とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

1818年のクリスマス・イブの事でした。ドイツのオーベンドルフという小さな町で、人々はいそいそとクリスマスを迎えるための準備をしていました。教会においても、クリスマス礼拝の用意が調えられつつありましたが、突然思わぬことが起こりました。教会のオルガンが故障して、音が全くでなくなってしまったのです。そしてさらに具合の悪いことに、オーベンドルフはその数日前から、吹雪のため、町の出入りができない状態が続いていましたし、この町にオルガンを修理できる人は一人もいませんでした。

 

困り果てたオルガにストは、牧師に事情を話してから、「先生、音楽のないクリスマスなど考えられないことです。何とか、オルガンなしで歌えるクリスマスの歌を作っていただけないでしょうか」と必死にお願いしました。そして、承知した牧師は書斎に入ってクリスマスに関する御言葉を読み始めました。そしてルカ2章11節が特に彼の心に響きました。

 

       
「今日ダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。」

牧師は夜遅くまで、この箇所を何度も思いめぐらしました。そして、救い主がお生まれになったという素晴らしい真理に心をとらえられた牧師は、クリスマスの話に関する一つの詩を書き始めたのです。クリスマスの日の朝、牧師の書いた詩をもらって、オルガにストは早速メロディーをつけました。人々は、礼拝のために、すでに教会に集まり始めていました。その中に、ギターを弾けるという人が一人いたので、急いでその人にメロディーを教えて、彼の伴奏で新しい歌を歌うことになりました。最初から大ヒットでした。

 

間もなくアメリカにも伝わり、今ではほとんどすべての国の言葉に翻訳されて、全世界でうとぁれているクリスマスキャロルです。初めは、「天からのしらべ」というタイトルで歌われていましたが、現在のタイトルは、「きよしこの夜」です。

 

きよしこの夜、キリスト降誕の場面

「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」

マタイによる福音書1章18-25節

 

人は理解しがたいことを受け入れるのは中々難しい。そんなのあり得ない、こんな状態どうしたらいいのだろう、そう思うことがある時…気が付いたら諦めてしまうか、自力で押し通して本来得られるはずの結果を失うこともある。ただ一つ忘れないでいただきたいのは、神様はあなたに恵みの知らせ、神様の良いことをもたらしたい、いのちをもたらしたい。私たちは神様を諦めて去らせるのではなく、神様をお迎えしよう。かのクリスマスにあなたに救いをもたらしに来られたイエス様を去らせるのではなく、お迎えして。

 

ということでクリスマスのお話の第2段。今日はヨセフという人のお話。昨日分かち合いましたマリヤ、彼女のいいなずけになります。マリヤは聖霊様によって胎内に御子イエス様を宿すこととなったわけですが、その知らせをマリヤから聞いたのか、驚き、「彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決め」ました。というのも、律法に「もし、処女である娘が人と婚約していて、町の中である男が彼女に会って寝たなら、あなたがたは二人とも町の門に連れ出し、石で打ち殺さなければならない」とあるので、ヨセフが告発すれば、彼女は石打の刑によって殺されなければならないのです。これ、小さな小石とかを投げられるとかそういうものではないんですよ?大きな石です。ミシュナという律法の解説書によれば、2-3mの高所からその女性を落とし、死ななければ、大きな石を胸に向けて落とすそうです。

 

しかしヨセフは正しい人でした。彼はこの神様の律法は無視できない、でも、同時に憐れみを持っていたのです。告発するものの意志がこの律法の実行には関与するわけですから、彼はなんてことをマリヤはしたんだ、と言って、彼女を疑い石打を実行するのではなく、その権利を行使するわけでもなく、黙って去らせることによって石打ちを免れさせようとしたのです。

 

いや、これは私だったらできたかどうか、難しかったかもしれない。マリヤからこの妊娠についてどう聞いていたのか、聖霊様によって身ごもった、ときちんと聞いたかわかりませんが、しかし聖霊様によって身ごもるなんて前代未聞、そんなことあり得ない、きっと他の男性と…と考えるのが人でしょう。だからヨセフ自身もどうしたらいいのか分からなかった。分からなかったから思い、祈っていたのでしょう。その彼に、夢の中で御使いが現れて、「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と告げました。

 

