ー老若男女、みんな楽しむー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「次のような万軍の主のことばがあった。万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。』主はこう仰せられる。『わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。』万軍の主はこう仰せられる。『再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。』万軍の主はこう仰せられる。『もし、これが、その日、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。―万軍の主の御告げ―』万軍の主はこう仰せられる。『見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の入る地から救い、彼らを連れ帰り、エルサレムの中に住ませる。このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義をもって彼らの神となる。』」 ゼカリヤ書8章1-8節

 

神様はあなたを愛しておられる。ねたむほどに。神様は、私たちを喜びで満たしたい。老若男女問わず。その愛は永遠にまで及ぶ。一時のものではない。神様はあなたを今日も愛しておられる。

 

さて、↑は預言者ゼカリヤを通して神様が語られた事。神様は時に預言者という人を遣わされ、彼らを通してご自身の思いを語られる。それは時に厳しいことばであったり、時に優しいことばであったり。でも神様の思いは一貫している。それは、私たちに命を得てほしいこと。真の命を得てほしい、神様の素晴らしい恵みの中に、神様の家族の中に、神様の愛の中に招き入れたいゆえ。

 

時々聖書は、神様は厳しいという声を聴くんですけど、ちょっと考えてほしいのですが、愛するわが子が危険の中にいるとき何もいわずいいよいいよと放っておきますか?親は子の幸せを願う。同じなんです。神様もご自身の手で丹精込めて作られ命を与えられた神様にとって、あなたはとても大切な存在なのです。

 

話は戻して、そのゼカリヤに神様は↑のように語るのでした。当時ゼカリヤが使わされていたイスラエルは、バビロン捕囚を経験していたこと頃でした。国は廃墟と化していました。民はバビロンにとらえられ、もうどうにもこうにもならない。いつになったら帰れるのか、いつになったら人らしく生きられるのだろう?

 

しかし、神様はゼカリヤを通して語られた。見捨てていなかった。見捨てているなら、そのまま捨て置きます。神様を捨て、神様がこれまで養い守ってくださっていたのに、それこそ恩をあだで返すようにしていた。それなら見捨てられても当然。しかし神様は、彼らを愛していたのです。ねたむほどに。あなたが他の民にとらえられている、神様以外のものを神様としてより頼んでいるのをねたむ…というよりもそうして命を失っていくことを、いったことを、彼らを愛するが故に悲しまれる、裏切られ続け、言いように神様を利用しようとする彼らでもそれでも、彼らを愛するがゆえに悲しまれるのです。

 

だからこそ、神様は↑のように語れた。悲しみを喜びに変えるために。本当に素晴らしい表現だと思いませんか。「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう」と。連れ戻されるだけではない。「遊ぶ」ほどに喜び楽しめるように神様ご自身が回復させてくださる、神様の御心が彼らを覆い、回復させ、遊び楽しみ喜ぶ、そのような中に招き入れる、回復させると約束されたのです。

 

だれが廃墟になった神殿、国を見てそんなことを想像しえようか、しかし「神様が」それをなす、と宣言されたのです。裏切り者の彼らを捨てず、むしろ回復させる、と。信じられるでしょうか?しかしこれこそが神様の愛なのです。

 

さらには「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の入る地から救い、彼らを連れ帰り、エルサレムの中に住ませる。このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義をもって彼らの神となる」と。必ず今とらわれ人にあろうと救い出し、ご自身の民に、家族に加える、神様ご自身が真実と正義をあらわされるその新しい命の中に招き入れると約束されたのです。老若男女問わずその人その人のうちに一人一人のうちに神様の正義と真実がなる、と。

 

なるほど、神様の愛はすごいんだね、では実はこの予言は終わりません。これは御子イエス様にあって私たちのうちにも成就します。本来私たちもまた、イスラエルの民のように、神様を神様とせず、神様から離れ、疑い、捨て…そのような罪の中に私たちはあり、この世に、サタンの手にとらえられてしまっていた。神様はイスラエルを守られたように私たちをも守り養っていたのに、いらないと離れてしまったゆえにその支配のうちに入ってしまった。

 

しかし、私たちが神様以外のものを求めるその私たちをねたまれるほどに愛された。それ以上にその罪の奴隷ゆえに悲しみの中にあり、神殿というよりも私たちそのものが罪に穢れ、世に傷つけられ、悲しみの中にある私たちが命を失っていくことを我慢できなかったのです。だから、イスラエルへの70年の捕囚という裁きの代わりに、その罪の代価を御子イエス様に身代りに背負わせ、十字架に架けられ、死なれた。その命の代価を持ってあなたを取り戻された、買い戻されたのです。イエス様の命にってあなたを買い戻されようとされたんですよ?信じられますか?あなたは知らないかもしれない、しかし神様は御子イエス様の命を身代りにできるほどにあなたを愛されているのです。

 

でも罰して終わり、あとはもう知らない、と罪びとゆえに見捨てるのではなく、私たちをご自身の家族のもとに連れ戻し、回復させようとしてくださるのです。イエス様を死で終わらせず復活によって神様との断絶がとかれたように、私たちを死だけで終わらせず、御子イエス様の前に悔い改めるとき、あなたは神様のもとに立ち返ることを許される。神様は、あなたのうちに住み、真実と正義を持ってあなたの命を立て直され、修復してくださるのです。そして↑の言葉、「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう」という約束があなたのうちに「神様によって」成就される。

 

いやそれだけではない、死してのち、私たちは永遠の神様の御国に招かれ、まさに同じ光景を見るのです。その一端を神様は今この地上にあっても味あわせてくださる。イエス様ご自身があなたのうちに住まわれることによって。あなたという人を救いに招き命を注がれ、楽しませてくださる。神様が。

 

今日、私たちは主のもとに立ち返ろう。この命をいただこう。何より、神様があなたを楽しませてくださろうとあなたを待っておられるのだから、御子イエス様の命にあって買い戻されたこの命、大いに楽しもう、神様が下さるすべてに感謝し、信頼し歩もうではありませんか。