とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

数年前、92歳のある女性の話を読みました。

彼女はほとんど目が見えませんでしたが、いつも髪をきちんととかし、こざっぱりとした服装で、上品に化粧をしていました。そして、意欲を持って新しい朝を迎える人でした。

 

彼女は、夫が70歳で亡くなった後、適切なケアが受けられるように老人ホ-ムに入りました。引っ越しの日、近所の親切な人が車で送り届けてくれましたが、部屋の準備ができていなかったため、ロビ-で何時間も待たされました。ようやく看護師がやってくると、彼女は優しく微笑んで、歩行器を使ってエレベ-タ-に向かいました。看護師は、彼女の部屋がどんなふうかを話し、部屋のカ-テンは新しくしたと言いました。

 

すると、「とても気に入ったわ」と彼女は言いました。看護師が、「でも、まだお部屋をご覧になっていませんよ」と答えると、彼女はこう応じました。「そんなことは関係ありません。幸せとは、自分で選択するものです。私がその部屋を気に入るかどうかは、その部屋がどう準備されたかによるのではありません。私が自分の心をどう準備するかによるのです」と言いました。

 

ちなみにこの92歳の女性はクリスチャンでした。

 

聖書には「主にあって喜びなさい」(ピリピ人への手紙4章4節)とあります。

イエスがくださったすべてのものを思い出して感謝しましょう。それが心の準備の仕方です。

 

    
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

【聖書のことば】 

 

 

ーデイリ-ブレッドよりー

 

私たちはどうしても今の心配にとらわれ悩みます。

しかしあなたの明日、一歩先に不安があろうとも神様はそこにいます。

その神様がこれまでしてくださったすべてに感謝し、その神様がこれから導かれようとされることに大いに期待したいものです。

イエス様の命さえ惜しまない神様が今日成されることに。

 

「指揮者のために。「滅ぼすな」の調べに合わせて。ダビデのミクタム

力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。彼らは蛇の毒のような毒を持ち、耳をふさぐ、耳の聞こえないコブラのよう。これは、蛇使いの声も、巧みに呪文を唱える者の声も、聞こうとしない。神よ。彼らの歯を、その口の中で折ってください。主よ。若獅子のきばを、打ち砕いてください。彼らを、流れて行く水のように消え去らせてください。彼が矢を放つときは、それを折れた矢のようにしてください。彼らを、溶けて、消えていくかたつむりのように、また、日の目を見ない、死産の子のようにしてください。おまえたちの釜が、いばらの火を感じる前に、神は、生のものも、燃えているものも、ひとしくつむじ風で吹き払われる。正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の血で洗おう。こうして人々は言おう。『まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。』」

詩篇58篇1-11節

 

人はどうもマイルール的なものをもってそれで判断したり、人を評価し、ほめたり逆にけなしたりすることがあるんですよね。これ、仕事とかでされたら大変。人によってやり方が違ったり、それにいちいち合わせて他の人とやる時はこれでよかったのに、とか、自分の思うタイミングでその通りに動かないとあれこれ言い始めたり。人間関係でもよくありますよね。ただ、そのルール、基準って本当に正しいの?近年特にこうじゃないとその人はおかしい、と何か人格否定的にする傾向が見られるような気がしますが。でもそのマイルールによって何をもたらそうというのか、と思うところ。しかし神様は私たちに良い計画をもっており、私たちに生きてほしいと、その口から様々なことばを語り、また導いて下さる。何より私たちを救うためになら御子イエス様のいのちさえ身代わりにされることを惜しまなかった。それほどまでに愛されている神様に期待してみませんか?神様の恵みの中に生きてみませんか?神様は喜んであなたを歓迎してくださるから。

 

ということで、紀元前に生きていた人々が様々な経験をして感じたこと、知ったこと、何より神様と出会って変えられていったその様子などをうたった詩、それをバビロン捕囚期にまとめた詩篇の58篇を見たいと思います。この詩篇も表題にある通り古代イスラエル王国2代目の王、ダビデがうたった詩になります。これはどの時期に歌われたのか、諸説あり、です。ダビデが王になる前、初代王サウルが死んだあと、彼の統治時代に腐敗した裁き司たちを見てうたったもの、という説がたぶん有力なのかな、と思います。

 

