「ダビデによる
悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。悪者どもは剣を抜き、弓を張った。悩む者、貧しい者を打ち倒し、行ないの正しい者を切り殺すために。彼らの剣はおのれの心臓を貫き、彼らの弓は折られよう。ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる。」
詩篇37篇1-20節
まあ世の中を見回していますと、色んな問題がある。もちろん私自身が問題を起こさない、とは言いませんが、それも含めて。腹をたてたくなることもあるし、周りがうまくいっていると嫉みの気持ちも出てくる。そうしたものでごちゃ混ぜになって。その根底には、悪いことを行う人も含めて、何か不安に支配されているのではないか、何かを恐れているのではないか、と思う。しかしそんな何か分からないものに支配される人生、いのちなんてもったいないじゃないですか。神様は私たちをご自身の似姿に似せて創られ、ご自身の霊を吹き込まれ、最高傑作にあなたを造られたんですよ?すべての良いものを与えてくださった。それこそ御子イエス様のいのちをあなたの身代わりにしてでも救わんとされるほどに。この神様に期待してみませんか?あなたの造り主、父なる神様はどんな時もその思いをあなたに向け、いのちあるもの、息たものとしてくだろうと導かれる、働かれているから。
ということで、↑は紀元前に生きていた様々な人がうたった詩、それをまとめた詩篇になりますが、この37篇は、表題にある通り古代イスラエル王国2代目の王、ダビデがうたったものになります。この詩がうたわれたのは37篇の後編を見る限り、「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る」とあるので、ダビデの晩年、年老いたころにこれまでの生涯を振り返りながらうたったもののようです。ただ、この詩篇はとても長いので今日と明日の2回に分けてみたいと思います。
それでまずこの前半、悪者が栄えている現実を憂いながら「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行なう者は断ち切られる」とうたいます。
まあこれを読んでいて思うのは、逆にいつも正しいことを行う人はいないな、と思う。私もです。誰しもが間違いを犯すし、人から見たらそれはダメでしょ、という事をする人もいる。自分の考えでは正しいから、と押し通す、神様はそれはダメだよ、という事でも、自分の義、考えに合わせ、神様を否定し、自分を押し通す。自分と違う考え方の人に対しては結構な言葉を投げかけたり、思いっきり否定する…。聖書でも、義人はいない、一人もいない、といいます。このことばを語っているダビデだって、これまでの詩篇の分かち合いで見たように、とんでもないことをしてきましたよね。不倫の果ての隠蔽殺人、高慢になって自信を誇るための人口調査、それによって民に疫病が及び多くの民が死ぬ…。命がけで得た奥さんがいるのにその人を含め8人の奥さんをもつ…。もちろん信仰的な歩みをしてきたことも多くありますが、一方で人間的というか、結構な失敗をしている。明らかに悪と言えるものも。死の間際には、自分の息子を手にかけた将軍についての処遇も出したり。
ある意味ではどの口が言っているの?と言いたくなるところ。でも、だからしょうがないよね、好きに生きればいいんだよ、ではすまないのです。だからこそ、私たちは神様に従い生きる、そのことが必要なんです。それをまさにここでダビデはうたっているわけですね。罪を行ったら愛がない、ありのままでいいんだよ、なんてとんでもない話で、むしろ罪の内に留まらせる方が問題では?もっと言うなら神様に変えていただいた先に待っている喜びを考えれば、なお罪、悪の内に留まるべきではありませんね。
ダビデは、「草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」ようなものにいちいち腹をたてたり、そんなことで成功しているかのように見える、いやサタンが見せているものにうらやんで、妬んでも自分自身も倒れてしまう、枯れてしまうじゃないか、というのです。実際ダビデの不倫の果ての隠蔽殺人に至っては、一年以上、魂が抜けた、骨が枯れたような状況になりましたし、家庭もぐちゃぐちゃになりました(アブシャロムのクーデターのきっかけなど)。他にも、怒りに支配されて罪を犯すことに神様は警告をしていますし、その前に和解しようよ、とも勧めています。結局そうしたところにサタンが働く機会を与えてしまうわけです。先日エペソ人への手紙の分かち合いの中で見ました通りです。何かされて怒りなどに支配されて神様から与えられているいのち、日々を傷つける、失うなんてもったいないですよね。
