子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

ある人は買って満足、中身を味わわず、放置、なんて話を聞く(;^_^A

私もたまにそれがある。

 

そんな時、↓の本の記事に出会った。

有名な福音伝道者ギルモア牧師はある日小さな村を通った際、キッチン用品を商っている老主人と会話をした。

「こんにちは! おじいさん、最近商売繁盛ですか?」

「はい、まあまあですが」

「おじいさんはイエス様を信じていますか?」

「もちろん信じていますよ。イエスを信じて救われることは本当にすばらしいことです」

「そうですか、しかしそれよりもっとすばらしいことがありますが」

「ほう? それは何ですか?」

「私たちを救って下さったそのイエス様と共に歩むことです」

そうです。クリスチャンの歩みは、ただ救われて、そして死んで天国に行くことを待つのみではない。イエス様は、私たちが日々イエス様と共に歩みながら、その中で天国の生活を味わうことを願っている。

 

【聖書のことば】

「わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。」(旧約聖書/箴言8章17節)

ー神と共に歩む日々ー

 

※私たちの命は、イエス様が命をかけて救われた。

でもそれを人ごとのように、見ていたら意味がない。その恵みはあなたには与えられていない。

でも、あなたがこれを欲する時、私たちは得る。

でも、得て終わりではなくここから始まる。救われたからもういい、愛は受けたからもういい、ではなく、この素晴らしい命を味わわせていただこう。イエス様はあなたと出会ってくださった。なら、出会って終わりではなく、一緒に歩もう。

 

私の人生は完全ではないかもしれない。

でも、私の持っているすべて、それがたとえ小さく見られようと何と言われようとも、感謝します。

ースヌーピー写真よりー

 

小さい、だめだ、そう思えば思うほどにどんどん小さくなっていく。

でも、神様はあなたを愛し、あなたを取り戻し、神様の子とするためなら御子イエス様の命まで与えられた。この十字架の前に悔い改め、神様に立ち返るならあなたは神様の子とされる特権が与えられる。イエス様の愛にあって新しくされた人生に与えられているものはどれほど大きなものか、イエス様が一緒におられ、イエス様が働かれている。

もう恐れなくていい。勇敢であろう。

 

「そのとき、ヨアブに仕える若い者のひとりがアマサのそばに立って言った。『ヨアブにつく者、ダビデに味方する者は、ヨアブに従え。』アマサは大路の真ん中で、血まみれになってころがっていた。この若い者は、民がみな立ち止まるのを見て、アマサを大路から野原に運んだ。そのかたわらを通る者がみな、立ち止まるのを見ると、彼の上に着物を掛けた。アマサが大路から移されると、みなヨアブのあとについて進み、ビクリの子シェバを追った。シェバはイスラエルの全部族のうちを通って、アベル・ベテ・マアカへ行った。…しかし、人々はアベル・ベテ・マアカに来て、彼を包囲し、この町に向かって塁を築いた。それは外壁に向かって立てられた。ヨアブにつく民はみな、城壁を破壊して倒そうとしていた。そのとき、この町から、ひとりの知恵のある女が叫んだ。『聞いてください。聞いてください。ヨアブにこう言ってください。ここまで近づいてください。あなたにお話ししたいのです。』ヨアブが彼女のほうに近づくと、この女は、『あなたがヨアブですか』と尋ねた。彼は答えた。『そうだ。』すると女は言った。『このはしためのことばを聞いてください。』彼は答えた。『私が聞こう。』すると女はこう言った。『昔、人々は【アベルで尋ねてみなければならない】と言って、事を決めるのがならわしでした。私は、イスラエルのうちで平和な、忠実な者のひとりです。あなたは、イスラエルの母である町を滅ぼそうとしておられます。あなたはなぜ、主のゆずりの地を、のみ尽くそうとされるのですか。』ヨアブは答えて言った。『絶対にそんなことはない。のみ尽くしたり、滅ぼしたりするなど、とてもできないことだ。そうではない。実はビクリの子で、その名をシェバというエフライムの山地の出の男が、ダビデ王にそむいたのだ。この男だけを引き渡してくれたら、私はこの町から引き揚げよう。』するとこの女はヨアブに言った。『では、その男の首を城壁の上からあなたのところに投げ落としてごらんにいれます。』この女はその知恵を用いてすべての民のところに行った。それで彼らはビクリの子シェバの首をはね、それをヨアブのもとに投げた。ヨアブが角笛を吹き鳴らしたので、人々は町から散って行って、めいめい自分の天幕へ帰った。ヨアブはエルサレムの王のところに戻った。さて、ヨアブはイスラエルの全軍の長であった。エホヤダの子ベナヤはケレテ人とペレテ人の長。アドラムは役務長官。アヒルデの子ヨシャパテは参議。シェワは書記。ツァドクとエブヤタルは祭司。ヤイル人イラもダビデの祭司であった。」