しかしそれは、ただ政治的に腐敗していた、という事だけに留まりません。というよりもそれがこの詩篇の根幹部分、大切なところなのですが、サウルももともとは神様に選ばれ、祝福されていたはずだったんです。彼の行く所連戦連勝だったのです。しかし、ある時当時、預言者であり裁き司であったサムエルを待つことができず、その役割を軽視、神様を軽視し、神様を排除して自分ルールで動き始めたところからおかしくなっていきました。預言者は神様の語られたことを語り伝える、ある意味ではスポークスマンのような役割があった、それをもちろんサウルは分かった上でそれを排除したのです。神様より自分の方が立場が上、と言わんばかりに。そこから彼は堕落、腐敗していきます。ある部分では神様に従うけど、自分の利益に合わないことには従わない、となっていき、ついには悪霊に支配されてしまった。彼の心が捕らえられてしまったのです。神様によって祝福され、生かされているはずのものが、神様の口から出る言葉、その全てによって生かされている、生きるようにしてくださっているのに、その神様ではなく神様から引き離す者たちによって腐敗していってしまった。そして、そのサウルにおもねるものたちが自分の権力や富を求めて彼がおかしなことを言っていても従う、そんな状態になっていたわけです。ダビデの居場所を教えて地位・富を得ようとしたり。神様がくださる恵みよりサウルがもたらすと実を求めて恩をあだで返したり。

 

そんな中でダビデは「力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。彼らは蛇の毒のような毒を持ち、耳をふさぐ、耳の聞こえないコブラのよう。これは、蛇使いの声も、巧みに呪文を唱える者の声も、聞こうとしない」とうたいます。

 

ここで「義を語り」とありますが、私もこの分かち合いの中でよく「義」ということばを使わせていただいています。義というのはものすごくわかりやすく言うなら、正しい事、この義を間違えると、自分が考える義に突き動かされ行動する。それは自分にとって利益になることを基準にそれは正しい、間違っている、と判断するようになるわけですね。ダビデが見た「力ある者」、どうやら複数いることが「お前たち」という言葉から見えてきます。彼らは「義を語り…公正にさば」いていたようで、不正を働いていた。本当の正しさ・義を考えず、神様の義を考えず、自分の利益になる自分の義に突き動かされ行動していた、自分こそ力あるものなんだ、と考え搾取し、また動いていたわけです。先に背景で見たように、またこれまでの詩篇で登場したサウルの悪事でも見たように、ダビデの居場所を伝えた祭司一家を皆殺しにすることで地位・富を得ようとしたり、恩をあだで返したり。

 

しかしそれで一体何を得ることができるだろう。サウルは神様の祝福を失い、悪霊に囚われ、神様から与えられた最高のいのちを台無しにしてしまった。神様を退けた後は家族からもう止まれ、周りにいるのは彼のことを考えず自分におもねるものたちだけ。嫉妬によって国を顧みず、ただダビデのいのちを追うだけの虚しい人生になってしまった。結果国に起こっていることが見えなくなり、戦いは敗北、大切な家族は戦死し、自身のいのちも残念な最期を迎えてしまった。またサウルにおもねってダビデの居場所を密告し、祭司一族を殺してでも地位や名誉を得ようとしたものもそれらを得ることもできず、おもねっていたサウルまで死んでしまって何も得られず、かえって人としての大切なものも、神様の恵みも何もかも失ってしまった。なにをやっているのだろう。人の考える義に生きたところで何になるのだろう。それをだれが保証するのだろう。

 

ダビデは「悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている」とうたいます。要するに、人は誰でも生まれながらにして罪人なんです。アダムとエヴァから受け継いでいる原罪、罪の性質をもっている。でも、そもそもの話が、「母の胎」といいますが、私たちにいのちを与えてくださっているのは神様なのです。人が自力で母の胎内から出るわけでもなく、またその出たあと一人で生きられるわけではないように、私たちにいのちを与えてくださった神様、その我が子のために愛情をどこまでも注ぎ、養い、守ってくださっている神様から離れてはどうやっても生きることなどできません。神様から迷い出て、彷徨ってどうしましょう。母の愛といいますか、父なる神様の愛、ここから離れてどうしましょう。私たちはこの神様の胎内と言いますか、そのうちに守られている、この方から出る恵み、一つ一つのことば、働きに生かされているのです。私たちが力強いのではなく、力強い神様の御手の下にあって私たちは生きたものとなるのです。

 

不正、腐敗?むしろそんなことをする必要も、求める必要などない。むしろ神様の義、神様のすばらしさを求めるなら、いつかはなくなる富など何の役にも立たない、必要ない。神様がくださっている素晴らしいいのちを捻じ曲げて、別なものにおもねる必要もない、神様を疑って自分の義に、自分が考える義に従って生きるなんてする必要もない。最も正しい義なる神様が最善をなして下さる、その神様を疑ったところで何になるのだろう。何を得るのだろう、何の報いを得ることができるというのだろう。産んだお母さん、といいますかいのちを与えてくださった神様がいる、生みだしてそれで終わりではなく、今も、これからも支えてくださっている親、父なる神様がおられるという事はなんという恵みだろう。この神様に私たちは繋げていただいているのです。この世の王や支配者ではない、この天地万物を創られ、あなたにいのちを与えてくださった最高の神様、唯一まことの神様があなたの事を覚えているんですよ?これ以上何を求める必要があるでしょう。天にあなたの名前が刻まれているなんて。

