「そのとき、ヨアブに仕える若い者のひとりがアマサのそばに立って言った。『ヨアブにつく者、ダビデに味方する者は、ヨアブに従え。』アマサは大路の真ん中で、血まみれになってころがっていた。この若い者は、民がみな立ち止まるのを見て、アマサを大路から野原に運んだ。そのかたわらを通る者がみな、立ち止まるのを見ると、彼の上に着物を掛けた。アマサが大路から移されると、みなヨアブのあとについて進み、ビクリの子シェバを追った。シェバはイスラエルの全部族のうちを通って、アベル・ベテ・マアカへ行った。…しかし、人々はアベル・ベテ・マアカに来て、彼を包囲し、この町に向かって塁を築いた。それは外壁に向かって立てられた。ヨアブにつく民はみな、城壁を破壊して倒そうとしていた。そのとき、この町から、ひとりの知恵のある女が叫んだ。『聞いてください。聞いてください。ヨアブにこう言ってください。ここまで近づいてください。あなたにお話ししたいのです。』ヨアブが彼女のほうに近づくと、この女は、『あなたがヨアブですか』と尋ねた。彼は答えた。『そうだ。』すると女は言った。『このはしためのことばを聞いてください。』彼は答えた。『私が聞こう。』すると女はこう言った。『昔、人々は【アベルで尋ねてみなければならない】と言って、事を決めるのがならわしでした。私は、イスラエルのうちで平和な、忠実な者のひとりです。あなたは、イスラエルの母である町を滅ぼそうとしておられます。あなたはなぜ、主のゆずりの地を、のみ尽くそうとされるのですか。』ヨアブは答えて言った。『絶対にそんなことはない。のみ尽くしたり、滅ぼしたりするなど、とてもできないことだ。そうではない。実はビクリの子で、その名をシェバというエフライムの山地の出の男が、ダビデ王にそむいたのだ。この男だけを引き渡してくれたら、私はこの町から引き揚げよう。』するとこの女はヨアブに言った。『では、その男の首を城壁の上からあなたのところに投げ落としてごらんにいれます。』この女はその知恵を用いてすべての民のところに行った。それで彼らはビクリの子シェバの首をはね、それをヨアブのもとに投げた。ヨアブが角笛を吹き鳴らしたので、人々は町から散って行って、めいめい自分の天幕へ帰った。ヨアブはエルサレムの王のところに戻った。さて、ヨアブはイスラエルの全軍の長であった。エホヤダの子ベナヤはケレテ人とペレテ人の長。アドラムは役務長官。アヒルデの子ヨシャパテは参議。シェワは書記。ツァドクとエブヤタルは祭司。ヤイル人イラもダビデの祭司であった。」
Ⅱサムエル記20章11-26節
日本には長い物には巻かれろ、ということわざがある。でもそれは最後にその長いものに巻きこまれて行って自分が自分でなくなりそうな気もしますが。世の中の問題から仕方ない、と私たちはそうして陥っていくけど、それは本当の勝利者、長いものではない。神様こそ、真の勝利者。この方が築かれるものに目を覆うのではなく、期待し、信頼し、歩もう。
さて、↑は古代イスラエル王国2代目王ダビデの治世、その息子アブシャロムのクーデターが起こった後、将軍ヨアブの手によってこれが終結した後、の話。ダビデはヨアブも含め、集まってくれた人たちに、アブシャロムを生かすように願っていた。彼が悔い改め神様の愛を知り、恵みに生きる事を願ったからではないか。神様の愛はダビデ以上に恵み深く憐れみ深い。あなたが帰るのを待っている事を忘れてはいけない。
話は先に進めていよいよエルサレムに帰る時、息子アブシャロムを、命令にも従わず殺したヨアブを将軍からダビデは外しました。しかしそれを気に食わなかったヨアブは、自分の手柄が消えていく事に納得いかなかった彼は、新しい将軍に立てられるアマサを暗殺します。