Ⅱサムエル記20章11-26節

 

日本には長い物には巻かれろ、ということわざがある。でもそれは最後にその長いものに巻きこまれて行って自分が自分でなくなりそうな気もしますが。世の中の問題から仕方ない、と私たちはそうして陥っていくけど、それは本当の勝利者、長いものではない。神様こそ、真の勝利者。この方が築かれるものに目を覆うのではなく、期待し、信頼し、歩もう。

 

さて、↑は古代イスラエル王国2代目王ダビデの治世、その息子アブシャロムのクーデターが起こった後、将軍ヨアブの手によってこれが終結した後、の話。ダビデはヨアブも含め、集まってくれた人たちに、アブシャロムを生かすように願っていた。彼が悔い改め神様の愛を知り、恵みに生きる事を願ったからではないか。神様の愛はダビデ以上に恵み深く憐れみ深い。あなたが帰るのを待っている事を忘れてはいけない。

 

話は先に進めていよいよエルサレムに帰る時、息子アブシャロムを、命令にも従わず殺したヨアブを将軍からダビデは外しました。しかしそれを気に食わなかったヨアブは、自分の手柄が消えていく事に納得いかなかった彼は、新しい将軍に立てられるアマサを暗殺します。

 

暗殺されたアマサ、ヨアブの味方をしていた人たちはこの状況を見て、ほら、ヨアブこそが将軍であり、これからも国をまとめる存在なんだと言わんばかりに、「ヨアブにつく者、ダビデに味方する者は、ヨアブに従え」という。しかし肉的に見ても、命令に従わずに暗殺まで行った、それが正しい行為だなんてとても言えない。従うべきは、ダビデ、まあそれもそうなのですがそれ以上に、神様の御心、神様に従うべきなのではないでしょうか。もし神様に信頼していたなら、ヨアブの結果は変わっていたかもしれない。

 

ヨアブはダビデのいとこなんです。特権に与っていたし、将軍にまで抜擢されていた。ダビデを通して多くの神様の恵みに与っていたはず、しかし神様は自分には何も与えていないから、と自分の手で手柄・権力を取りに行こうとする。

 

これを言われ、決断を迫られた人たちは、ダビデが立てた将軍候補アマサに覆いをかぶせ、ヨアブについていった。これは理解するのが少々難しいのですが、一つは哀悼の意。もう一方で、なかったことにする、臭い物に蓋をする、神様のダビデを通した計画に蓋をし、ヨアブについていく。どちらかというと後者の方が思いが強そうな気もしますが。もし、哀悼の意を表しているなら、ダビデに報告しヨアブに対して何かしらの手を打とうとするはずですから。

 

結局、シェバ(=ベリアル=サタンと名付けられていた男)・ベリアルの首を差し出すことによって、ヨアブが戦おうとしていた町の賢い女性の知恵によって、彼らは助かった。結局ヨアブという長いものに巻かれて、生き、ヨアブは元の鞘に収まる、というか、エルサレム・ダビデの元に戻り、軍団長の座に収まりました。

 