 

イエス様は「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と仰られました。自分の広げる国や、自分が考える義を第一とするのではなく、神様の治めてくださる、広げてくださる国、御国が成ること、神様の義・正しさがここになることを求めよう、と仰られました。そうすれば、それに加えて、これらのもの全てが与えられる、と。これらのもの、というのは思い煩い求めるものですが、神様の義が、私たちの思い煩いを吹き飛ばし、そこに命を吹き込まれる。自分で何かを獲得するために一生懸命になりたい気持ちは分からないこともないのですが、それで神様が成そうとしていることを押しのけて、神様の御心をそこなって得られるものって何でしょうね。それって神様のくださるものに、御心に勝るのでしょうかね?私たちは自分の義で生きていませんか?神様の義を求めていますか?

 

私たちはこの詩で指摘されているほど悪いものではない、とたぶん思うと思います。でも、不正や腐敗をせずとも、自分を力ある者、自分こそ正しいんだ、と言って他の人たちを神様から迷わせるようなものであってはいけませんね。むしろ一緒に神様の御心を追い求める、一緒に神様を求める者でありたいですね、本当に力ある神様の御前に遜って。その中に神様のミクタム・神様が刻んでくださる、黄金のように輝く報いがあるから。

 

「神よ。彼らの歯を、その口の中で折ってください。主よ。若獅子のきばを、打ち砕いてください。彼らを、流れて行く水のように消え去らせてください。彼が矢を放つときは、それを折れた矢のようにしてください。彼らを、溶けて、消えていくかたつむりのように、また、日の目を見ない、死産の子のようにしてください。おまえたちの釜が、いばらの火を感じる前に、神は、生のものも、燃えているものも、ひとしくつむじ風で吹き払われる」と、ダビデは自分の義に生きる者たちの最後、様子を語っていますが、罪について神様は曖昧にせず、それを打ち砕かれ、裁かれます。愛なる神様なのに?いえ、愛なる神様だからこそ罪を見逃せない、だからこそ、今こそ立ち返ってほしい、と訴えるのです。その究極として、私たち神様から離れ生きるもの、神様の御前に、神様を義とせず、不正だと言って自分の義に生きる私たちをそれでも見捨てず、御子イエス様にこの思い煩いも痛みも、罪も一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。イエス様が身代わりにこの裁きをその身に負ってでもあなたを救わんとされた。義なる神様は罪を見逃せない、でも愛なる神様ゆえにその義で私たちを、御子イエス様のいのちを身代わりにすることで救おうとされたのです。

 

この愛を受けてなお、どうして神様から離れてなどいられましょう。予めこうして救いの道、いのちの道を示された神様の愛をどうして疑えましょう。私たちがこの砕かれたイエス様、あの十字架の御もとに悔い改め立ち返るなら、あなたの、私の罪は赦され、神様の子として迎え入れられる。そんな愛に私たちは今生かされている。こんな力強い神様がどこにいるだろう。このイエス様のいのちにあってもたらされる報いはどれだけ素晴らしいか、黄金のように、いやそれ以上に輝いているか。

 

「正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の血で洗おう。こうして人々は言おう。『まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。』」と最後にダビデは告白しますが、私たちは神様の正しいさばき、十字架によってすべてが現れ回復していく事をなお祈りたいものです。サタンを打ち砕き、神様の正しい義によってすべてが変えられ、回復していく事を。罪への、サタンへの復讐として、イエス様がその身を投げ出してでも私たちを救い出された、その大いなる愛が成す素晴らしい御業を。悪者の血、これが洗い流され、聖められていくことを私たちは執り成し祈りたいものです。

 

何より私たちは今日、本当に力ある神様の御もとに、まことの義を語り治めてくださる神様、義をなして下さる神様の御もとにへりくだろう。それこそ、昨日のエペソ人への手紙の分かち合いの中で見たように、「あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」とあるように、ご機嫌取りをするのではなくイエス様の御心に従い、仕えるものでありたいですね。この世と妥協するのでもなく、神様の義、これによってあなたのいる場所、あなたのいのち、あなたの日々が豊かなものとなるように。神様が黄金のように輝かせてくださる日々、これを私たちは待ち望もう。

 

詩篇58篇10-11節、少女と風船

私たちは様々な試練、苦しみに出会うことがある。でも、苦しいときほど“祝福”を数えよう。
 

 

    
あなたのひどい仕事も、失業者にとっては夢です。
あなたの家も、ホームレスの人には夢です。
あなたの微笑みも、うつに苦しむ人には夢です。
あなたの健康も、病んでいる人には夢です。
 
