「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。」
Ⅰコリント人への手紙15章1-11節
私たちの本当の平和は、イエスキリスト様によって贖われ、罪赦され神様の子とされる、その和解させていただいた関係の中にこそなされる。花は咲く。あまり政治の話は書きたくないので最小限に書きますが、今日、新しい元号「令和」が発表されたが、令は人がひざまずく様子を現す。でも、何の前にひざまずくのか。それは人のなす中に跪くのではなく神様の御手の中に、御心の中に跪く。その中でこそ本当の和・平和がなる事を覚えたい。
さて、↑はパウロという人がコリントの教会に向けて書かれた手紙の一部です。パウロというのは1世紀半ばに活躍した、初期キリスト教会の時代にイエス様の救いを伝え歩いた人の一人。しか聖人君子のように生きてきたのかと思いきや、とんでもない。
彼も自信の口ではっきりその罪を↑で告白しています。「私は神の教会を迫害したからです」と。そう。彼はこともあろうに迫害者だった。神様が私たちのために与えた救い主を、私たちの罪の身代わりにしたイエス様を、神を冒涜するものとして拒否し、彼を信じる人たちを迫害する。さらには初代教会において活躍した若手を殺すことにさえ協力した。
何と驚くべき話。そんな彼を神様がどうして赦せるはずがあるだろう。御子を迫害し、教会を迫害し、これから教会を担っていくであろう若手まで。まあ、普通ならそんな罪を隠したいところです、手紙を書く上でこんな過去を知られたらどう思われるか。私だったら隠したくなる。
しかし、パウロにとってはそのような罪を隠す以上に、そんな罪深い、神様に対して敵対するものにさえ神様が憐みを示され、変えられた人生、これがいかに優れているか、恵みに満ちたものなのか、訴えたのです。
彼は自分自身についてこう書きました。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」と。この彼に復活のイエス様は出会われ、こともあろうに彼を悔い改めに導き、罪を赦し、神様の子へと引き上げてくださったのです。これだけの大罪を働いたんだから、お前、一生私の奴隷な、とは言わずに、「神様の恵みが彼の内に働いている」というのです。今の彼、神様の恵みが覆う、神様の子とされた、神様の御心にあっていのちある者とされたのです。
パウロは多くの迫害を受け、何度も殺されそうになった。それでも彼はここにこそ救いが、いのちがあるんだ、赦しがあるんだ、この神様との和解こそすべてなんだ、それを訴えるためにいのちがけで語り続けました。少しでも耳に優しい、妥協した福音を語ればたぶん、迫害は受けなかったかもしれない、でもそれでは意味がない。神様の愛を自分の思いで削ってはいけない、彼はありのままに福音を語り続けたのです。
その福音とは何か、↑で明確にパウロは語っています。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと…」。神様はアダムとエヴァが初めて罪を犯したときに、イエス様を救い主として与え、私たちの罪の身代わりとする、その救いの約束をされました。それは時代が経っても変わらず、私たちの罪のために、その身代りに死なれたのです。しかも↑のような神様の目から見たら大罪者ともいえるパウロだけじゃない、イエス様と一緒ならどこにでも行くと言ったのに3度もイエス様を知らないと否定したあげく最後には呪いをかけてまで否定したケパ=ペテロの罪さえ背負い、彼らを、私たちを罪の呪い、サタンの支配、裁きから解放し自由にするため、私たちの支払うべき罪を支払われ、十字架上で死なれ、葬られた。
しかし、罪赦して終わり、後は死んで終わり、ではなく御子イエス様を復活させてくださった事によって私たちを神様は復活の恵みに導かれた。罪の奴隷から神様の子へと引き上げ、霊的な死からいのちへ、肉的にも死んで終わりではなく永遠のいのち、神様と共に住まう最高の御国へと導かれる、その最高の恵みに導かれたのです。
復活のイエス様は、迫害者パウロに現れ、またその否定し憔悴しきったペテロの前に現れ、彼らを裁くのではなく、罪赦す事を選ばれ、彼らの前に立った。悔い改めに導いた。お前たちはわたしを裏切ったのだから赦さないではなく、わたしはあなたの罪を身代りに背負い十字架で罰せられた。あなたは罪を悔い改め、神様の元に立ち返るかい?と救いに招かれたのです。
この恵みはどこかのお偉いさんや聖人君子が受けるのではない、ただ神様の前に悔い改める、ただそれだけで私たちはこの救いを、御子イエス様があなたの内に住まわれ、ご自身の栄光を現し御心をなしてくださるという、最高の恵みに私たちは与るのです。これは罪赦されたというこの十字架体験を本当の意味でしなければこの恵みは分からない。自分の罪を放置して、覆い隠したままではその恵みの素晴らしさは分からない。だから彼は自分がいかに、現代風に言えばゲスな男だったか、それをきちんと告白し、その私にさえ神様は憐れまれた、罪赦された、その福音の素晴らしさを、神様の愛を語るのです。
この復活のいのちの中にこそ恵みがある。本当の「和」がある。なぜなら、これはパウロが書くように、「そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」と、神様の恵みゆえになされる、神様がなしてくださるのです。いのちを、御心をあなたの内に成される。だから私たちはこのイエス様の前に遜ろう。この御心、御言葉の前に遜ろう、ひざまずこう。
主は、この小さな者、罪深いものにさえ、出会ってくださり、あなたを変えられる。パウロは使徒ですがあなたにはあなたの花を咲かせてくださる。イエス様が。イエス様が、あなたの内に御心をもって花を咲かせ、その恵みを溢れさせてくださる。あなたは今日、何の、誰の前にひざまずきますか。人のなす中にひざまずくのではなく神様の御手の中に、御心の中にひざまずき、神様の御心が、神様の和・平和がなる祈り求めて行こうではありませんか。