子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。『向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、【なぜ、ほどくのか】と尋ねる人があったら、こう言いなさい。【主がお入用なのです。】』使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、『なぜ、このろばの子をほどくのか』と彼らに言った。弟子たちは、『主がお入用なのです』と言った。そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。『祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。』するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、『先生。お弟子たちをしかってください』と言った。イエスは答えて言われた。『わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。』」

ルカによる福音書19章28-40節

 

人は自分を色々なもので着飾り言葉が悪いかもしれませんが、虚勢をはりたがります。バブル期だったころでいえば、車ですか?それとも付き合いの数ですか?地位ですか?しかしそんなもので着飾ったところで何になるんでしょうね。例えばバブル期に誇っていた数々のものがどれだけ現在残っているでしょうか。今は時代が違うにしても、私たちは誇るべきことを間違ってはいけません。イエス様はあなたを愛している、ご自身の命を身代わりにされてまであなたを救われたという、この命があなたに注がれているということを。この命にあって今日生かされているというとを。あなたは神様の子の愛をどれだけ喜んでいるだろう、イエス様を求めているだろうか。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を歩み続け、様々な人を癒し、救い、また悔い改めに導かれ、ついに十字架にかかる時が近づき、エルサレムに昇っていく最中のことです。いよいよエルサレムに「入場」される直前、オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエス様はふたりの弟子を使いに出して、『向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、【なぜ、ほどくのか】と尋ねる人があったら、こう言いなさい。【主がお入用なのです。】』と仰られます。

 

実は、ゼカリヤという預言者を通して神様は、イエス様のお生まれになる前に「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」と預言されました。王として来られる方、それが今エルサレムに来られようとしている、の中で、イエス様は、神の御子なのですから、もっと救い主、王らしく、素晴らしい軍馬などに乗ってこられるのかと思ったら、なんと子ろばにのって入場されるのです。

 

もっと人々の注目を集めるような乗り物に乗られればいいのに、と思いたくなるところですが、イエス様は自分の栄誉を集めるために、ただの地上の王となるために来られたわけではないのです。イエス様は救い主としてこれから十字架にかかりに行く、ローマ打倒のためではない、私たちの最も必要なサタンの打倒、罪を身代わりに背負われ、私たちを解放、癒すために来られたのです。ちなみにろばの子の背中には十字架が描かれています。びっくり。まさに十字架をイエス様と一緒に背負いのぼる動物、いけにえとして選ばれていたのです。

 

 

 

それにしても、ろばの持ち主からしましたら、いきなりそんな知らない人がほどこうとして連れていこうとしたらびっくりでしょう。しかし、逆にイエス様が求めて弟子たちを遣わしたとき、そこにいたということもまたびっくりなのですが。

 

「主がお入用なのです」で彼がすんなり了承したのも素晴らしいものがあるのですが、その人からしたらある意味で何のために?とも思うでしょう。ろばの子に、しかもまだだれにも乗られたことのないろばの子に乗るなんて無理でしょう、と思うところ。ただ、一つ忘れてはいけないのは、ろばの子をお入り用で、持ち主は関係ない、のではなく、ちゃんとその人にも伝えるということは、その人にもイエス様はある意味で用事があったのです。このろばの子に乗ってイエス様がエルサレム入場されるということは、王として、支配者として今上るのではなく、謙遜になられ、イエス様の十字架による救いをすべての人にもたらされる、そのために今彼に語り掛けているのです。他の動物でも、またほかの飼い主でもない、この人に、ご入用なのです。この人にも、イエス様が救い主として来られたその目的、平和が彼の内になることを願われたのです。

 

あなたをイエス様は求めている。ろばの子だけではなく、その飼い主にまさにその愛を注がれようと求めていたように。ただ十字架にかかりに行くだけでしたら別に普通にエルサレムに昇ってもいい、しかし、今神様のゼカリヤを通した預言がまさに成就、彼らのために、あなたのために成されようとしている。イエス様の十字架による平和、神様との和解があなたのうちにも注ぐために、通り過ぎず、あなたもこの道を共に進もう、と声をかけられているのです。あなたにもお入用、あなたは神様にとって欠かせない大切な存在なのです。

 

群衆たちはイエス様を見て「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に」と棕櫚の葉をもってお出迎えします、喜んで、賛美して。しかしこの後一転して彼らはイエス様から離れていきます。イエス様は自分の理想の救い主ではない、と。12弟子のひとり、イスカリオテのユダも。しかし、私たちは小さなろばの子のようであっても、イエス様は十字架をもって私たちを新しくされ、神様の子と変えてくださるのです。

 

このイエス様の歓待ぶりをパリサイ人たちは止めさせようとしますが、しかしイエス様のあなたへの愛を止めることはできません。それなら私たちが、あなたがどうしてイエス様は自分の求めているものとは違う、と排除できるでしょう、する必要があるでしょう。イエス様を「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に」と群集は迎えましたが、しかし、私達はイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る時、まさに本当の意味の祝福をいただけるのです。