ヨセフはマリヤの胎内に宿った子は聖霊様によること、それは神様のご意思によることをここではっきりと知りました。今神様のご意思が現わされようとしている、救い主誕生、という。ずっと何百年も前から約束されていた、預言されていた、「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という約束、いや、もっというならアダムとエヴァが罪を犯した後、神様が約束された子、やがて私たちの罪を取り除き、また罪へいざなったサタンを打ち砕くその救い主の誕生を彼は知った(このことは明日分かち合います)のです。その神様の意思は時代が経っても変わらず、今ついに実現するんだ、と。

 

ヨセフはイエス様の肉の父、というわけではありませんが、この神様の意思が働く家の中で生きるその恵みに与れることを知った。それをヨセフは喜び、受け入れ、マリヤを妻として受け入れたのでした。その間彼女を知る(まあ書きづらいのでその意味は察していただければ)こともなく、イエス様の誕生を待ち望み、ついにイエス様が誕生されたのでした。「イエス」と御使いが告げたように名付けたのは、この神様の意思を受入れたから。そんなことは自分には関係ない、と拒否するなら他の名前を付けたでしょう。自分は自分、というなり。もしくは彼女を知ろうとしたかもしれない。しかし彼はこの神様のご意思をその身に受けることを決断したのです。そして彼の内にも本当のクリスマスが、救いの時が訪れたのでした。

 

私たちはマリヤやヨセフのように救い主イエス様を胎内に宿すとか、育ての父になる、なんてことはない。でも、私たちが昨日見たマリヤやこのヨセフのように、神様のご意思を受入れる時、そこから神様のあなたへの救いの計画と言いますか、御心が始まる。かのクリスマスに誕生され、誕生されただけではなく、その約束通り救い主となるため、私たちの負う重荷、思い煩い、痛み、何より罪、これら一切を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、死なれた、そして3日目によみがえらせられたことによって、その救いを完成されたのです。このイエス様の十字架の御前に私たちが立ち返る、罪を悔い改め立ち返る時、私たちは救いをいただき、新しいいのちをいただく、聖霊様が私たちの内に住まい、働かれ、生きるものとされるのです。神様のご意思、御力、愛が溢れる。クリスマスはこの十字架による救いを受け取る、神様のイエス様に込められた意志を受け取って初めて意味がある。あなたはあなたに向けて神様が向けられた意志を、クリスマスプレゼントをいただいていますか?ぜひ、このイエス様をあなたから去らせるのではなく、お迎えさせていただこう。そしてこの方と共に、とこしえに共におられると約束されたイエス様と共に歩もうではありませんか。

 

キリスト誕生、飼い葉桶と聖書の一節

同じ失敗を繰り返しているともう、呆れられてしまう、諦められてしまいます。

 

私達はイエス様の誕生・クリスマスの出来事はまあ知っているでしょう。

でも知っていても救い主としてあなたが受け入れなければ意味がないのです。

リスマスは、あなたという人のためになされた歴史的一回的事実なのですから。

神様はあなたを呆れ、諦めない。そのためにイエス様を十字架にかけてまでその愛を全うされたのだから。数え切れないほどの苦しみを私達は感じても、数え切れないほどの神様の恵みがあなたの内に現される。あなたはこのイエス様を受け入れていますか?

 

       
キリストが1000回ベツレヘムに生まれても、あなたの心に生まれなければ意味がなくなってしまう。キリストが1000回ゴルゴダの十字架につかれても、あなたの心に十字架が立てられねば意味がなくなってしまう。ーキリキウスー

 

十字架と祈る人物、イエス・キリストの救い

私がクリスマスについて知っている全てのことは、

イエス様から学びました。

史上最高のクリスマスギフトは

「イエス様」、私たちへの神様の愛の贈り物です。

私が他の人に贈ることのできる最高のギフトは、「愛」です。

それはタダ、そして永遠まで残るのです。

「喜び」とは、分け合うこと、そしてお世話をすることです。

地上の「平和」は、私から始めるのです。

「クリスマス」とは、イエス様が私の心に生まれるということです。

イエス様のあとを追いなさい。この“クリスマスの星”なるお方を―。

 

イエス様をこの一見麦わらと思った“まぶね文字”の中で追いかけ、なんとか見つけました!

