「財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される。偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。高貴な人の好意を求める者は多く、だれでも贈り物をしてくれる人の友となる。貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。」
箴言19章4-7節
私たちは一人ではない、これはどれだけの励みになるだろう。人はどこかしらに属しているし、繋がっている。それは家族だったり、友人、地域社会、会社、学校…そして通ってきた中で出会った人たちとも繋がっている。でも何より私たちが忘れてはいけないのは、神様に繋がっているという事です。元気な時も、辛い時も、孤独に感じる時も、寄るべのない状態にあろうと、神様は私たちと共にいてくださる。あなたをつくられた、わが子の傍に、父なる神様がおられる。何よりあなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった、そこまでして救ってくださった神様が今日私たちの傍にいてくださる。私たちを死からいのちへ引き寄せてくださった方が。私たちはこの方から離れてはいけない。この方の道をどこまでも追い求めよう、離れることなくこの方のくださる恵みの内を歩ませていただこうではありませんか。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された知恵のことば・いのちのことば・箴言で、これを受けたソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様の知恵は愚かではない、いつかは消え去るものやその価値が変わってしまうこの世のものではない、私たちを愛するゆえに現される知恵・御心、これが私たちの内に現されるわけです。神様の良いもので着飾らせたい、覆いたい、その思いでいっぱいなのがこのことばに込められていますよね。この初めなる神様がご自身のもとに引き寄せ私たちを守ってくださる、どんな時にもこの神様が御側にいてくださる、だから私たちも離れてはいけませんね、この神様から。
その神様はソロモンに向けて、そしてその彼を通して私たちに向けてさらに「財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される」と語られ、またソロモンもこの知恵のことばを書き残します。
まあこのことばは良くも悪くも真実。人の富に人は集まってくる。儲かると思うすべに人はすがろうとする。でも、その「友」という人たちは本当に純粋な友愛を持ち合わせているのか、と言われたらそうとは言い切れないのが現実。一方で貧しい人や立場の弱い人からは、この人の傍にいても何の得もないだろう、とその「友」と呼ばれる人は近寄らない。
このことばを読んでいて思い返したのが、放蕩息子の話。イエス様が話されたたとえ話の中で、放蕩息子のたとえ話がありました。ある父親(神様を現している)に2人の息子がいたのですが、弟息子の方は「お父さん。私に財産の分け前を下さい」と生きている父に向かって言い始めたのです。後で兄息子に向かって父親が「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ…」と話すのですが、弟息子に神様は全ての良いものを与えていたのです。しかし彼はこんな神様の下さるものよりも、都会にはもっといいものがあると聞くし、そこで幸せになりたい、そう思って父親から財産を譲り受け出かけていきます。
そこで彼は放蕩して湯水のように財産を使うのでした。その時は様々な友が彼に近寄ってきてその友のためにもきっとお金を使ったのでしょう。彼的には友と思う人もたくさんいたのでしょう。彼はもう何もかもうまくいって、自分は何でも持っている、思うが儘だ、幸せだ、そう考えていたのかもしれない。
しかし、何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めました。彼が共と思っていた人たちは誰も助けてくれなく、そしてついにその国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせるのでした。イスラエルでは豚は汚れたものとされていたのです。彼にとっては屈辱そのもの。それでも、彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、だれひとり彼に与えようとはしなかったのです。彼に近寄っていた友と言われる人は彼の友ではなく、彼の財産の友だったのです。
そこで彼は父の所には何もない、と思っていた中で実は父の所にはパンのあり余っている雇い人が大ぜいいる、それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ、という現実に気づくのです。何で自分ばっかりこんな目に合わなければいけないんだ、と父のもとにいる人たちを呪ったわけではない、彼は悔いたのです。この父のもとにこそすべてがあるんだ、と。そして彼は父に謝り雇い人の一人としてでも迎えてもらえれば、と思い、立って帰るのです。財産も使い果たした、こんな自分が赦されるはずがない、と思ったかもしれない。
しかしそんな彼を父は心配し、まだ遠くにいる彼を見つけ、走っていき抱き寄せ、彼が悔い改めのことばを言ったところで、「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と言って、雇人の一人として迎えるどころか、息子としての地位を回復させてくださったのです。自分勝手に離れていって好き勝手にして財産も使い果たした、そんな彼に神様が与えたのは最高級のものばかりだった。
