「指揮者のために。「滅ぼすな」の調べに合わせて。ダビデのミクタム
力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。彼らは蛇の毒のような毒を持ち、耳をふさぐ、耳の聞こえないコブラのよう。これは、蛇使いの声も、巧みに呪文を唱える者の声も、聞こうとしない。神よ。彼らの歯を、その口の中で折ってください。主よ。若獅子のきばを、打ち砕いてください。彼らを、流れて行く水のように消え去らせてください。彼が矢を放つときは、それを折れた矢のようにしてください。彼らを、溶けて、消えていくかたつむりのように、また、日の目を見ない、死産の子のようにしてください。おまえたちの釜が、いばらの火を感じる前に、神は、生のものも、燃えているものも、ひとしくつむじ風で吹き払われる。正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の血で洗おう。こうして人々は言おう。『まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。』」
詩篇58篇1-11節
人はどうもマイルール的なものをもってそれで判断したり、人を評価し、ほめたり逆にけなしたりすることがあるんですよね。これ、仕事とかでされたら大変。人によってやり方が違ったり、それにいちいち合わせて他の人とやる時はこれでよかったのに、とか、自分の思うタイミングでその通りに動かないとあれこれ言い始めたり。人間関係でもよくありますよね。ただ、そのルール、基準って本当に正しいの?近年特にこうじゃないとその人はおかしい、と何か人格否定的にする傾向が見られるような気がしますが。でもそのマイルールによって何をもたらそうというのか、と思うところ。しかし神様は私たちに良い計画をもっており、私たちに生きてほしいと、その口から様々なことばを語り、また導いて下さる。何より私たちを救うためになら御子イエス様のいのちさえ身代わりにされることを惜しまなかった。それほどまでに愛されている神様に期待してみませんか?神様の恵みの中に生きてみませんか?神様は喜んであなたを歓迎してくださるから。
ということで、紀元前に生きていた人々が様々な経験をして感じたこと、知ったこと、何より神様と出会って変えられていったその様子などをうたった詩、それをバビロン捕囚期にまとめた詩篇の58篇を見たいと思います。この詩篇も表題にある通り古代イスラエル王国2代目の王、ダビデがうたった詩になります。これはどの時期に歌われたのか、諸説あり、です。ダビデが王になる前、初代王サウルが死んだあと、彼の統治時代に腐敗した裁き司たちを見てうたったもの、という説がたぶん有力なのかな、と思います。
しかしそれは、ただ政治的に腐敗していた、という事だけに留まりません。というよりもそれがこの詩篇の根幹部分、大切なところなのですが、サウルももともとは神様に選ばれ、祝福されていたはずだったんです。彼の行く所連戦連勝だったのです。しかし、ある時当時、預言者であり裁き司であったサムエルを待つことができず、その役割を軽視、神様を軽視し、神様を排除して自分ルールで動き始めたところからおかしくなっていきました。預言者は神様の語られたことを語り伝える、ある意味ではスポークスマンのような役割があった、それをもちろんサウルは分かった上でそれを排除したのです。神様より自分の方が立場が上、と言わんばかりに。そこから彼は堕落、腐敗していきます。ある部分では神様に従うけど、自分の利益に合わないことには従わない、となっていき、ついには悪霊に支配されてしまった。彼の心が捕らえられてしまったのです。神様によって祝福され、生かされているはずのものが、神様の口から出る言葉、その全てによって生かされている、生きるようにしてくださっているのに、その神様ではなく神様から引き離す者たちによって腐敗していってしまった。そして、そのサウルにおもねるものたちが自分の権力や富を求めて彼がおかしなことを言っていても従う、そんな状態になっていたわけです。ダビデの居場所を教えて地位・富を得ようとしたり。神様がくださる恵みよりサウルがもたらすと実を求めて恩をあだで返したり。
そんな中でダビデは「力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。彼らは蛇の毒のような毒を持ち、耳をふさぐ、耳の聞こえないコブラのよう。これは、蛇使いの声も、巧みに呪文を唱える者の声も、聞こうとしない」とうたいます。