 

私たちは遜りの心をもってイエス様を私たちの内にお迎えしようではありませんか。主があなたを新しくされる、罪あるもの、どうでもいいはずのものから、神様の子と変えてくださる、そこに溢れる祝福に満たされ今日も歩みたいものです。

 

私の義兄のスキットの

「戦場のメリークリスマス」です。

とても素晴らしく、また面白いのでよければ見てください(*^_^*)

 

せっかくのクリスマスの時期、クリスマスの意味、神様からのプレゼントを少し味わいませんか?

 

 

人はある意味で楽園と言いますか、天国にあこがれます。

まあ、それは地獄に進んでいきたい、なんて人はいないでしょうけど。

じゃあ天国ってどこにあるの?

死んでから?でも、私たちは天国の前味を実は味わわせていただけるのです。

 

主よ、あなたのおられるところが楽園であり、
あなたのおられないところは地獄です。
ーある説教者ー

 

イエス様はあなたの居場所となるために今から約2000年ほど前に来られました。あなたの内に住まい、地獄を天国に変えるため、罪の奴隷から神様の子へと変えるために来られたのです。そしてあなたの内に住まうため、あなたの罪を身代りに背負われ十字架に架かられ死なれました。そして3日目によみがえられた事で、あなたと神様を和解させ、地獄を天国に変えてくださったのです。

 

あなたがイエス様を受け入れるなら。この復活のイエス様があなたの内に住まわれ、御心を現してくださる、ここから始まるのです。イエス様の内に留まり続けようではありませんか。

 

「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、ただあなたによってのみ、御名を唱えます。死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現わし、この国のすべての境を広げられました。主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。私たちもみごもり、産みの苦しみをしましたが、それはあたかも、風を産んだようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれません。あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。さあ、わが民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。」

イザヤ書26章12-21節

 

平和、これは誰しもが願っているでしょう。国単位でみなくとも、私たちの周り、職場、家族そうした中にあって、「平和」であることは誰もが願うことです。まあ独裁的な国家などはそうではないかもしれませんが。そう、何をもって平和何か、ということを考えると、誰が本当の意味で平和を作るのか、だれがそれをなして下さるのか、どれこそが大事だということが見えるかと思います。イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」と仰られましたが、イエス様が働かれるところに本当の意味で平和がなるのです。人の欲する平和ではなく、御子イエス様の命にあってなされる平和が。私たちは今日、イエス様がなして下さる平和、御国を何より求める者でありたいですね。

 

さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことになります。↑のイザヤの黙示録と呼ばれる箇所、ここまでは世の終わりと、そこに残された希望、再臨のイエス様が来られる、永遠へと導こうとされているイエス様が再び来られ、地上がどんなに横暴な者が支配するようになろうとも、終わりの時には地は回復され、完全に静められること、驚くべき花嫁の晩餐をイエス様が私たちを迎える時のため、用意されている、何より、艱難苦難の中にあっても神様ご自身が私たちの城壁となり守り導いて下さる事を見ました

 

神様から終わりの時について啓示を受けたイザヤはなお「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから」と歌います。これは非常に大事なことを彼は告白していますね。といいますのも、平和は自分たちの努力によって勝ち取るものではなく、神様が備えてくださるというのです。ある人は、いや人間が努力してようやく平和は勝ち取れるんだ、というひとがいますが、そうではなく、神様が、平和を作られるのです、「備えてくださっている」のです。

 

まあある人は、でもその宗教が戦争を起こしているじゃないか、というかもしれませんが、そもそもの話が、宗教を「盾にして」、「人」が争うことをしたらそれはそうです。しかし、神様は宗教ではありません。平和平和、と黙ってじゃあ苦しんでいる人を見過ごされる神様が正しいのか?神様はむしろ回復のために戦われるのです。

 

ヤコブという、イエス様の弟(イエス様は聖霊様によってマリヤの胎内に「宿られ」ましたが、ヤコブはヨセフとマリヤから生まれた子供)は手紙で「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます」と、迫害、困難時代の中、人の知恵によって戦いを仕掛けるのではなく、神様の霊・もっと言うなら御霊様に従い、その知恵を求め、従うことを勧めます。神様が見せかけではない、本物の義の実をそこに結ばせてくださる、と体験的に語るのです。

 

