、私たちも永遠の裁きというその牢に入れられなければならない中、御子イエス様がそのいのちを持って支払ってくださったからこそ、この牢から出る事が赦され、神様の子として受け入れられたのです。元罪人としてではなく、神様の子として。復活のイエス様は、十字架に架けた人たちを裁きに来たのではなく、私があなたの罪の代価を支払った、さあ神様の元に帰ろう、と罪の奴隷である私たちを連れ出し神様の御元に招かれたのです。

 

世の価値観、悲しみ、痛み、何より罪から、サタンの手からあなたを解放し、神様のいのちが、御心があなたを覆い、御子イエス様にあって新しく造り変えあれる、その復活の恵みに私たちを招くべく、イエス様は十字架にそのいのちを投げ出された。罰せられた。これこそ最大の奇跡です。別に神様の奇跡を否定するわけではない、でも神様の御心があなたになるなら、それは人間の常識では測りきれない。

 

神様は牢から出された弟子たちに「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」とおっしゃられた。私たちを神様が支えるから、この神様のみことばに、この福音にしっかり立つように、と。この前に世もサタンも、あなたの痛みも過去も、傷も、何者もあなたを神様から奪い去る事などできない。神様の御手があなたの内にあるのだから。主があなたという宮の中に住まわれているのですから。私たちはこの復活のイエス様にあって和解された神様に信頼し歩み続けよう。

 

「人に従うより神に従うべきです」。十字架による和解、これを受けなければどんなに成功しようとも意味がない。神様があなたを建て上げるからこそ、本来あるべきあなたとなれる。あなたのお心以上に神様の御心が成る事を願い求めよう。イエス様の十字架によって開かれた罪の牢獄から出、主イエス様と共に歩もうではありませんか。