どうぞこのクリスマス“まぶね”メッセージをじっくりお味わいくださいね。

クリスマスはあの日いた人だけではない、あなたにも神様から贈られた愛の贈り物なのですから(#^.^#)

    

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

Ⅰヨハネの手紙4章10節

 

All I know about Christmas I learned from Jesus...

The best Christmas gift ever is Jesus, God’s gift of love to us.

The best gift I can give to others is love. It’s free and lasts forever.

Joy is sharing and caring. Peace on earth begins with me.

Christmas means Jesus is born in our hearts. Follow Jesus, The star of Christmas.

 

キリストの愛を伝えるクリスマスのメッセージ

私たちの周りは様々な困難があるかもしれません。
でも見逃していませんか?
神様はあなたの目には小さく見えても大きなことを日々されていることを。
 
かのクリスマスに神の御子が人間となり、貧しくなり生まれてこられ、私たちのために命を十字架にかかってまで与えられました。これによって得る、与えられる神様の愛、御心は小さいことでしょうか?
 
天に留まるだけではなく地にまで来られ、赤ちゃんになってまで生まれてこられ、十字架で、身代わりに地・陰府にくだられてまであなたを愛されたイエス様が与えて下さる新しい命が。

いつかわかる日が来る…

 
    
「人生の小さなことを楽しむんだよ。ある日、振り返って、それが大きいことだったって気づくんだから。」スヌーピー

 

 

クリスマスイヴ・クリスマス、クリスマスって結局いつ?

最近は長期間イベントがなされていますが。

そもそも12/25でもないんですけどね。これは知る人ぞ知る話なのですが。

イブでもありませんよ?ちなみにイブは夜、という意味なので、クリスマスの夜…

 

実はルカによる福音書を書いたルカという人は医者であり、歴史家でもありました。

事細かに調べました。当然裏を取って、色んな人からも話を聞いたでしょう。生き証人たちもたくさんいたはずです。だから、イエス様がいつお生まれになったのかなんてわかるはず。しかしあえて書かなかったのです。

 

その理由は2つあります。

1つは、そもそも重要なのは誕生して終わり、ではないこと。

もう一つが重要なのですが、イエス様ご自身はこの天地万物が造られる前からすでに存在しておられた。誕生日はいつかもなにもないのです。イエス様の誕生を詳しく書いたにもかかわらず、イエス様の誕生日について触れなかったのは、まさにイエス様はすでにおられた、このイエス様が来られた、そして十字架、復活を通した救いへ招かれた、招かれていることを示したかったのです。

 

あなたの人生のためにある日突然思いつきで来られたのではありません。

神様は思いつきで突然何かをされるのではなく、最初からあなたに最善の計画を用意されていたのです。その神様の計画に、イエス様の命にあって招かれたこの新しい命をいただき、歩もうではありませんか。イエス様のくださった最高のクリスマスプレゼント、罪の赦し、永遠の命をいただき。

 

「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、入って来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。あなたはどの女よりも祝福された方です。』しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。』そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。』マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」

ルカによる福音書1章26-38節

 

クリスマスが近づいてきましたね。クリスマスはある一部の人だけに幸せになってほしいとか、不思議な出来事が起こった、というものではなく、あなたに幸せになってほしい、と願われた神様が成されたことなんです。今日はという事で、そのクリスマス、その少し前に起こった一つの出来事を見ていきたいと思います。

 

ということで↑は今から約2000年程の前、神の御子イエス様が人となって生まれる少し前の出来事です。この時期からおおよそ皆さん想像がつくと思いますが、ローマ帝国が当時覇権を握っていて、イスラエルもその影響を受け、苦しみの中にありました。せめてイスラエルの王がまともなら、一昔前に治めていたダビデ王のような人なら…と当時の民も思ったでしょうが、残念ながら残虐な、自分の地位にしがみつき、それを脅かすものを徹底的に排除する、それこそクリスマスの中で起こった出来事で、自分の代わりに王になる救い主が生まれた、と聞いたら、2位歳以下の赤子を全員虐殺するなんてことをするくらい、そんなとんでもないもの、ヘロデがイスラエルの王だった。まあローマの傀儡でしかないのですが。そんな希望は、神はどこにいるんだ、と多くの民が思っていた中で↑の出来事が起こったのです。そう、救い主イエス様の誕生の知らせを御使いがマリヤに届けに来ました。