イザヤがこのことを啓示を受け、語っている時は、まだアッシリヤの脅威が目の前に迫っています。人間的には無抵抗にやられるがままでいいのか、と思いたくなるところですが、無抵抗ではありません。神様の御前にへりくだり、委ねるのです。彼は神様の啓示を受け、信じ、従う決断をする、その中で、この啓示を受けたころのアハズ王の死去、その後に登場するヒゼキヤ王の時に確かに、それでも神様に従うことを勧め、アッシリヤを退け、結果アッシリヤは崩壊に向かいます。神様が何もしてくれないから自分で、ではない、自分望むとおりにならないから、と神様に敵対をするのではなく、神様の御心、知恵を求める、それに従う、その時、人の手では成し得ない平和を、永遠の勝利を神様がなして下さるのです。

 

神様が主となる時、そこに御国がなる、私たちは自分の都合のいい誰か、論理を王として立てるのではなく、また自分自身が神様を退けて王になろうとするのではなく、神様の御前に遜り、王として神様を迎えようではありませんか。といいますのも、イザヤが「私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、ただあなたによってのみ、御名を唱えます」と続けて歌っている通り、結局彼らが神様を恐れなければ、形や方法が変わるだけで、結局あなたを支配し、苦しめることには変わりはありません。しかし、そんないつ態度やなにやらを変えるような価値観、君主、リーダーにあなたを支配させて良いのでしょうか。

 

しかし、そこに先ほども触れました平和はなるのでしょうか。神様は、あなたを裁くのでしたらとっくに裁いて見捨てる事だってできます。しかし、神様はまだあなたを待っておられるのです。どうして?神様の平和、義があなたの内になる事を切に願われているからです。イエス様の十字架によって裁きは、赦し、命へと変えられるのです。あなたがこのイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る時。このイエス様の命がけの愛、十字架によって和解された神様のあなたの内に成されようとしている事にどうして疑いを挟む余地があるでしょう。あなたの主は今日、誰と告白しますか?

 

さて、神様の啓示を受けたイザヤはなお「死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現わし、この国のすべての境を広げられました」と歌います。なたをどれだけ神様から引き離そうとするものがあったとしても、何度も立ち上がろうとしても、神様からあなたを離せるものは何物も存在しません。何よりイエス様の十字架によってあなたのことを天においても覚えられ、その書物にあなたの名前が刻まれている、覚えられている、神様はある一時だけあなたを助けるのではなく、神様の隠れ場、城壁にあなたはイエス様の御名によって招かれ、その家族ゆえにあなたを守られるのです。神様をあなたが受け入れる時、自分は小さくされていいんです、その代わりに神様の豊かな恵みが、御心が、ご統治が溢れ広がるのです。

 

そういえば、イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」と仰られました。それは、何か平和になる活動をしたら、その人が神様の子と呼ばれる、とかそういうことではないんです。本当に平和を作るもの、というのは、イエス様を置いて他にはいません。というよりもイエス様以上に平和を成し得る方はいないのです。私たちがまだ罪の内にいた時、私たちと争いさばいて捨てる、ということもできる中で、かえって私たちが神様と和解できるように、私たちの身代わりにその罪を背負い、身代わりに罰せられ死なれる、そこまでして平和を、神様にある平和をなして下さるのです。

 

このイエス様が、十字架にあって神様の平和をなして下さる、そこに神様の国が広がる、だからこそ、そこに住まわせていただく、生きさせていただける私達もまた神様の子としての本当の恵みを受け、生きさせていただけるのです。それもそれはちっぽけなものではなく、御子イエス様の命にあって、生みの苦しみをもってと↑である通り、まさにイエス様の命という一粒の種が地に落ちて死んだその種から私たちはイエス様の復活と共にその恵みに与らせていただけるのですから、これ以上感謝な事はありません。

 

イエス様は十字架にかかられる前「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」と仰られました。まさに生みの苦しみ、イエス様の身代わりの死というあり得ない苦しみから絞り出されて、あなたはこの恵みを示された、それは一時的なものではなく、永遠に至るものなのです。

 

イザヤは↑の最後で「さあ、わが民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない」と歌います。「わが民」というのは厳密にはユダヤ人を指すのですが、残された者たちも含まれますし、神様は今もノアの時代、大洪水を起こされる際、箱船を用意されたように、今あなたを招かれているのです。ここで世の終わりの7年間の患難時代(終わりの時だけではなく今も)に、自分たちが突き刺した方を見て、悔い改める日が来ます。そしてこの苦難を通り抜けることができるように、神様は隠れ部屋を備えてくださり、彼らをかくまってくださっているのです。

 

「神様が」備えてくださっている平和、隠れ部屋と言いますか、隠されてはいないのですが、私たちはここに招かれている、私たちはその中にあって、神様の平和が豊かに広がっていく、まし加わる事を切に今日祈ろうではありませんか。神様が終わりの時に向けて、今も少しでも多くの人が神様の恵み、子としての恵みに与れるよう、まず御子イエス様の命を差し出してくださったのだから、私たちのために、今日もその御手を伸ばされ、御力を、御心を現される神様に大いに信頼し、歩もうではありませんか。