実は↑の出来事はここで終わります。王座に戻ったダビデが組閣して終わり。どうにも腑に落ちない結末を迎えましたね。ちなみに、ヨアブはうまく軍団長の座を獲得したように見えますが、彼は3代目の王ソロモンの時代にダビデの最後の遺言によって殺されることとなります。彼はその罪の報いを受ける事となる。人の手で得たものはいつまでも続かない。

 

またシェバ、彼は自分たちに甘い汁がないこと、神様は何も与えていないと疑い、ダビデを王から引きずり降ろそうとした。神様から選ばれていた王なのに。彼は権力者に、まるで柳のようにいつもなびいていた。でも、神様は果たして何も良いものを与えないのだろうか?彼は、ダビデは何も良いものをあなた方に与えるつもりはない、とユダ族(ダビデの出身部族)を騙そうとしますが、↑の一番最後の組閣を見てもわかるように、ダビデはその勝利の恵みを分かち合った。

 

この戦いの本当の勝利者は、見事シェバを打ち取り、軍団長の座に収まったヨアブでも、王に戻ったダビデでもなく、神様です。ヨアブは自力で得た軍団長の座は最後は失い惨めな最期を迎えることになる。アマサはここでは非業の死を遂げましたが、死して後、神様の栄光の内に迎え入れられたことでしょう。

 

結局最後は神様の御心がなるのです。これに覆いをかぶせ、見ないふりをするなどありえない。あなたの覆われている覆いを外していただき、真の神様の恵みを見よう。神様はあなたに勝利の分け前というか特権を、↑の組閣のごとく与えて下さっているはずです。

 

神様は、あなたを打ち砕こうとし、神様から引き離しだまそうとするシェバ・もといべリアル・もといサタンからあなたを取り戻すため、御子イエス様を人として生まれさせてくださり、住まわせ、その愛を現された。恵みを注がれた。

 

でもそれで終わらず、私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれたのです。しかし3日目にその身代わりの死・贖いを良しとされた神様に依ってよみがえらされ、このイエス様の十字架の救いを信じ受け入れる、悔い改め立ち返る全ての人に神様の子とされる特権を与えてくださるのです。

 

この勝利の神様がなされる、御心を、与えて下さっている恵みを見、これを味わわせていただこう。よく見てください、あなたの周りには神様の最高の組閣、もとい恵みが覆っているのだから。その中心には、復活のイエス様があなたの内に住周り、御心を現し、導かれる。今日、この特権に信頼し、いやイエス様の愛に信頼し歩もう。

 

私たちはちょっと有名な人に出会っただけでも、私は知っているよ~と思う。

相手がどう思っているかは別。

 

しかし神様はあなたを知って覚え、愛されている。

神様に知られている、覚えて、愛される、何と最高な事だろう。

しかも御子イエス様の命をさえ惜しまない神様があなたを。

 

という事で、今日は日曜日なのでこの時間は、

少しでも聖書のことを知っていただきたく、シロクマ先生の礼拝説教をシェアさせていただきます。

良ければ聴いてください<m(__)m>

 

ヨハネによる福音書5章5-6節

「イエスはあなたを知っている!あなたはイエスを知っていますか?」

 

以下、先生の解説。

イエスはベテスダの池で38年も病気のために横たわっていた人を見て、彼が長い間そうしていることを「知った…」と福音書は伝えている。イエスはまず私たちのことを知ってくださる…。では、あなたはイエスのことを知っていますか?

 

 

 

 

灯台下暗し、じゃないですが、

私たちはうまくいかないと難しいことを考え、遠くを見る。どうしたらたどり着けるか、

どうしたらうまくいくか。

 

マザー・テレサは言う。

「遠いところにイエス様を探すのはおやめなさい。イエス様は、そこにはおられません。イエス様はあなたのそばにあなたと共におられるのです。常にあなたの灯をともし、いつでもイエス様を見るようにするだけです。あなたのその灯を、絶えず小さな愛の滴で燃え続けさせましょう。そうすればあなたにも、あなたのお愛しする主が何と甘美で心地よいお方かが分かるでしょう。」