 

ちなみにマリヤですが、彼女は当時15歳くらいです。当時女性は人数にも数えてもらえないほど小さな扱いを受けていました。今の時代なら考えられない、そんなことをされたら大変なことが起こりそうですが。彼女はダビデ王の家系のものでした。が、だからと言って王族らしい生活ができるのかと言ったらそうでもなく、バビロン捕囚によって王権は失われてしまいましたし、ローマが国を支配していて、その傀儡としてヘロデが暗躍している。それでも彼女は神様を求めていました、希望を抱いていました。

 

そんな彼女のもとに一つの驚くべき出来事が起こりました。御使いが突然現れ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。あなたはどの女よりも祝福された方です」と、彼女に告げます。さすがにこれにとまどうマリヤに御使いはさらに、「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」と告げました。御使いが現れただけでも驚きなのに、なんと救い主をみごもっている、と。

 

彼女は↑を見てわかる通り、まだ男性を知らない処女です。ありえない。しかも彼女には婚約者がいますし、婚前に妊娠したとなれば石打によって殺されてしまいます。この段階でマリヤがここまで考えたかわかりませんが、実は彼女の身におこることは現実的には大変なことが起こりかねない。

 

でも神様からのことばを預かり告げたみちかいのことばは、「おめでとう、恵まれた方」。神様はマリヤに恵みを届けに来られたのです。色んな大変なことはあるけど、その全ての中に神様の恵みをもたらすんだ、と約束されたのです。彼女からしたら何があるか分からない大変さ、前代未聞の話。しかしそんな前代未聞な中にも神様が彼女に恵みをもたらす、祝福するんだ、そう約束されたわけです。救い主イエス様の誕生もそう、でも彼女自身がイエス様の御側にいられる、ある意味でも最も身近でともにいてくださる、神様の約束が、神様の思いがいつも共にある、そんな恵みに神様は御使いを通して招かれたのです。イエス様がまことの王となられ、すべ治めてくださる、そのイエス様の治める国はとこしえに終わることはない、その中にマリヤがいの一番である意味では選ばれた。

 

もちろん赤ちゃんイエス様をその身に宿すなんてことはもう、それ以前もそれ以降もないこと。でもそれ以上にこの神様の恵まれた方にしたいという思いを受け取って初めてすべては始まるわけです。もし彼女がここで断っていたら…それは書いていないのでわかりませんが、別な女性を選ばれたか。いずれにしても救い主誕生は変らなかったでしょう。でも、もしマリヤが拒否していれば、彼女の内に神様がもたらそうとしていたある意味でクリスマスプレゼント、神様のお恵み、恵まれた方にしたいというその思い、愛、祝福を受け取ることはできなかったし、それは始まらなかった。

 

マリヤは神様にとって不可能なことはないんだよ、と、またかの彼女の親類のエリサベツも不妊の女性、しかも高齢、それでも主によって子供を宿している、神様に不可能なことはないんだ、と御使いから告げられ、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と答えました。神様の御心の現れ方は人それぞれ、それぞれに神様の計画がありますし、私たちはこの話を聞いたからマリヤのように救い主を宿せるようなものになるわけではありません。が、私たちがあのクリスマスに生まれてこられたイエス様を受入れる時、そこから神様のあなたへの恵まれた方にしたいというその御心、ご計画が現れ、広がっていく。マリヤにはマリヤの、エリサベツにはエリサベツの、それぞれに神様の御心、恵みが現されたように、あなたも恵まれた方にしようと、神様はイエス様を人として生まれさせてくださったのです、かのクリスマスに。

 

あなたのいかんともしがたい状況さえ、神様の恵みに変えられる。不可能だ、いったいどうしたらいいんだ、と思うものさえ神様の御心によって、神様の恵みに変えられる。いや、溢れるのです。人の思う限界や計画をはるかに超えた神様の驚くべき恵みをあなたにもたらそうと、神様は御子イエス様を神でありながらそのありようを捨てられないとは考えず、もっとも小さなものとして、小さな家に、目にも留めてもらえないような人の所に降ってこられた。あなたにもこれをもたらしたい、と。あなたの思い煩いや痛み、罪の支配から解き放ち、神様の恵みで回復させようと、御子イエス様を遣わし、愛を現し、最後はそのいのちを惜しまず与えてでも救いをもたらし、あなたを本当に恵まれたものとしようとされたのです。