 

聖書、世界のベストセラー、これを超えるものはいまだにないでしょう。

様々な書物が出ても、これだけ10数世紀以上にわたってベストセラーであり続ける本は聞いたことがありません。時代の変遷とともにいつかはその書かれていることがひっくり返るからです。

 

しかし、聖書は時代の変遷で変わるものではない、神様の不変の愛が書かれているのです。いや、神様が語られているのです。本来滅ぶべきはずの私たちの罪の身代わりに十字架に御子イエス様をかけられ死なせた、というあり得ないことを実行された、その方が変わらず今日、あなたに命を得てほしい、と語られ、御手を伸ばされています。

 

ということで、今日は日曜日ではないのですが、しろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よければ聴いてくださいm(__)m

 

ヨハネによる福音書7章38-39節

「聖書が言っているとおり・・・ですか?」

 

 

今はアドベント、という期間になります。

まあ、今の時代サンタがどうの何ていう人は流石にいないでしょうが。

恋人と楽しむ期間でもないですよ。

 

キリストの降誕を待ち望む期間(正確には降誕されたことを喜日感謝する)とされているのですがこれをアドベントといいます。

 

その元の言葉はアドベンチャー、そう、冒険なんだそうです。

神様を信じる、受け入れる、ということはある意味では冒険のように感じるかもしれません。

 

しかし、神様は御子イエス様を最大の旅に出されたのです。わざわざ赤ちゃんという形をとって生まれさせてくださったのです。私たちと一緒に歩むために。同じ道を、同じ重荷を背負ってくださり。

 

あなたがイエス様を受け入れるなら、イエス様もあなたと共に世の終わりまでアドベンチャー、冒険な日々を導かれる、一緒に。楽しいじゃないですか。

 

クリスマスはイベントではない、この大冒険への始まり。

私たちはこのイエス様と共に歩もうではありませんか。

 

「その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける。義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を認めて恥じますように。まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くしますように。」

イザヤ書26章1-11節

 

世の中様々な優れた人、事業などがありますが、中身が肝心と言いますか、柱となる何かが不安定ですと、一方で、この人がいると何か安心する、大丈夫、という安心感を持てる人がいると、それだけで変わってきますよね。私も以前職場で、何人かそういう人と出会いました。この人がいるなら今日は大丈夫そう、という逆もありますが。あなたの人生には誰がいますか?色んな人と私たちは出会い、また支えられ、励まし合い歩みますが、あなたのすべてを救い出すために御子イエス様は惜しまずいのちを差し出してくださりました。あなたが命を得るためなら、と。あなたのために命さえかけるほどに愛されるイエス様に私たちはどれだけ信頼し歩むでしょうか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことになります。24章からは世の終わりについての預言、イザヤの黙示録と呼ばれる箇所、ここまでは世の終わりと、そこに残された希望、再臨のイエス様が来られる、永遠へと導こうとされているイエス様が再び来られること、また、地上がどんなに高慢な者、騒がしい者、横暴な者が支配するようになろうとも、終わりの時には主が意図されたとおり、地を回復され、騒ぎや横暴な者たちは完全に静められること、驚くべき花嫁の晩餐をイエス様が私たちを迎える時のため、用意されていること、それに向けて今も私たちを道いてくださっている事をここまでみました。今回はこのイエス様を受け入れて何があるのか、もう少し具体的に語られていきます。

 

終わりの時を啓示されたイザヤはなお「その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる」と歌います。その日、これは第一義的にはこれまで神様がイザヤに啓示した終わりの時、大患難時代の時を指すわけですが、その時になると、今もそのような傾向が中東に見えますが、偽キリストといいますか、サタンが内住してイスラエルを苦しめてくる、いやイスラエルだけではない、もし艱難後軽挙(24-25章でもふれました、大患難時代の後に、イエス様がもう一度来られるという説)の場合ですと、クリスチャンはもとより、多くの艱難、迫害によって、いのちを奪われる、昔の日本でいうところの踏み絵どころのレベルではない問題が起こる、そのなかで、神様はそれでもユダを城壁と塁を守られる、と約束されています。

 

ちなみに、艱難前軽挙(艱難時代の前にイエス様が再臨されるという説)の場合、クリスチャンは軽挙されます(わかりやすく言いますと、すでに死んでいる人は引き上げられ、生きている人はイエス様を救い主として受け入れたかどうかで死なずに天に引き上げられます)が、信仰を持たなかった人などは残されてしまう、それでも神様は彼らを何とか救おうと御手を伸ばされ、救われる人たちが起こされます、が、結局その残された人たちは偽キリストに従わなければ命を奪われかねない、やはり踏み絵のような問題が確実にある。

 