ここで「義を語り」とありますが、私もこの分かち合いの中でよく「義」ということばを使わせていただいています。義というのはものすごくわかりやすく言うなら、正しい事、この義を間違えると、自分が考える義に突き動かされ行動する。それは自分にとって利益になることを基準にそれは正しい、間違っている、と判断するようになるわけですね。ダビデが見た「力ある者」、どうやら複数いることが「お前たち」という言葉から見えてきます。彼らは「義を語り…公正にさば」いていたようで、不正を働いていた。本当の正しさ・義を考えず、神様の義を考えず、自分の利益になる自分の義に突き動かされ行動していた、自分こそ力あるものなんだ、と考え搾取し、また動いていたわけです。先に背景で見たように、またこれまでの詩篇で登場したサウルの悪事でも見たように、ダビデの居場所を伝えた祭司一家を皆殺しにすることで地位・富を得ようとしたり、恩をあだで返したり。
しかしそれで一体何を得ることができるだろう。サウルは神様の祝福を失い、悪霊に囚われ、神様から与えられた最高のいのちを台無しにしてしまった。神様を退けた後は家族からもう止まれ、周りにいるのは彼のことを考えず自分におもねるものたちだけ。嫉妬によって国を顧みず、ただダビデのいのちを追うだけの虚しい人生になってしまった。結果国に起こっていることが見えなくなり、戦いは敗北、大切な家族は戦死し、自身のいのちも残念な最期を迎えてしまった。またサウルにおもねってダビデの居場所を密告し、祭司一族を殺してでも地位や名誉を得ようとしたものもそれらを得ることもできず、おもねっていたサウルまで死んでしまって何も得られず、かえって人としての大切なものも、神様の恵みも何もかも失ってしまった。なにをやっているのだろう。人の考える義に生きたところで何になるのだろう。それをだれが保証するのだろう。
ダビデは「悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている」とうたいます。要するに、人は誰でも生まれながらにして罪人なんです。アダムとエヴァから受け継いでいる原罪、罪の性質をもっている。でも、そもそもの話が、「母の胎」といいますが、私たちにいのちを与えてくださっているのは神様なのです。人が自力で母の胎内から出るわけでもなく、またその出たあと一人で生きられるわけではないように、私たちにいのちを与えてくださった神様、その我が子のために愛情をどこまでも注ぎ、養い、守ってくださっている神様から離れてはどうやっても生きることなどできません。神様から迷い出て、彷徨ってどうしましょう。母の愛といいますか、父なる神様の愛、ここから離れてどうしましょう。私たちはこの神様の胎内と言いますか、そのうちに守られている、この方から出る恵み、一つ一つのことば、働きに生かされているのです。私たちが力強いのではなく、力強い神様の御手の下にあって私たちは生きたものとなるのです。
不正、腐敗?むしろそんなことをする必要も、求める必要などない。むしろ神様の義、神様のすばらしさを求めるなら、いつかはなくなる富など何の役にも立たない、必要ない。神様がくださっている素晴らしいいのちを捻じ曲げて、別なものにおもねる必要もない、神様を疑って自分の義に、自分が考える義に従って生きるなんてする必要もない。最も正しい義なる神様が最善をなして下さる、その神様を疑ったところで何になるのだろう。何を得るのだろう、何の報いを得ることができるというのだろう。産んだお母さん、といいますかいのちを与えてくださった神様がいる、生みだしてそれで終わりではなく、今も、これからも支えてくださっている親、父なる神様がおられるという事はなんという恵みだろう。この神様に私たちは繋げていただいているのです。この世の王や支配者ではない、この天地万物を創られ、あなたにいのちを与えてくださった最高の神様、唯一まことの神様があなたの事を覚えているんですよ?これ以上何を求める必要があるでしょう。天にあなたの名前が刻まれているなんて。
イエス様は「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と仰られました。自分の広げる国や、自分が考える義を第一とするのではなく、神様の治めてくださる、広げてくださる国、御国が成ること、神様の義・正しさがここになることを求めよう、と仰られました。そうすれば、それに加えて、これらのもの全てが与えられる、と。これらのもの、というのは思い煩い求めるものですが、神様の義が、私たちの思い煩いを吹き飛ばし、そこに命を吹き込まれる。自分で何かを獲得するために一生懸命になりたい気持ちは分からないこともないのですが、それで神様が成そうとしていることを押しのけて、神様の御心をそこなって得られるものって何でしょうね。それって神様のくださるものに、御心に勝るのでしょうかね?私たちは自分の義で生きていませんか?神様の義を求めていますか?