厳しく、生きるのがつらいときこそ、

 

自分に与えられている“祝福”を忘れてはなりません。

 

 
あなたは神様に愛されているんだよ。
あなたの隣人(あなたの隣に住む人、いる人だけではなく、好きな人も苦手な人も)も神様に造られ、愛されているんだよ。「自分の感じる」辛さは「神様によって」変えられるから。

 

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

(詩篇 103:2)
 
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント 12:9)
 

「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。」

エペソ人への手紙6章5-9節

 

人との関係というのはなかなか難しいですね。それぞれの考え方が違ったり、見ている方向が違うからなのかな。もしくは自分の方が優れていると思って見くだす、自分の考えを押し付ける、取っているつもりはなくてもマウントを取っていたり。仕事でもなんでもそうですよね。だから本当に難しい。何とかその状況に合わせようとして無理をして、疲れる。そんな関係ってどうなんでしょうね。いい大人なんだから我慢する?でも、私たちはこの世の主は自分でも、会社でも、相手でもない、神様だという事を忘れてはいけません。主なる神様が良いことを成したい、その神様の御前に私たちは遜る、また祈ることを忘れないでいたいものですね。神様は我が子のために最善を成したい、命を得てほしい、生きてほしい、と御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった、そんな方が成そうとされることがどれだけ素晴らしいか。私たちはこの神様からその主権を奪うことなく、委ね、互いに愛し合い生きたいものですね。

 

ということで、↑はかつて自分こそは正しいと考えていたパウロという人がイエス様を迫害し、そのイエス様を信じる弟子たちを迫害していた、もう神様から離れ死へまっしぐらと言わんばかりに生きていた彼が復活のイエス様に出会い変えられた、そんな彼が聖霊様に導かれ、書いた手紙の中の一つ、エペソ人への手紙の続きになります。

 

前々回、前回と、家族の話・夫婦、親子関係について見てきましたが、ここでは仕事関係、もっと言うなら人間関係についてパウロは聖霊様に導かれ、手紙に書き残していきます。そのベースとなるのは、4章まで見てきたように、「御霊様によって歩むことを、愛のうちに歩むこと、そして光の子どもらしく歩むこと」、ここにあります。

 

パウロは、当時のローマ帝国の支配や宗教家たちの迫害によって苦しんでいましたし、そういう意味で人間関係の大変さを実感していた、また他の人たちだってそのような苦労の中にいることを知っている、だからこそ、今何を見上げ、どう生きるか、それを訴えるのです。きれいごとでも何でもない、現実を見ていないとかそれどころか苦しみ、艱難の中にあって希望を彼は見出しながら。その希望こそ、助け主なる聖霊様の臨在、助け、導き、何より、こんな箸にも棒にもかからない、見捨てられてもおかしくない自分のために御子イエス様が十字架に架かられ、死なれるほどに愛されている、そんな方がいる、そこにあるわけですね。

 

それでパウロは「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています」と聖霊様に導かれ勧めます。この奴隷たち、といのは今でいうところの雇われ人、主人は上司と思ってくださればいいと思います。

 

それで、このことばを読んでいると、「主人に従いなさい」ということばに引っかかる人が出てくるかもしれません。気持ち、わかります。まあ近年ハラスメントの問題から、あまり理不尽な要求をしてくる上司は減ってきていますが、それでもそれはどうかと思う、という内容のことを言われることもあるでしょう、するように指示されることもあるでしょう。自分のしたいことや時間が…時になることもあるでしょう。

 

先程も書きましたがパウロは人のことをわかっていない、と思う方もいるかもしれませんが、彼はものすごい苦難に今あってますし、苦労知らずどころの話ではありません。人の痛みをわかっている、その彼が言いたいのは人の痛みをわかっているから妥協するとか、適当でいいとか、そういう事ではないのです。「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」と、「主に仕える」ということが主眼になっています。つまり、あきらかに間違っている事にはNoとはっきり言うことも大事。ご機嫌を取ったり上辺だけのことば、対応をして、結局妥協するのではなく、「神の御心」を、「キリストのしもべ」として行うのです。人のお心ではありません、自分流のやり方、自分が義と思うやり方、考え方を無理やり押し通すわけでもありません。

 

パウロだって、妥協して、ご機嫌取りやら上辺のつかえ方をしていたらこんな苦労はしなかったでしょうし、捕まる事もなかったでしょう。しかし、全ての主は、会社も、自分も、人間関係も、前回、前々回と見た夫婦、親子も含め、全ての主は神様。かしらなるキリスト・イエス様に従う、仕える、これが大事なのです。もし上司が間違っているなら、祈る、そして何が正しいか御心を祈り、そして決断、実行する。かけるべき言葉をかける。大人なんだから我慢する、しないではなく、神様の御心を求め実行する。