その中で、神様はいずれにしても、「神様という」城壁と塁をもって守ってくださるのです。物理的な城壁でしたら、今の時代では空爆でもあれば一発で終わりますから、単純に城壁の一言ではないことが言えます。もっと言いますと、バビロン捕囚後の預言者ゼカリヤを通して神様は「エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。―主の御告げ―わたしがその中の栄光となる」と語られている通り、やはり神様も、ご自身の宣言のもと、城壁となり、囲いとなり、私たちをかくまい守られることを約束されています。

 

だからこそ、ゼカリヤを通して神様は「さあ、さあ。北の国から逃げよ。…さあ、シオンにのがれよ。バビロンの娘とともに住む者よ。主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる』と。このとき、あなたがたは、万軍の主が私を遣わされたことを知ろう。シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。…」と語られます。

 

逃げ込んでいいんだ、と。その城壁はあなたに向けて開かれているから、と。神様ご自身が城壁となる、だから私たちはどこにいようとも神様を求めて良いんです。イエス様も、昨日も引用させていただきましたが、終わりの時について語られている中で一言、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、…ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」と語られています。

 

イエス様、一部の人しか興味ない?救わないの?と思われるかもしれませんが、しかしイエス様は終わりの時は、全世界に福音が宣べ伝えられ、すべての国民に証されるまでは来ないと仰られました。ということはイエス様の福音、救いは、十字架によってすべての人に開かれたのです。復活されたイエス様も、全世界に出ていき福音を宣べ伝えなさいと仰られましたし。天と地が結ばれた十字架は、神様の愛は、こんな暗闇の中に閉じ込められている自分には関係ない話だ、ということはないのです。むしろイエス様は、御子でありながら、罪人である私たちと関係あるものとして回復させてくださった、だからこそ、今あなたに向け城壁は、その城門は開かれている、神様の家族としての恵みはもう始まっているのです。

 

↑の歌は自分には関係ない、ということではありません。そもそもイザヤも、まだイエス様が人となってお生まれになる700年近く前にこの預言に触れています。ある意味イザヤよ、あなたは気を付けて他の人のようにはならないでね、と神様が仰るのではなく、ユダヤの城壁、城門は開かれているというのです。その城壁・城門はあなたにも開かれている。そうでしょう?イザヤからしたら先の時代より今目の前の問題を、と思う中にあって、その城壁を開かれている神様が今、語られている、今もその大いなる愛、約束がある終わりの時だけの話ではない、その神様の愛は今彼に、あなたに向けられているのです。

 

「私たちが」城壁を建てたら守られるのではない、神様が私たちの城壁となってくださる、何という幸いでしょう。閉じ込めるためではない、神様ご自身があなたを家族として、迎え入れ、その中であなたを守り導き養ってくださるのです。

 

神様から啓示を受けたイザヤはなお続けて、「城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける」と歌います。

 

城門を開けて正しい民を入らせるのは神様です。だってそうでしょう?先ほども申し上げました通り、この城壁となり、招いてくださっているのは神様なのですから。全き平安の内に、終わりの時でも、また今も、神様は私たちを招いてくださっているのです。それこそ、昨日分かち合わせていただいたような宴会、完全な養いの内にあなたを守ろうと。御子イエス様の命を持ってまで招かれたのですから、これ以上感謝な事はありません。

 

イエス様の12弟子のひとりであったヨハネはイエス様の啓示を老年になって受け、残した黙示録の中に「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。【わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。】…』」と書き残します。その城壁の鍵をある意味で神様は閉めることはできるのです。うたくさんだ、これだけ好き勝手に生きて何をいまさら、というのではなく、閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた、というのです。イエス様の御名によって、あの十字架に示された愛ゆえにその門をまだあなたに向けて開かれている、後は私たちがそのイエス様なんて興味ないとか、拒否するのではなく、受け入れる時私たちはこの全き平安を受けることとなるのです。

 

イエス様を信じて何になるのか、と世の人たちはあなたをさげすむかもしれない、そのような時も来る、それでも、私たちが忘れてはいけないのは、私たちが強いのではない、このイエス様の前に遜り、また委ねる時、私たちの弱さの内に神様は完全に働かれるのです。そして小さな力が私たちにある以上に、神様の偉大なご計画が、御力が、あなたを覆い、守られるのです。神様がいるからこそ、私たちは平安でいられる。本当の平安はまさに神様が与えてくださるものなのです。御子イエス様の命を惜しまないほどの愛をもって。

 

確かに↑の中盤以降に歌われているように、夜のようなつらい日々を送る日はあるかもしれません。しかし、そのようなあなたの道筋をならして平らにしてくださる、義の神様が今日、あなたをこのイエス様の城壁、囲いへと、導いてくださるのです。イエス様の示された道が私たちの目には平たんに見えなくとも、イエス様が一緒にあなたと進み、とこしえの義の道に導かれるから、私たちは主の前に遜り、このイエス様にゆだね、従い、イエス様の栄光を仰ぎ見させていただこうではありませんか。この義の内に、この道は確かにあなたのために命をかけられたイエス様が共に進まれ導かれるのだから。

 

アルバム。思い出が詰まっていますね。

幼稚園の卒園アルバムから全部未だにもっています。こんな年令になっても。

でも一つ一つは私にとってはとても大切な思い出。

 

だってそうでしょう?