 

あなたはこの神様の心を割かれ、すべてを投げだしてでもあなたを恵まれたものにしたい、祝福されたものにしたい、という思いをどう受け止めるでしょうか。かのクリスマスを昔の出来事、わたしとは無関係、と終わらせていませんか?このイエス様の恵まれた方にしたいという神様の計画は、思いは今日もあなたに注がれている。イエス様は生まれて来て死んで終わりではなく、復活され、今も生きておられ、その恵みをあなたにもたらそうと今日もその御手を、御思いを現されている、あなたに御使いどころかご自身が近づいてあなたをまねてくださっている。こんなありえない不思議な出来事を超えた、イエス様のいのちとともに与えられる大きな喜びをもたらそうと。あなたはこのイエス様ご自身を受け取っていますか?恵まれたものとなっていますか?

 

マリヤへの福音:主はあなたと共におられます

クリスマスになると、なんだかんだでそれぞれ思う形でクリスマスを楽しみお祝いしますよね。

でも本物のクリスマスを味わっていますか?

 

クリスマスって神様から与えられた、最高の贈り物、これ以上ない、

御子イエス様があなたに与えられたんです。

他人事ではない、本物の愛があなたに現したい、と紛れもない神様の愛が。

そしてそれは今日もあなたに注がれている…

 

ということで今日は日曜日ですので、いつものようにししろくま先生が礼拝でメッセージ(これは昨年のものですが)されたクリスマスのお話をシェアします。(今日のクリスマスのメッセージは24日にシェアさせていただきます)

よければ聴いてくださいm(__)m

 

ルカによる福音書2章1-20節

「間違いだらけのクリスマス」

 

 

 

キリスト降誕の場面とベツレヘムの星

クリスマスの時期、多くの人が色んな希望、楽しさで自分を満たそうと過ごしています。

何で希望を求めるのか?何かその希望で満たされたいんでしょうね。

 

イエス様はかのクリスマスに人となって生まれて来てくださりましたが、そんな私たちを良い牧者として捜しに来てくださった。本物の光、希望を探し求める私たちを…本気で、いのちをかけて。神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えずに、すべてを投げうってでも人となって生まれてこられてでも。あなたの傍に来て、同じような姿を取ってあなたの重荷を背負い、導こうと…

 

という事で今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージ(アドベントの)をシェアさせていただきます。(22:00頃、もう一本クリスマスメッセージの動画をシェアします)

 

ヨハネによる福音書10章14-15節

「自分で言ってちゃ世話ねえよ」

 

 

迷子の羊とイエス様

 

 

 

       
クリスマスは“愛”です。
救い主がお生まれになったのです。

 

クリスマス定義、あなたならどう説明なさいますか?

ほとんどの方は、未信者の方に、「クリスマスはイエス・キリストの誕生日です」とおっしゃるでしょう。

 

今日の言葉は、「愛」一文字の定義。そしてその根拠を、2行目で言っていると考えたらいいでしょうか。さらにあなたご自身で黙想なさってください。決してクリスチャンの一般論ではなく、「私ににとってのクリスマスとは」という視点で…。

 

父なる神様はこうおっしゃいます。「私は、独り子イエスを、天の私のもとから離して、人間の罪の宥(なだ)めの生け贄(いけにえ)として十字架につけるために、地上に下した。ここに“愛”があるのだ。」(Ⅰヨハネ4:10)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 

そうです。2000年前、み父の愛が、“一人の人格として”、この世に生まれました。クリスマスとは、「愛が生まれた」という歴史上唯一の出来事なのです。

 

その愛に応えて、私たちが、このクリスマスにこそ心に銘ずべき聖書の一節は、これです。

(ヨハネ3:16)「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 

このみ言葉はそらんじておられるでしょう、でも今日は、その中の「世」と「者」を「私」に変え、こうべを垂れてもう一度読まれたらいかがでしょう。なぜなら神のみ子は、この世界に人となられただけでなく、この罪まみれのかたくなな岩屋のような私の心にお生まれくださったのですから――。

Christmas is love…A Savior is born.

 

救い主誕生のキリスト教画像