 

でも、その本質は、互いに仕え合い、愛し合うことなのです。イエス様は誰が偉いか、一番でしか論争をしている弟子たちに、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」と仰られました。

 

自分の権力をふるったり、偉くなろうと先んじるのではなく、むしろ遜り、仕えるものになるように、と。しもべのように。イエス様は仕方がないからそうされたのではなく、互いに愛し合う、友を愛する愛から遜り、する、そのことを通して神様の愛を彼らが知れば、変えられるなら、と喜んで遜り、仕えたのです。その姿勢を通して神様のすばらしさ・栄光が溢れることを願って。この事を通して神様の報いが現れるのです。

 

そう、見えてきましたね。これ、仕事の話だけではなく人間関係でも同じなんです。自分が主人であろうとして選ぶるのではなく、マウントを取り合うのでもなく、自分流を押し付けるのでもなく、自分の義を押し付けるのでもなく、神様の御心を行う、互いに遜り、仕え合う、その中に神様の素晴らしさがある、報いがある。人の報いではない、神様からの報い、御心が成る、なんてすばらしい話か。相手の前に遜る、その前に、まずまことの主なる神様の御前に遜る、そして神様の御心を求め神様に従う、その先に「主なる神様」が働かれるならどれだけ素晴らしいことが起こるか。それは難しいこともたくさんありますよ、だからこそ私たちに助け主なる聖霊様がいる、この方にハンドルを委ねる、助けをいただく、知恵をいただくのです。

 

だからいうまでもなく、「主人(上司)たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから」という言葉も必然ですね。むしろ同じようにふるまう、仕えあう、これ本当に大事。何より、自分が主であるのではなく、神様こそすべての主である、そのことを知り、仕事なり、人との関係にあたるなら全く変えられるのではないか。

 

私たちは今こそ思い返そう。主なる神様にもう見捨てられてもおかしくないほどに神様から離れ歩んできた、こんな私たちを見捨てず、かえって私たちを救い、偽の主人、この世、サタンの手から取り戻し、まことの主なる神様の手に取り戻されたことを。そのためなら御子イエス様に私たちの重荷も、罪も、一切身代わりに背負わせ、十字架に架け、死なせるというあり得ない遜り方をされてまで愛し抜かれ、救わんとされたことを。そこまでされて取り戻そうとしてくださったこの神様を私たちは忘れていませんか?この方が主としてなさろうとしてくださることを期待せずに何を求めましょう。そこまでしてすべてを新しくされようとされた神様が変えてくださる、関係、場所はどれだけ素晴らしいことか。私たちはもう一度主なる神様に帰ろう。そしてこの方の死をいのちに変えた復活の息吹があなたの職場、いる場所、関係に吹き込まれ、生きますように。この方の御前に今日遜り、主と告白し、この方の御心が成ることを祈り、また仕え、歩みたいものです。

 

神のために働く:エペソ6:5-9

先行き不透明、一寸先は闇、とよく言いますが、

そのままではつらいですよね。

もう今の時代何が起こるか分からない、一寸先は闇、と言いたい気持ちは分からないこともありません。それは、クリスチャンであっても完全ではないから起こり得ることだし、誰しもそう。

 

ただ、神様は黙ってみているだけではなく、命がけであなたを救い出すため、脱出の道となり、導いてくださるイエス様を神様が遣わしてくださったのです。命を差し出してでも、あなたを救うことを選ばれたのです。それはあなたが暗闇から引き上げられ、神様の恵みの内に生きることができるように。あなたを保証する方がいる、そのことをどうか覚えていてください。

 

       
一寸先は闇、ではなく、一寸先は光。

 

あなたにこの確証はありますか?

 

       
クリスチャンの心配事からの自由は、問題の解決が保証される自由から来るものではなく、心配を愚かなことだと思い、特に神様が私たちの父であるという確信から来るもの。従って、今私たちが受けている苦しみも、神様が心にかけておられることです。
ージョン・R・W・ストットー

 

 

船と信頼、神への信仰

「指揮者のために。『滅ぼすな』の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに

神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。セラ 神は恵みとまことを送られるのです。私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。セラ 神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。」

詩篇57篇1-11節

 

誰も大切な人が不幸になることなど望みはしないですよね。願わくば幸せになってほしいと願うと思います。親ならなおのことでしょう。時には時間を惜しまず接し、助け、犠牲を惜しまない。身体を時にははり、命をかけるような時も。大丈夫です、誰があなたから離れても、あなたをつくられた、あなたにいのちを与えられた神様があなたの事をだれよりも心配してくださっています。私たちが寝ている間も、起きている時も、辛い時も、元気な時も。何より私たちに滅んでほしくない、と御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださるほどに私たちを愛してくださっている。私たちはこの神様に信頼し歩もう。主はあなたを今日も守られ、導かれ、いのちの道へと導かれるから。