一つも無駄だった日はないはず。思い出すのは小学校の時、1日登校拒否をしたのですが(ハラスメント教師に耐えかね)、私は屋根裏みたいな所に隠れていたのですが、運悪くその日、誘拐事件があったようで、先生方、校長先生、教頭先生、みんなで探し回ってくださったそうです。その先生方の顔を見ると本当に嬉しい。ちなみに私を発見したのは母親でしたが^^;

 

神様って、私たちに1日1日無駄のない最高の1日、物理的な写真を飾ることはできなくても、私たちの内に刻まれているのです。

ある賛美で、もし神様の家に冷蔵庫があったら、写真立てがあったら、きっと君の写真が飾られているよ、だかなんだかって歌詞があったのですが、

神様もあなたのことを日々覚えて、あなたのうちに御心を現してくださる。心配しなくて大丈夫です。あなたは神様に愛されている。その歴史があなたのうちに刻まれていることを忘れないで(^o^)

 

こんな記事を読みました。まずはこちらをご覧ください。

 

「神様には得意ジャンルがある」

 

大きな神社には、どんな神様がまつられているかを説明した立て札などがある。無病息災や家内安全が一般的だが、できればご利益を期待して、学力向上には学問の神様、恋愛成就なら縁結びの神様にお願いしたいところ。見分ける簡単な方法として、神社の名前に注目すればわかりやすい。

 

・神宮(伊勢神宮、明治神宮など)→昔の天皇→願うならスケールの大きなことを。

・稲荷(豊川稲荷、伏見稲荷大社など)→穀物の神様→商売繁盛

・天神、天満宮(湯島天神、太宰府天満宮など)→学問の神様・菅原道真→学業成就

・八幡(宇佐八幡宮、石清水八幡宮など)→母性の象徴→安産、家内安全

 厳密には神社によってご利益はそれぞれ違うため、調べてから出かけたい。「雨乞い」「サッカー必勝」「短歌・俳句・文章上達」「豊乳」「神経痛・腰痛平癒」など特徴的なご利益を打ち出している神社もある。

 

皆さんはこれを読んでどう思いますか? 私は(失礼ながら)思わず「ごくろうさまです」と思ってしまいました。聖書は「まことの神は、世界でただお一人だけだ」と伝えています。

 

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ書45章22節)

 

人間(職人さん)が木や石を掘って作り出したものが本当に神様ですか?

人間が神を作った = これが宗教です。

 

ここでひとつ質問させてください。

次の二つのうち、どちらが正しいでしょうか?

①お母さんが子供を産んだ

②子供がお母さんを産んだ

 

答えは簡単ですよね。子供がお母さんを産みますか? あるいは子供が石や木から一人の女性を作り上げて、「今日からあなたが私のお母さんです」とお願いし、ご飯を作ってもらったり、オムツを換えてもらったりするでしょうか? その前に木や石で作られたものなら動かないでしょ? ご飯を作ってくれるとかいう以前に、会話すらできない存在なんですよ。これって変な話でしょう? 逆でしょう? そんなことをしている人を見かけたら気持ち悪いですよね。私はそれこそ変な宗教じゃないかって思ってしまいます。普通はお母さんが子供を産むのです。そこから正しい親子関係が生まれてくるのです。それと同じです。人間が神を作ったら、順番が逆なのです。それはおかしな話なのです。

 

聖書におもしろい表現がされていますよ。

主はこう仰せられる。「…国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(エレミヤ書10章2節~6節)

 

注目してください。「そんな【物】を恐れるな」と言っています。それは命のある存在、「者」ではなく、ただの動かない「物」だと言っているのです。聖書は、神がこの世界と人間を造られたと伝えています。しかも全知全能のお方であって、不可能なことがないお方です。それが本物の神、創造主です。

 

「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」(エレミヤ書37章27節)

 

なるほど世の中には「神」と呼ばれるものがたくさん存在しています。でも常識的に考えてみてください。それぞれに得意分野があって、苦手な分野、担当外の領域があるなんて、そんなの本当の神だと言えますか? たとえば稲荷神社に受験のことを祈ったら、「あっ、ゴメン、私はそれは得意分野じゃないのでできません。天神様のところに行ってください」って断られるのでしょうか。

 

