「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」 ダニエル書12章1-4節
永遠のいのち。古今東西、多くの権力者たちが求めてきた。でも彼らは自分の支配を永遠に継続させる事、自分の楽しみを永遠に満ち続ける事。この世的なレベル。しかしそれは人の手によって得られるものではなく、神の御子イエス様のいのちによって与えられるもの。何と素晴らしいことだろう。誰しもにそれを神様は与えたいと願っておられる。しかもこの世のレベルでは収められない最高のいのちを。
さて、↑はバビロン捕囚によってバビロンに捕らえ移されるも、高官としてそこで重宝されたダニエルという人を通して神様が語られたことばの一部です。それは、このダニエルたちがこの先捕囚から解放されるも、アンティオコスエピファネスによる最悪の大迫害、またそこからの救い、更には終わりの時代にそれ以上に最悪な反キリスト、その再来と言われる存在による大迫害が起こること、しかし主を信じるものは必ず救われ、永遠のいのちに与る、そうではないものは永遠の忌みにあう(要するに永遠の裁き)が待っている事。神様を信じるものには必ず勝利があるという約束が語られたのでした。
なんか、いきなり途方もない話に聞こえるかもしれない。ただ、神様は永遠のいのちという祝福を私たちに与えたいと願っておられる、それをダニエルを通して語られた。それはただ単なる、永遠に生きる、とか、普通の人が考えるような、「霊魂不滅や不老不死や輪廻転生と言ったようなもの」というレベルのものではない、↑には何と書いてあるか。世もサタンも、この世のどんな支配者も、忌むべき者として打ち倒される、神様のその御手によって、そしてその神様のご統治によって「大空の輝きのように輝き、…世々限りなく、星のようになる」というのです。
誰がそうしてくださるのか?神様が、です。素晴らしい約束ですよね。私たちが自分で輝くのではない、神様があなたを輝かせる、何と素晴らしい話。ただ死んだら初めて得られる恵みではなく、神様のその御手の中に私たちが入れられるのです。
それは、御子イエス様のいのちにあって保障されます。私たちの罪を身代りに背負いイエス様は十字架に架かってくださりました・本来私たちは↑にダニエルに神様が語られたように、神様の恵みをどうでもいいものとし、この世の価値観の方が優れていると考え、神様を排除し、敵対する、愚かな者たちでした。しかし、神様はそのような愚かなもの、思慮のない私たちを憐れまれ、私たちが支払うべき罪の代価、サタンと共に永遠に裁かれる死の道から免れさせるべく、赦免するべく、御子イエス様にその罪を身代りに背負わせたのです。身代りに十字架に架けて罰し、死なせた。でも、死んで終わりではなく、神様は御子イエス様をよみがえらせてくださった事によって、死で終わらせず、赦しと和解、永遠のいのちへと導かれたのです。
神様との和解、神様のご統治があなたの内になる、という点においては、永遠のいのちは実に、罪を悔い改め、イエス様を自分の罪の身代わりとなられた救い主として信じ受け入れる時、そこから始まるのです。私たちは復活のイエス様のいのちに連なるものとされたのです。
この時、まさに「大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」という約束の前味をあじわい続けるのです。たとえ困難の中にあっても、紀元前の最悪の迫害者、アンティオコスエピファネスのような難問があろうとサタンがあろうと、主が共におられ、その中にあって私たちを勝利者とさせてくださるのです。
ちなみに、アンティオコスエピファネスというのは、聖書の中に出てくる想像上の人物ではなく歴史を見れば登場します。彼は自らを神としていた。自らを神とする、それ以上に思慮のない話はない。神様を神様とする、イエス様を救い主として信じ受け入れ、その中に歩むこと以上に思慮深い事はない。なぜなら、御子イエス様は、あなたのためにさえ、ご自分のいのちを投げ出すことができる、そのような方が、あなたの内に住まわれ、その御心を、それほどの愛をあなたの内に現してくださるのだから。
永遠のいのちは、イエス様の死と復活を信じた人に、聖霊様の賜物として与えられる、約束の恵みです。イエス様の死と復活に預かる事によって始まった永遠のいのちの生活は、イエス様の再臨・もう一度こられる日に、もう罪を犯さないで済む新しい状態に変えられる、これが私たちに与えられている約束です。残念なのは、この約束を、罪を赦されたときに保証として与えられましたが、この新しいいのちの完全な姿は、再臨の日まで、神様の内に隠されていて、今はその前味を味わっているにすぎません。しかし、それはあなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与える愛なる神様の、この世では測れない喜びの交わりの中に入れていただくという、それだけでも測り知れないすばらしいものなのです。それこそ、ダニエルに約束されたように、「大空の輝きのように輝き、…世々限りなく、星のようになる」のです。
いのち無きものは朽ち果てて行きますが、いのちは育っていきます。永遠のいのち、永遠の神様との交わりは日々に豊かになり、終わることがありません。この永遠のいのちへの希望を信じる時、私たちの日々の生活は励まされ、力づけ、豊かになります。どうして?その永遠の素晴らしい世界を私たちに用意してくださっているイエス様が、今もあなたと共にいて導かれるから。イエス様の死と復活によって、私たちは神様との和解と永遠の神様との豊かな関係に結ばれたのです。
あなたはこのいのちを受け取りましたか?神様の望みは、あなたがこの永遠のいのちを持つ事、もって生きる事。受け取っているなら、もう永遠のいのちへの生活は始まっているのですから、私たちは希望を捨てず、最後までこの信仰の生涯を歩みたいものです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」