 

ということで、紀元前に生きていた様々な人がいろんな体験、それこそ死に追い込まれそうなことや、逆に感謝に溢れたこと、色んなことを体験しながら思わされ、知ったこと、そこに神様が介入され助けてくださったときに知ったことなどをうたった詩、それをまとめた詩篇の56篇を見たいと思います。なお、この詩も表題にある通り、古代イスラエル王国2代目の王ダビデが歌ったものになります。

 

その背景は、ダビデが王になる前、王宮に仕えていた際、王の嫉妬といいますか、自分は神様から離れ、祝福を失い、自分をある意味では認めるものを求めて心を奪われていった結果、悪霊にまで捕えられ支配されてしまった。そんな中でダビデが大活躍、民の心も彼に傾いた結果、ダビデのいのちを狙い、精鋭の兵3000人と共に彼を追いかけまわしていたんですよね。他国、ペリシテとの戦争中に、ですよ?自分の国を置いて何をやっているんだか、という感じですが、ダビデの味方だったものや、自分の出身部族のものにサウルに売り渡されたり、助けを求めて入った祭司の家が、ダビデを助けたことで皆殺しにあったり、ダビデはもう絶望の淵に立っていました。それでも神様は様々な人たちをダビデのもとに送り、彼を助けました。彼の兄弟だったり、3勇士と呼ばれる者たちだったり。

 

そんな彼らは今エン・ゲディというところに逃げてきています。それは死海のほとりにあるところで、川も流れ、飲み水は確保できるし、洞穴もあったので隠れるには十分な場所でした。↑の前の詩で見た、ペリシテに逃げる前、ですね。ダビデは実はサウルを討つ機会は何度か訪れます。このエン・ゲディや、もしくはその前のアドラムでも。しかしダビデや一緒にいる人たちはその機会を与えられても、逃げているのにどうして?と思いたくなるほど彼を討たず、サウルを逃し、神様に全ての時を委ねるのです。ちなみに、アドラムの出来事が先なのですが、その時、やはりダビデはサウルを討つ機会をもちながら逃します。そんな中で↑の詩が歌われます。

 

ダビデは今、「神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。セラ」とうたいます。そう、ダビデはサウルを討つ機会がありながら逃げている、でも洞穴に身を隠す、という不思議な事をしています。自分のいのちを付け狙うサウルと最後までダビデは戦うことはありませんでした。神様が油注がれたものを討つことは許される事ではない、神様が決められたことを自分で覆すなんてことはあってはいけないんだ、それは神様の主権を犯す事なんだ、と彼は決して手を出すことはありませんでした。

 

それなのに身を隠すって?と思うかもしれません。それは、先にも申し上げましたが、神様の現われを待ち望んだのです。神様の憐れみをただただ待ち望み、滅びが過ぎ去るまで、ただただ神様の時を待ち望んだのです。これが人の苦手なところですよね。ダメだった、うまくいかなかったら自分の手で反撃する。気にくわなければ何で神様、と叫ぶだけならともかくとして、まるで神様が何も良いことをしていないかのように罵り、退ける。まあそれをしたのがサウルだったのですが。彼の一族は王国ができる前にとんでもない罪を犯し、一族が滅ぼされてもおかしくないほどだった、にもかかわらず神様の憐れみによって匿われ、残され、ついには初代王としてその部族から選ばれた、まさに神様の御手の中にあって素晴らしい恵みを受けていたのに、自分に不都合なことがあれば、自分の望むとおりのことがないと神様を否定する。そして神様から主権を奪い取ろうとし、結局彼のいのちというか生涯をサタンの手に握られてしまうというとんでもないことになってしまった。

 

ただ、私たちは神様の憐れみによって生かされている。何かいいことをしたから神様が良いことをしてくださるなら、私たちは決して神様のそのいいことを受けられない。でも神様がまず私たちを愛してくださり、その憐れみで、愛で、愛するわが子のために良いことをいつも注いでくださっている、与えてくださっているのです。

 

イエス様は「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と仰りました。神様は、求めていい、捜していい、叩いていい、と仰られる。神様が我が子のために良いものを与え、思わぬものを見出させ、驚くべき道へ扉が開かれる。神様は、わが子のために適当な者やどうでもいいものを備えるのではなく、良いものを備えて下さるのです。いや、それ以上に新しい助け主なる聖霊様を与えてくださり、私たちを助けてくださる。何か物を超えた、聖霊なる神様ご自身が共にいる中ですべてを良いものへと変えてくださり、導いて下さる、守ってくださるのです。