それが神様? あなたはそんな神様に本当に信頼できます? 何でもできるから神なんじゃありませんか? できることと、できないことがあるなら、それはもはや人間と一緒ではないでしょうか。どうか雰囲気や習慣、伝統に流されず、まっすぐに、そして素直に、単純に考えてみてください。それがあなたの神ですか?そんな神様に本当に信頼し、あなたと、あなたの大事な人たちの人生をあずけられますか?私にはできません。あまりにも頼りなくて…。

 

まことの神、創造主は、お賽銭をあげなきゃ御利益をくれないような神様でもなければ、苦手な分野があるお方でもありません。まことの神(創造主)には得意ジャンルなんて存在しないのです。すべてが得意ジャンルです! なぜならこのお方はこの全宇宙をことば一つで創造し、私たちを…あなたを造られた唯一まことの神であり、創造主であり、救い主だからです。

 

「聖書の神が、ただ唯一まことの神です。」

そう言うと、多くの方々が言われます。

「キリスト教は傲慢だ、他の宗教や神々を認めようとはしない」

 

いいえ、違います。本物だから「本物です!」と確信をもって宣言できるのは聖書の神だけなのです。

どうぞ聖書をお読みになってみてください。そして世界で最も大事な真実を発見してください。そしてお近くのキリスト教会にお出かけになってみてください。

あなたが本物の神と出会えますように。

 

【聖書のことば】

わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。このことを思い出し、しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。」(イザヤ書46章5節~9節)

 

ーしろくま先生ー

 

「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。その日、人は言う。『見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。』主の御手がこの山にとどまるとき、わらが肥だめの水の中で踏みつけられるように、モアブはその所で踏みつけられる。泳ぐ者が泳ごうとして手を伸ばすように、モアブはその中で手を伸ばすが、その手を伸ばしてみるごとに、主はその高ぶりを低くされる。主はあなたの城壁のそそり立つ要塞を引き倒して、低くし、地に投げつけて、ちりにされる。」

イザヤ書25章6-12節

 

みなさん、ハイキングとピクニックの違いって知っていますか?どちらも野山など野外に出かけて散策しますが、「ピクニック」には、必ず「野外での食事」が伴い、「食事をすること」が主なる目的なのだそうです。その起源は、ヨーロッパ貴族の遊びの際、貴族仲間、召使い、猟犬など大勢で狩りに出かけて、そのまま外で食事をしていたそうで、その貴族文化が変化して今の形になりました。貴族は、給仕人が食器やテーブルまで用意して本格的な料理を作り、食事を楽しんだが、一般人はもっと簡素に、弁当を持参して、野外で食事を楽しむイベントとしたようです。ところで神様は私たちのために食事を用意してくださり、招いてくださる、貴族を超えた、造り主なる神様が今日もあなたを、恵みの食卓へ。単なる道楽でもイベントでもない、あなたを永遠へと導かれるイエス様があなたと共にいる、この恵みに希望を抱き歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことになります。↑の前の24章からは世の終わりについての預言、イザヤの黙示録と呼ばれる箇所、前の章では世の終わりと、そこに残された希望、再臨のイエス様が来られる、永遠へと導こうとされているイエス様が再び来られること、また、地上がどんなに高慢な者、騒がしい者、横暴な者が支配するようになろうとも、終わりの時には主が意図されたとおり、地を回復され、騒ぎや横暴な者たちは完全に静められることを見ました。

 

↑は再臨のイエス様が来られる時に何が起こるのかについて「神様ご自身が」イザヤに示し、彼は「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ」と預言します。

 

終わりの時、裁きの時、もう全部なくなって無になる、とか、そういうわけではないことがここでわかります。何と終わりの時、イエス様は私たちを、イエス様を救い主として受け入れた人を大宴会をもって迎え入れてくださる、というのです。神様がイザヤを通して「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される」と語られ約束されたように。

 

そういえば、放蕩息子のたとえ話をルカによる福音書で分かち合った中で、弟息子が父から財産をだまし取ったにもかかわらず、湯水のように使い、飢饉が来たら食べる者もなくなり、反省し、我が家に帰り、謝ったら、父は大喜びで祝宴を開いてくれましたね。最高の着物、指輪、履物、食事、すべてを備えてくださりました。神様は、天国に行って何かを惜しむような方ではないのかな、というのが見えるのですが、実際の食事かどうかは私も天国にまだ行ったことがないのでわかりませんが、ただ、神様は最善を備えてくださっているのは間違いありません。

 

何より、まず御子イエス様のからだ・肉を十字架で割かれ、また血を流され、ぶどう酒を備えられた、また聖霊様という油を私たちに注がれ豊かな実を結んでくださる、という点では、この食事内容にあてはめられないこともないのですが、ただ少なくともあれが食べられる、食べられない、で一喜一憂するどころの騒ぎではない神様の最善が用意されていることはいうまでもなく、パウロという人は「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」と、この世の価値観を超えた喜びによって満ち溢れていることが語られています。