神様は、私たちを良いもので満たして下さる。神さまには何もないじゃないか、といって私たちは様々な富や儲けになること、人、考え方に寄り添い、友となろうとする。でもその先に何があるだろう。むしろ神様は私たちを神様の子として引き寄せてくださる。どんなに世の中飢饉のように何もかも失われてしまうような状況になろうと、神様は変わらずその恵みを注がれるのです。神様が神様から離れ好き勝手に生きている私たちをそれでも、友と呼び、その私たちを我が子として引き寄せてくださる、その神様の家族の中に招いて、神様の良いもので着飾ってくださるのです。神様のごちそうが展開しているのです。
「肥えた子牛」とありますよね。これ、最も良いものなんです、神様にとって。そう、御子イエス様のいのちを私たちのために屠ってくださり、これを分け与えることで私たちを赦し、神様の子として迎えようとしてくださったのです。イエス様のいのちを引き裂いてでも、私たちに神様の良いものを食べてほしい、これを食べて生きてほしい、そう訴えるのです。聖餐式と呼ばれるものでもイエス様の御からだをパンとしていただくのですが、イエス様はこれを食べる時、イエス様のこの愛を覚えなさい、と仰られた。このイエス様のいのちから引き裂かれた一つ一つの神様の愛、私たちを友と呼んで下さり招いて下さった友愛、この愛が今も私たちに分け与えられている、これを取って食べて味わってほしい、そこにある神様の御心を味わってほしい、そう訴えるわけです。寄るべのない私たちを神様のこの御もとに引き寄せてくださっただけではない、このイエス様ご自身が私たちの寄るべとなり、このイエス様が私たちの内にこれ以上ない財産をもたらして下さるのです。もう何かを求めさまよう必要はない、ここにいのちがあるんだ、と。
神様は私たちを捨てない、見捨てられない、いつまでも神様を疑い自分の考える良いと思う財産、価値観を求め彷徨い歩く私たちを、それでもこうして迎え入れてくださる、何と感謝なことでしょう。私たちは本物の財産を求めているだろうか。どんなに友や周りが離れていこうとあなたを見捨てず、寄る辺のない私たちの拠り所となってくださったイエス様を私たちは今日どれだけ思っているだろうか。このイエス様と結ばれた友情関係の中に留まっているだろうか。
「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。高貴な人の好意を求める者は多く、だれでも贈り物をしてくれる人の友となる」。これこそが正しいんだ、あなたの財産になるんだ、と吹聴する声もあるでしょう。ただ、私たちは、私たちのためにいのちを引き裂いてでも愛を告白し、また実行されたイエス様の声をどれだけ言いているだろうか。高貴なもの、自分にとってプラスになりそうな価値観、声、人の好意を求めてそうしたものの奴隷になるのではなく、私たちをむしろ友と呼び、子として迎え入れてくださった神様、この方が最高の贈り物をしてくださったことを忘れてはいないだろうか。大丈夫です。あなたを苦しめる様々な偽り、偽りの証人、まやかしを吹聴する者たちは神様が打ち砕いて下さる。だから私たちは本物の贈り物をしてくださった神様、友と呼んで下さる神様に帰ろう。
人がその友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はありません。この事をイエス様が実行されたのです。こんな神様から離れて好き勝手に生き、自分の都合、財産を追い求め生きている、そんな私たちを見捨てず、それでも友と呼び、この友のためにいのちを私たちの身代わりに捨ててくださった。偽りの中に生きる、神様を神様ではないと偽りの証人となりその罰を受けなければいけなかった私たちのこの罪も、思い煩いも、偽りの衣も全部脱がせ、身代わりに背負われたのです。そして十字架で罰せられ、死なれたのです。神様は私たちを見捨てるよりもイエス様を見捨て、死に渡してでも救いたかった。何の罪もないイエス様を。何と深く大きな愛だろう。ここまでされてでも愛し抜かれた神様の愛、イエス様の肉と共に裂かれたその愛がどれだけあなたにいのちをもたらすだろう。イエス様が3日目によみがえられた、この復活のいのち、死をいのちに変えられたこの神様の愛、御力が今日もあなたに注がれているのです。
「貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない」。どんなにあなたが憎まれようと、友たち、世から遠ざかられようと、このイエス様はあなたから離れない。あなたを兄弟と呼び、愛してくださった、いのちを惜しまなかったイエス様が近くにいる。
「しかし、正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む」。私たちを喜び楽しませて踊りたくなるほどに愛される神様を今日、求め、喜びの声をあげよう。主は今日もあなたのもとにおられ、その道を開かれ、導かれる。もう世の偽りに貧しいものではない、神様の愛に、財産に富んだもの、神様の愛が満ち溢れるその道をイエス様があなたの手を取り導いて下さっているから。かみさまはあなたをみなしごにしない。神様が栄えさせてくださるこの喜びに生かされ今日も歩もう。焦がされた地、悲しみの地を喜びの地に変えてくださる方が、あなたの貧しさを富に変えてくださる方が、どんなに世が見捨てても、離れてもあなたと共におられる主があなたと共に今日もいて、その御からだを割いてまで与えられる恵みが、愛が、御力が、この神様の全てがあなたに与えられ満たされるから。