 

ダビデは神様の憐れみを求めました。神様に身を避けました。いつどんな結果になるかなんてわからない。神様を信じて何になる?とは考えずに、ただ神様の時を、神様が展開される新しい扉の先を、日々を待ち望んだのです。サウルの王国ではなく、神様の王国を、神様のご統治を。「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。神は、天からの送りで、私を救われます。神は私を踏みつける者どもを、責めておられます」と、何よりも高い神様を、この方の御心が完全に成し遂げられることを。神様が必ず、先に見たイエス様のことばのように助けを送ってくださる、踏みつけるものを打ち砕き、この国をおかしくしているサタンを打ち砕き、神様のいのちで溢れる日が来ることを信じて。

 

私たちは今日誰の名を呼び認めているだろうか。神様を低く見て、「いと低き方、神」と呼んでいませんか?もちろんイエス様は低く低くへりくだってこられましたが、しかしだからといって私たちはこの神様のなさること、憐れみを、愛を、蔑んだり、低く見たりしていませんか?この方が成されることを過小評価していませんか?自分の常識に押し込めたり、矮小化していませんか?

 

地が送る、人が送る、自分が送るものではなく、神様が送ってくださる素晴らしい恵みを私たちは待ち望もう。神様のみもとに身を寄せ、神様の養いの中、御言葉に耳を傾け、また慰めを受けながら、力を受けながら、聖霊様に満たされ、その時を待ち望もう。神様の憐れみが来ることを。あきらめて、神様の御心を拒否して自分の業で戦うのではなく、神様の御力によってすべてが成る、神様の御心、最高の御心が成ることを信じて。それこそ表題にある「ミクタム」=「刻む、黄金」、神様が刻み形づくってくださる日々、いのち、国、家庭へと変えられていき、それがまさに黄金のように神様が輝かせてくださることを信じ。

 

なおダビデは「神は恵みとまことを送られるのです。私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。セラ」とうたいます。状況的には確かにダビデは今、まさに獅子の中にいるように、3000人の精鋭や千を討つとうたわれていたサウルに負われている。いつ食い殺されてもおかしくない。だから私は戦って討ちます、とはダビデは言わず、自分は神様の恵みとまことの中にいる、ある意味でまことの獅子なる神様の中にいるんだ、と。この神様が送られる助け、その助けからなる恵みとまことが輝くんだ、そう信じるのです。サウルに復讐するわけでも戦うわけでもなく、神様の方法で。彼らが神様に頼らず落ちた穴に、自分も頼らず落ちてどうする、と。神様が引き上げてくださる道を求めたのです。

 

まさにそのように私たちは自分の義に生き、神様を求めず自分で掘った穴に、罪の中に生き、神様の恵みを、祝福を失い死んでいく、そんなものに、↑の表題にあるように、「滅ぼすな」と訴えるように、私たちを滅ぼすのではなく、救うべく、私たちの罪の身代わりに御子イエス様を罰せられた、全ての重荷、痛み、悲しみ、思い煩い、何より罪の刑罰全てを背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、滅びの穴の中にいる私たちとともに引き上げてくださった。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、新しい神様の恵みの世界に引き上げてくださるのです。

 

「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように」とダビデはこの詩をしめます。まだ勝利は来ていない。しかしゆるぎない神様の愛、滅びるな、と私たちに訴え救わんとされる神様の愛が今私を支え生かして下さっている、だから目を覚まし、この方を見上げ、褒め歌を歌おう、その日が来る、その為に今も主が働かれ、導かれている、その見てはある、そのことを信じて。天にまで及び、雲にまで及ぶ神様の栄光・素晴らしさ、まことが全地に満ちる日を待ち望んで。あなたは今日、神様の到来を待ち望んでいますか?神様の救い、まことが、栄光・素晴らしさが満ち溢れることを望んでいますか?またこれが全地に満ち溢れることを祈りつつ、希望を失っている人に届けるものでありたいですね。全地であがめられる、回復していく日を信じて。

 

白インコが翼を広げ水面に映る

バイオリンを作るある職人がいました。彼は最上のバイオリンを作るために、質のよい木を探そうとあらゆる力を尽くしました。そして、最良の国産の木を選び、また良質の外国産の木も取り寄せたりしましたが、そうした努力にも関わらず、自分の望むバイオリンを作ることができませんでした。


ところがある日、樹木の境界線で苦労して育った木を発見しました。その木は節が多く、ねじれていました。冬の厳しい風と山頂から吹きおろす荒涼とした風雨に打たれて育ったため、形はまっすぐではありませんでしたが、とても頑丈でした。彼はその木でバイオリンを作りました。すると、そのバイオリンは、それまで作ったどのバイオリンよりもすばらしい音を奏でたのでした。

