「『…もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前にささげなければならない。その人はささげ物の頭に手を置く。それは会見の天幕の入口の所でほふられる。そして、祭司であるアロンの子らは祭壇の回りにその血を注ぎかけなさい。次に、その人は和解のいけにえのうちから、主への火によるささげ物として、その内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなさい。そこで、アロンの子らは、これを祭壇の上で、火の上のたきぎの上にある全焼のいけにえに載せて、焼いて煙にしなさい。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。主への和解のいけにえのためのささげ物が、羊である場合、雄でも雌でも傷のないものをささげなければならない。もしそのささげ物として子羊をささげようとするなら、それを主の前に連れて来る。その人はささげ物の頭の上に手を置く。そして、それは会見の天幕の前でほふられる。アロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。その人はその和解のいけにえのうちから、主への火によるささげ物として、その脂肪をささげなさい。すなわち背骨に沿って取り除いたあぶら尾全部と、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とである。祭司は祭壇の上でそれを食物として、主への火によるささげ物として、焼いて煙にしなさい。もしそのささげ物がやぎであるなら、それを主の前に連れて来る。その人はささげ物の頭の上に手を置く。そして、それは会見の天幕の前でほふられる。アロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。その人は、主への火によるささげ物として、そのいけにえから内臓をおおっている脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなさい。祭司は祭壇の上でそれを食物として、火によるささげ物、なだめのかおりとして、焼いて煙にしなさい。脂肪は全部、主のものである。あなたがたは脂肪も血もいっさい食べてはならない。あなたがたが、どんな場所に住んでも、代々守るべき永遠のおきてはこうである。…』」
レビ記3章1−17節
人が仲直り、和解するには何が必要でしょうね。色々あると思うのですが、聖書の中には、愛はそのことを頭に記録しない、ともあります。お互いが赦し合わなければ本当の和解とは言えない。和解した後戻るのではなく、むしろ神様により良い方向に導いていただく、神様の恵みを頂き、歩ませていただこうではありませんか。私達は神様から、極上の愛を頂いているのだから。
さて、幕屋が完成して、神様は改めて神様は会見の天幕からモーセを通して語られます。まず神様は最初に5種類の生贄について語られるのですが、それは神様の愛がどれだけのものなのかを現し、その上で、この愛に生きる、その恵みを生贄の次に語られます。例えば、復讐は主のもの、復讐をするのではなく、隣人を自分を愛するように愛することを訴えています。そのベースにあるのは、今見ている5つの生贄に示された神様の愛にあるのです。
私たちは神様の愛があるから生きられる。希望がある。どんな事があっても最後まで残るのは、この神様の愛なのです。この生贄の話は複雑なのですが、それでも神様の愛は私達の知識を超えて内側に注がれる、溢れ流れさせて下さるのです。この愛をいただき生きる中で私たちは希望を得る、知るのです。神様の栄光を仰ぎ見るのです。
話は↑に進め、今日は和解の生贄になります。なんでそれが極上の愛なのか、誰の極上の愛なのか、見ていきたいのですが、この和解の生贄というのは厳密には「神様の恵みに感謝して捧げる生贄」という意味だそうです。
レビ記の一番最初に見た全焼の生贄との違いは、全焼の生贄は皮を除いてすべての部分が焼き尽くされるのに対して、今回の「和解のいけにえ」は脂肪と腎臓だけは火で焼き尽くされますが、肉の部分は祭司とそれをささげた人とその家族が分け合って食することのできるものです。まさに焼き尽くされるほど、燃えるほどに愛される神様くださった恵みを、私たちも共に味わわせていただける。ほんとうの意味での全焼の生贄はイエス様の十字架、これに尽きます。すべての罪の贖いとなられ、焼き尽くされた。私達の主にも何もかも。しかし、イエス様が復活なされた中で、私たちがイエス様を信じ受け入れる時、同じ復活の恵み、神様の子としての特権を分け与えられるのです。
もっといいますと、この捧げられる部分についてですが、内臓をおおう脂肪、内臓についた脂肪、そして二つの腎臓と肝臓の上にある小葉(脂肪)とをささげます。神様はなぜ脂肪の全部をささげるよう指定しているのでしょう。神様が決して脂肪が大好き、というわけではなく、脂肪は最上の部分だからなのです。適度に脂肪がある肉、脂ののった魚は美味しいように。この脂肪のもともとの意味は、そもそも「最も良い部分、選り抜きの部分、最上の部分、肥えたもの」を意味するのです。
選り抜き、最上、極上の愛を神様は示される。そもそも和解の生贄というのは、まず私たちが罪のための生贄(後の章で出てきます)を捧げて、赦され、その上で成立するものです。片方が赦して下さい、と言っても相手が赦してくれなければ和解は成立しません。神様は愛なんだから何をしてもいいでしょう?どうせ赦されるんでしょう?などと侮った関係がどうして極上の愛で結ばれた関係になり得るでしょう。
罪を悔い改める、ということはごめんなさい、で終わるのではなく神様に立ち帰るのです。強制的に召使いのように戻されるのではなく、先程の神の御子イエス様の命にあって帰ることを赦された、「和解させられた」、させてくださったのです。その生贄として御子イエス様を十字架にかけてまで、あなたに本来回復された極上の愛、極上の恵み、極上のみ心を表したいのです。あなたは神様がどれだけあなたを愛して、その愛を現そうとされているか知っていますか?神様の愛は実行が伴う、しかも命がけの愛です。
パウロはその手紙にこのように書いています。いくつかピックアップしますね。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」と。神様はあなたが返ってくることを何より喜ばれるのです。その喜びがあなたに溢れる、分かち合われるのです。何という幸い。
また、こうも書かれています。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」と。この喜びが平和を作り、それだけではなくあなたをきよめられ、あなたの傷は癒やされる。もはや罪あるものとして非難されるのではなく、神様の子として喜び受け入れられるのです。
私たちは御子イエス様が和解のための生贄となられてまでなそうとされる、極上の愛、御心にどれだけ信頼しているだろうか。イエス様?信じて何になる?じゃない、宗教じゃない。神様は御子イエス様の極上の愛をあなたにも分け与えてくださる。今日私達はこの極上の愛に生かされ歩もうではありませんか。