その上でダビデは「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行なう者は断ち切られる」ととても大切なことを訴えています。
だからこそ、なんです。だからこそ神様に信頼し、「神様の善」が成ることに信頼する。箴言に見たような、自分の悟りに頼って諦めるのではなく、神様に信頼する。神様が全を成し遂げてくださるのです。じゃあ善を行う、とはどういうことなのか。善行といわれること?いやもっとシンプルで、でも難しいことなのかもしれない。それは、「怒りやねたみ」の反対、「愛する」ことです。神様はかねてからあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と仰られています。その隣人は、あなたの苦手な人も含めてです。怒りやそうした感情で支配されてその人と接するのではなく、それでも諦めずに愛する事、その中に神様の善が現わされるのです。私もそのことをこれを書いた前日に体験しました。本当に合わない、絶対にこの人は無理、と思える関係だった方がある日ついに、アドバイスをくれるようになって、それが終わった後、2人でガッツポーズをかわすほどにともに喜びました。その仕事によってかかわった人も悲しみから喜びに変えられた姿も見ました。もし、この方の協力が無かったらそんなことはなかっただろうな、と思う。
愛することは難しくても祈る、話を聞く、それだけでも、いつか何でこの人は折れないんだろう、良くしてくれるんだろう、そんな思いが生まれて変えられてくる日が来る、そう思わされました。善を行うのは神様、その神様の善を期待して、私たちは神様が仰られたように愛する、後は主に委ねる、信頼するわけです。地、たとえ思い悩ますところにあろうとも、そこに住みながら、誠実に生きる、ある意味では当たり前のことなのかもしれませんが、その当たり前の中に神様の善が現わされて、神様を喜ぶ、神様の善を待ち望むあなたの思いにこたえる神様が最善を成し遂げ、人や世の義ではない、神様の義が真昼のように輝く、義の太陽が昇るのです。その光を浴びる、仰ぎ見る日が来るのです。これを待ち望みますか?私たちは神様を断ち切る道、神様に断ち切られる道を進むのではなく、この神様を待ち望み、また遜ろう。その先に神様が引き上げてくださる善を待ち望もうではありませんか。
なおダビデは「ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。悪者どもは剣を抜き、弓を張った。悩む者、貧しい者を打ち倒し、行ないの正しい者を切り殺すために。彼らの剣はおのれの心臓を貫き、彼らの弓は折られよう。ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる」とうたいます。神様が取り除いて下さる約束をダビデは体験的に老年になって見、また貧しい人、神様に遜るものが神様の地を受け継ぐ、その恵みを知ったわけですね。豊かな繁栄を神様がもたらして下さったそのいのちを。
どんなに敵、悪が挑んでこようとも彼らは神様の前に歯ぎしりするしかない。神様は笑い、私たちに笑みをもたらして下さる。神様が味方なら私たちは誰を恐れる必要があるだろう。神様が笑わせて下さる日を望まずして何を望みましょう。神様は神様を待ち望む者を確かに支えておられる、老年になっても、若くてもいつでも。
神様はそのように私たちを救う、その愛を現すべく、いや神様から離れ好き勝手に生きる私たちに怒りを注ぐのではなく、愛するゆえに、その怒りを御子イエス様の上に注がれました。あの十字架の上に。私たちの罪を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架け、その怒りをイエス様の上に注ぎ、罰し、死なせたのです。そうしてでもあなたを愛することを選ばれ、善を行われた。そのさきにある、復活の先にある、このイエス様を受入れる人の内に与えられる善、ご計画、御心はいかばかりか。今日私たちはこの神様をどこまでも待ち望もう。この神様の愛に生かされ、支えられ、歩もうではありませんか。イエス様のいのちにあって買い戻されたこのいのち、そこに注がれる神様の善、御心を喜び期待して。