 

私たちはこんなもので何ができるだろう、と思う。

こんな状態で何の音楽を、喜びを奏でることができるだろう、生きることができるだろう、と思うかもしれません。

しかし、その中でもあなたを見出し、あなたに良い音色を、命を吹き込まれ、奏でさせてくださる方がいる。神様がいる。

こんな私を、あなたを見出され、あなたを良いものにもう一度回復させるため、御子イエス様のいのちを身代わりにしてでもあなたにもう一度命を吹き込まれたのです。

 

今日、この神様に委ねてみましょう。

神様が奏でてくださる命を、音色を、そこにもたらされる何かに大いに期待しようではありませんか。

 

↓は青梅市の補導施設(昔)洗心園の少年少女の詩集「おかあさんすいません」の中にあったものです。

       
 

「話の打ち明けられる人がほしい

 だれか

 僕のことを思ってくれる人が欲しい

 良い事

 悪い事

 みんな打ち明けたい

  この気持ちをだれも知らない」

 

*イエス様は私たちの祈りを聞いておられる。あなたの内に平安を与える。あなたの身近な存在となられた。辛いなら祈って良い、ぶっちゃけていい。イエス様があなたを新しくしてくれる。いつでもイエス様を頼って良い。そして、ぜひ、あなたにも、誰か苦しんでいる人が近くにいるなら、話を聞いてあげてほしい。それだけで違う。イエス様も、あなたの隣人を愛する事をおっしゃられた。隣人は仲がいい人や隣の家の人のことじゃない、嫌いな人でも、苦手な人でも、見ず知らずの人でもです。でも、そこに神様の御心をねがうなら、そこのイエス様の奇跡が現されるから。

 

イエス様が子供を抱きしめる絵「神の子」

これは、ある中学2年生の少女が、家業の倒産と家庭崩壊の中で転落死、売春と覚せい剤でとらえられた時に、その少女が書いた文章です。

 

「親の育て方が悪いからぐれたんじゃない。ただむなしいから、せつないから、さみしいから、泣きたいから、悲しくなることを忘れたいから。だけど余計に辛くなる。自分がわからない。どんなに考えても答えが出ない。答えがわかったら真面目になれる気がする。なぜこんなに切ないのか、むなしいのか。お父さん、お母さん、ごめんなさい。グッバイ、マイホーム!」

 

所これを涙を流さずに読めるだろうか。私はこれを読んだときに涙が流れた。娘さんの、小さな少女が吐き出した、悲痛な叫び。お父さんお母さんも、どうにもならなかったんだろう。彼らを助ける人がきっといなかったのかもしれない。

 

でも一ついえる事、それはお父さんお母さん、またこの少女の気持ちをよく知っている神様がいること。私たちがどんなにどんなにむなしく、寂しく、切なく、泣きたくなる、それを神様は良く知っている。あなたは一人じゃない。様々な問題に私たちは振り回される。世には罪の支配があるからそれは様々な戦いはある、でも神様はあなたと一緒に戦われる。現実を神様は無視しない。あなたを世から引き上げ、神様の養いの中に招き入れるため人となってこられた。あなたの身近な存在となるため。

 

答えは何でも神様にある、なんて軽々しくはつらい人には言えないけど、でも、あなたの悲痛な叫びを癒したい、と神様はあなたが頼るのを待っているよ?いいんです、つらければつらいで、叫んで。神様があなたを救い、導きだされるから。

       
「イエス様も、あなたがいくところにわたしも行くよ、と。だから一緒に行こうって誘ってくださってる。」

 

少女とイエス様、共に歩む

ある4歳の男の子とお父さんの会話。何かいたずらないし悪いことをしたようです。

父「ごめんなさい、と言いなさい」

子「                」

父「ごめんなさい、と言いなさい」

子「                」

父「ごめんなさい、と言いなさい」

目に涙をたたえて、その子は小さな声で

「ゴメンナサイ」

父「はっきり大きな声で言いなさい」

その時、子は大声で「もう言った」と言いながら、ワーッと泣いて、

父の懐に飛び込んでいった。

 

4歳の子供でも「ごめんなさい」が言えません。悪いと知っていてなお言えません。

そういえば父との距離がなくなる。それもわかっている。

受け入れてもらえる。

そして、父にしがみついてくる。そこに愛があることを知っているから。

 

ごめんなさい、の力はすごいですね。最後のところはまさに真実だと思います。これは親子に限らず、職場や友人関係でも同じではないでしょうか。

同様に、神様は、ごめんなさい、の一言で和解させてくださる。イエス様がもう、その罪の代価を払ってくれたから。あなたを子として受け入れ、あなたとの距離は一瞬にして埋まり、あなたを養ってくださる。