私たちはこの詩で指摘されているほど悪いものではない、とたぶん思うと思います。でも、不正や腐敗をせずとも、自分を力ある者、自分こそ正しいんだ、と言って他の人たちを神様から迷わせるようなものであってはいけませんね。むしろ一緒に神様の御心を追い求める、一緒に神様を求める者でありたいですね、本当に力ある神様の御前に遜って。その中に神様のミクタム・神様が刻んでくださる、黄金のように輝く報いがあるから。
「神よ。彼らの歯を、その口の中で折ってください。主よ。若獅子のきばを、打ち砕いてください。彼らを、流れて行く水のように消え去らせてください。彼が矢を放つときは、それを折れた矢のようにしてください。彼らを、溶けて、消えていくかたつむりのように、また、日の目を見ない、死産の子のようにしてください。おまえたちの釜が、いばらの火を感じる前に、神は、生のものも、燃えているものも、ひとしくつむじ風で吹き払われる」と、ダビデは自分の義に生きる者たちの最後、様子を語っていますが、罪について神様は曖昧にせず、それを打ち砕かれ、裁かれます。愛なる神様なのに?いえ、愛なる神様だからこそ罪を見逃せない、だからこそ、今こそ立ち返ってほしい、と訴えるのです。その究極として、私たち神様から離れ生きるもの、神様の御前に、神様を義とせず、不正だと言って自分の義に生きる私たちをそれでも見捨てず、御子イエス様にこの思い煩いも痛みも、罪も一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。イエス様が身代わりにこの裁きをその身に負ってでもあなたを救わんとされた。義なる神様は罪を見逃せない、でも愛なる神様ゆえにその義で私たちを、御子イエス様のいのちを身代わりにすることで救おうとされたのです。
この愛を受けてなお、どうして神様から離れてなどいられましょう。予めこうして救いの道、いのちの道を示された神様の愛をどうして疑えましょう。私たちがこの砕かれたイエス様、あの十字架の御もとに悔い改め立ち返るなら、あなたの、私の罪は赦され、神様の子として迎え入れられる。そんな愛に私たちは今生かされている。こんな力強い神様がどこにいるだろう。このイエス様のいのちにあってもたらされる報いはどれだけ素晴らしいか、黄金のように、いやそれ以上に輝いているか。
「正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の血で洗おう。こうして人々は言おう。『まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。』」と最後にダビデは告白しますが、私たちは神様の正しいさばき、十字架によってすべてが現れ回復していく事をなお祈りたいものです。サタンを打ち砕き、神様の正しい義によってすべてが変えられ、回復していく事を。罪への、サタンへの復讐として、イエス様がその身を投げ出してでも私たちを救い出された、その大いなる愛が成す素晴らしい御業を。悪者の血、これが洗い流され、聖められていくことを私たちは執り成し祈りたいものです。
何より私たちは今日、本当に力ある神様の御もとに、まことの義を語り治めてくださる神様、義をなして下さる神様の御もとにへりくだろう。それこそ、昨日のエペソ人への手紙の分かち合いの中で見たように、「あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」とあるように、ご機嫌取りをするのではなくイエス様の御心に従い、仕えるものでありたいですね。この世と妥協するのでもなく、神様の義、これによってあなたのいる場所、あなたのいのち、あなたの日々が豊かなものとなるように。神様が黄金のように輝かせてくださる日々、これを私たちは待ち望もう。
