ー癒し、また一新する約束ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。」 イザヤ書61章1-4節

 

神様はある一点だけ恵む、成功させる、とかそういう神様ではない。あなたという人そのものを一新させたい。罪から解放、神様の愛そのものであふれさせたい。そのため、御子イエス様を私たちに遣わされた。イエス様のいのちゆえに、私たちは新しくされ、建て直される、一新され養い続けて下さる。この方に私たちは立ち帰り、この方と共に生きよう。

 

さて、↑は預言者という、神様のことばを預かりそれを民に語る役割を持つイザヤを通して神様が語られたことば。この時代、民は神様から離れていた。神様を神様とせず、神様の御心を離れ、罪の中に歩んでいた。神様は、それこそ↑のように、彼らを造られた(私たちも神様によって造られた神様ブランドなんですよ?最高ですよね、神様ブランドって)ゆえに、慰め、また守ってくださっていたんです。

 

しかし彼らは別に神様なんていなくても生きていける、と神様から離れた、神様の御手を振りほどいた。それゆえに神様がこれまで守って来ていたから防がれていた敵国がいよいよ彼らを囲い始めていた。アッシリヤやバビロン捕囚の危機が迫っていた。そして彼らが捕囚されていく事を預言していたのでした。

 

それは自業自得でしょ、と言われても仕方ない。だって神様がこれまで国を守り、また養ってくださっていた、かつては奴隷状態から憐れまれ、エジプトから連れ出し、乳と蜜の流れるといっていい肥沃な大地にまで連れてきてくださり、そこを与えて下さった。にもかかわらず、彼らはその神様を捨てたんですから。それで勝手にとらえられていったって知った事ではない、と言われても仕方ないんです。

 

しかし、神様は驚くべきことに、その捕囚になる前に同時にもう一つの約束を与えられた。それは必ずその捕囚地にあって守る事、そして解放する事を約束されたのです。その約束が↑にも現れているのです。

 

↑に語られた神様の約束をあなたはどう見るでしょう?「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する」

 

誰か偶然によって救われる日が来るかもしれない、と希望的観測を語られたのではない、それでもなお、「神様が」、なされるというのです。神様を知らずに空っぽになった心貧しき者に、傷ついた者を癒し、捕囚から解放、釈放を告げ、恵みの都市を宣言される。敵には神様ご自身が復讐され、悲しみの中にあるものを慰め、捕囚民という頭の飾りを神様の民という飾りに変え、囚人服を神様の民というその服に着せ替え、植木・神様が養い育て、もう一度あなたを一新し建て直され復興させる、と。

 

何という愛に満ち溢れた神様だろう。罪人に、裏切り続ける民になお、↑のように約束されるのです。あり得ない話でしょう。でも、このあり得ない愛が神様の愛なのです。これだけの愛をわたしがあなたに注ぐ、だからこそ今こそ私に立ち帰れ、今、この神様が養い導かれる、恵みの年の日々を受け取りなさい、そう宣言されるのです。神様が共におられる、神様の御心を求めるからこそ、その苦難の日々においても、捕囚の中にあっても神様のいのちが溢れるのです。

 

これだけでも神様の愛の深さに驚きを隠せないのですが、しかしそれだけではないのです。神様はただ一時的に彼らを釈放すること以上の事を神様は↑で約束されているのです。それは、御子イエス様を通して↑の約束をイスラエルの民だけではなく、私たちの内に成される、その愛を注ぐことを約束されたのです。

 

↑の「わたし」とは誰か、と思われるかもしれませんが、それは決してあなたのことではありません。イエス様があなたに恵みの年々を告げに、釈放と赦免を告げに来られたのです。あなたを癒し、慰め、一新させるために。私たちはイスラエルの民と同じように神様を神様とせず歩んでいる、これ、おそらく冷静に考えればよく分かるでしょう。それゆえに私たちは神様のこの素晴らしい愛を失い、恵みを失い、断絶されてしまう、永遠の断絶、裁きを受けるはずのものでした。

 

しかし、本来見捨てられるはずの私たちを神様は見捨てていなかった。私たちが気づかないだけで神様は私たちへ愛を注ぎ続けているのです。私たちはそんなものを信じたって何になる?と反発している中でも。しかし罪あるままでは、というよりも私たちが神様から離れているうちはこの恵みを受けることができないのです。神様は聖い方ですから罪人の私たちと同居する事などあり得ないのです。

 

しかし神様は、決断された、神の御子イエス様を私たちの内に送られ、住まわせ、ご自身の愛を現す事を。そしてイエス様が来られた間に多くの癒しと解放をなされていった…だけではなかった。そんな一時の解放ではなく、私たちがこの罪の奴隷、永遠の断絶、裁きから釈放、赦免され、いのちを得るべく、御子イエス様は十字架に、私たちの罪の身代わりに架かられ、身代わりに罰せられ、身代わりに死なれた。いや、それだけではない、その身代りの裁きを良しとして受け入れた神様は、死んだイエス様をよみがえらせて下さった、復活させてくださった。そのことによって、イエス様の前に悔い改める時私たちも、この復活の恵みに与り、神様と和解させていただき、神様の子とされるのです。

 

この和解、復活の恵みゆえに、イエス様があなたの内に住まわれ、あなたを「植木」のごとく育て形づくられ、罪に汚れ疲れ果てた私たちを癒し、神様の御心があなたを建て直す、一新をなされるのです。ここから恵みの年が始まる、一時ではなく、永遠に。死して後に至るまで。

 

神様は、イエス様のそのいのちにかけてこう約束される。「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する」。この愛の前に今日あなたはどうこたえるだろうか。