 

じゃあ↑で語られている、見せられているイエス様の大祝宴は幻なのか?と言われたらそうでもありません。といいますのも、イエス様は「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます」と、イエス様の来られたユダヤの人たちの地域だけではない、全世界の人たちがやがてイエス様を救い主として受け入れ、その人たちもまた共に食事に与ると約束されているのです。

 

実はイエス様の12弟子のヨハネも、イエス様の昇天後、彼が老年になってイエス様が彼に啓示された終わりの時について「…『ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。』御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい』と言い、また、『これは神の真実のことばです』と言った」とその啓示された幻を書き記しましたイエス様は私たちを花嫁として迎えてくださり、結婚式の披露宴どころの騒ぎではない、最高の婚宴へと招かれる、とイザヤの時のこの預言だけにとどまらず、約束されているのです。

 

もう、想像するだけでワクワクします。どんな宴会なのか。だって、イスラエルの父祖アブラハムたちも一緒に食事をする、そこから何千年もたっている中でどれだけの救われた人がいるか、を考えると、すごいことですよね。イエス様はよく弟子たちと食事をし、また罪人たちとも喜んで食事をし、みな楽しんでいましたが、イエス様のおられるところ、イエス様の食卓を開かれるところには喜びがあふれるのです。

 

さらには、↑でさらに「この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる」と語られている、私たちの涙はすっかりぬぐい取られるのです。

 

やはりこのことについて、イエス様はヨハネに啓示し「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、また彼らの神となり、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」と書き記しました。ただ婚宴、大宴会があるにとどまらず、神様が共にあり、私たちの内に住まわれ、すべての古いものを過ぎ去らせてくださる、完全な勝利の日を迎えさせてくださるというのです。

 

希望が溢れていますね。ある人は、でも天国に行くまで我慢しなければいけないの?という人もいます。そうではないのですむしろ、その永遠へと招かれる、イエス様の花嫁として召してくださるイエス様が、この永遠の祝宴、宴会を用意されているイエス様が、今日もあなたと共にいて、この永遠へと導いてくださるのです。

 

古代イスラエル王国2代目の王、ダビデはこのことについて「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と詩で歌い、残します。

 

私たちの命の日の限り、イエス様はとこしえに羊飼いなのです。慰めがあり、私たちの盃を喜び、祝福でいっぱいに、いやあふれさせてくださる。たとえ死の谷の陰を歩むような日であろうとも、的の前に、ただなかにいる中にあっても、それでもイエス様は食卓を整え、あなたと共におられ、進まれる、養われ、導かれることを彼は体験し、詩に残したのです。

 

私たちはこのイエス様に、私たちのためなら、死の陰の谷をむしろ身代わりに進まれ、私たちの痛みも悲しみも、何より罪も一切を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれた、そして3日目によみがえられたことによって、この十字架の前に悔い改め立ち返る人の罪は一切赦され、神様の子とされ、この永遠の恵み、祝宴へと招かれている、この喜びをどう受け止めているでしょう。どれだけ待ち望んでいるでしょう。今、イエス様にどれだけ信じ期待しているでしょう。

 

↑のイザヤを通した神様の言葉の中に「その日、人は言う。『見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。』」とありますが、待ち望んでいるからこそ、今の私たちに希望があり、この希望によって救われているのです。

 

↑の最後で神様はイザヤを通して「主の御手がこの山にとどまるとき、わらが肥だめの水の中で踏みつけられるように、モアブはその所で踏みつけられる。泳ぐ者が泳ごうとして手を伸ばすように、モアブはその中で手を伸ばすが、その手を伸ばしてみるごとに、主はその高ぶりを低くされる。主はあなたの城壁のそそり立つ要塞を引き倒して、低くし、地に投げつけて、ちりにされる」と語られていますが、イエス様が再臨されるとき、モアブのボツラと呼ばれるところで隠れているユダヤ人を救うために来られ、そして全世界の軍隊と戦いながら、その戦場をエルサレムへと移していきます。そしてエルサレムのオリーブ山に立たれ、地殻変動が起き、神の国をお建てになるのですが、その戦場となったモアブは、この栄光のイエスの姿を見ても、へりくだらないで、神様に救いを求めず、自分の命を救おうとしてかえって、それを失うというのです。

 

主が来られる、主が命を持ってまで私たちを救うために来られたのに、どうして私たちは隠れている必要があるでしょう。希望がないと言えるでしょう。この方以上にどこに救いがありますか。比較になりません。いや比較にならないほどの恵みをあなたに成すため、いのちさえ惜しまなかったのです、イエス様は。今日私たちはこのイエス様の救いを、愛をいただいたのだから、「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう」と告白し、いつも希望をこの方に抱かせていただき、歩ませていただこうではありませんか。