暗殺されたアマサ、ヨアブの味方をしていた人たちはこの状況を見て、ほら、ヨアブこそが将軍であり、これからも国をまとめる存在なんだと言わんばかりに、「ヨアブにつく者、ダビデに味方する者は、ヨアブに従え」という。しかし肉的に見ても、命令に従わずに暗殺まで行った、それが正しい行為だなんてとても言えない。従うべきは、ダビデ、まあそれもそうなのですがそれ以上に、神様の御心、神様に従うべきなのではないでしょうか。もし神様に信頼していたなら、ヨアブの結果は変わっていたかもしれない。
ヨアブはダビデのいとこなんです。特権に与っていたし、将軍にまで抜擢されていた。ダビデを通して多くの神様の恵みに与っていたはず、しかし神様は自分には何も与えていないから、と自分の手で手柄・権力を取りに行こうとする。
これを言われ、決断を迫られた人たちは、ダビデが立てた将軍候補アマサに覆いをかぶせ、ヨアブについていった。これは理解するのが少々難しいのですが、一つは哀悼の意。もう一方で、なかったことにする、臭い物に蓋をする、神様のダビデを通した計画に蓋をし、ヨアブについていく。どちらかというと後者の方が思いが強そうな気もしますが。もし、哀悼の意を表しているなら、ダビデに報告しヨアブに対して何かしらの手を打とうとするはずですから。
結局、シェバ(=ベリアル=サタンと名付けられていた男)・ベリアルの首を差し出すことによって、ヨアブが戦おうとしていた町の賢い女性の知恵によって、彼らは助かった。結局ヨアブという長いものに巻かれて、生き、ヨアブは元の鞘に収まる、というか、エルサレム・ダビデの元に戻り、軍団長の座に収まりました。
実は↑の出来事はここで終わります。王座に戻ったダビデが組閣して終わり。どうにも腑に落ちない結末を迎えましたね。ちなみに、ヨアブはうまく軍団長の座を獲得したように見えますが、彼は3代目の王ソロモンの時代にダビデの最後の遺言によって殺されることとなります。彼はその罪の報いを受ける事となる。人の手で得たものはいつまでも続かない。
またシェバ、彼は自分たちに甘い汁がないこと、神様は何も与えていないと疑い、ダビデを王から引きずり降ろそうとした。神様から選ばれていた王なのに。彼は権力者に、まるで柳のようにいつもなびいていた。でも、神様は果たして何も良いものを与えないのだろうか?彼は、ダビデは何も良いものをあなた方に与えるつもりはない、とユダ族(ダビデの出身部族)を騙そうとしますが、↑の一番最後の組閣を見てもわかるように、ダビデはその勝利の恵みを分かち合った。
この戦いの本当の勝利者は、見事シェバを打ち取り、軍団長の座に収まったヨアブでも、王に戻ったダビデでもなく、神様です。ヨアブは自力で得た軍団長の座は最後は失い惨めな最期を迎えることになる。アマサはここでは非業の死を遂げましたが、死して後、神様の栄光の内に迎え入れられたことでしょう。
結局最後は神様の御心がなるのです。これに覆いをかぶせ、見ないふりをするなどありえない。あなたの覆われている覆いを外していただき、真の神様の恵みを見よう。神様はあなたに勝利の分け前というか特権を、↑の組閣のごとく与えて下さっているはずです。
神様は、あなたを打ち砕こうとし、神様から引き離しだまそうとするシェバ・もといべリアル・もといサタンからあなたを取り戻すため、御子イエス様を人として生まれさせてくださり、住まわせ、その愛を現された。恵みを注がれた。
でもそれで終わらず、私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれたのです。しかし3日目にその身代わりの死・贖いを良しとされた神様に依ってよみがえらされ、このイエス様の十字架の救いを信じ受け入れる、悔い改め立ち返る全ての人に神様の子とされる特権を与えてくださるのです。
この勝利の神様がなされる、御心を、与えて下さっている恵みを見、これを味わわせていただこう。よく見てください、あなたの周りには神様の最高の組閣、もとい恵みが覆っているのだから。その中心には、復活のイエス様があなたの内に住周り、御心を現し、導かれる。今日、この特権に信頼し、いやイエス様の愛に信頼し歩もう。