 

イエス様は、私たちの最も近くまで来られた。神であられるのに人となって生まれてこられた。

イエス様は道であり、真理であり、命である、と仰られた。

私たちは遠くに答えを探すけど、イエス様自身があなたの応え、真理となり、あなたに命をもたらす道へと導かれる。その命をかけて。その中に神様の御心を私たちは味わわせていただけるのです。

あなたの答えと違っても、イエス様はあなたにベストをもたらすために命までかけられた。

今日、私たちはイエス様に近づかせていただこう。

 

 

 

「たまたまそこに、よこしまな者で、名をシェバという者がいた。彼はベニヤミン人ビクリの子であった。彼は角笛を吹き鳴らして言った。『ダビデには、われわれのための割り当て地がない。エッサイの子には、われわれのためのゆずりの地がない。イスラエルよ。おのおの自分の天幕に帰れ。』そのため、すべてのイスラエル人は、ダビデから離れて、ビクリの子シェバに従って行った。しかし、ユダの人々はヨルダン川からエルサレムまで、自分たちの王につき従って行った。ダビデはエルサレムの自分の王宮に入った。王は、王宮の留守番に残しておいた十人のそばめをとり、監視つきの家を与えて養ったが、王は彼女たちのところには通わなかった。それで彼女たちは、一生、やもめとなって、死ぬ日まで閉じ込められていた。さて、王はアマサに言った。『私のために、ユダの人々を三日のうちに召集し、あなたも、ここに帰って来なさい。』そこでアマサは、ユダの人々を召集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。ダビデはアビシャイに言った。『今や、ビクリの子シェバは、アブシャロムよりも、もっとひどいわざわいを、われわれにしかけるに違いない。あなたは、私の家来を引き連れて彼を追いなさい。でないと彼は城壁のある町に入って、のがれてしまうだろう。』それで、ヨアブの部下と、ケレテ人と、ペレテ人と、すべての勇士たちとは、アビシャイのあとに続いて出て行った。彼らはエルサレムを出て、ビクリの子シェバのあとを追った。彼らがギブオンにある大きな石のそばに来たとき、アマサが彼らの前にやって来た。ヨアブは自分のよろいを身に着け、さやに納めた剣を腰の上に帯で結びつけていた。彼が進み出ると、剣が落ちた。ヨアブはアマサに、『兄弟。おまえは元気か』と言って、アマサに口づけしようとして、右手でアマサのひげをつかんだ。アマサはヨアブの手にある剣に気をつけていなかった。ヨアブが彼の下腹を刺したので、はらわたが地面に流れ出た。この一突きでアマサは死んだ。それからヨアブとその兄弟アビシャイは、ビクリの子シェバのあとを追った。そのとき、ヨアブに仕える若い者のひとりがアマサのそばに立って言った。『ヨアブにつく者、ダビデに味方する者は、ヨアブに従え。』アマサは大路の真ん中で、血まみれになってころがっていた。…そのかたわらを通る者がみな、立ち止まるのを見ると、彼の上に着物を掛けた。アマサが大路から移されると、みなヨアブのあとについて進み、ビクリの子シェバを追った。…」

Ⅱサムエル記20章1-14節

 

私たちは誰に従うか、どこについていくか、これによって運命の分かれ道になる。祖一般的にも、どんな師につくか、それによっても将来が変わってくるのは言うまでもないでしょう。私たちはまことの権力者である、救い主である、命の源なるイエス様に従おう。イエス様はあなたを命がけで、いのちの道へと導かれるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国のダビデの治世で、その息子アブシャロムによって引き起こされたクーデターが終結し、ダビデがいよいよ都に戻っていくところ。アブシャロムの反乱は国に一石を投じ、誰につき従うのか、信頼しついていくのか?その態度も含め問われていく。

 

ダビデの側の将軍ヨアブは権力に取りつかれ、ダビデから息子の命を助け、悔い改めの機会を与えてほしい、と願われても、殺すチャンスを見て、討った。後の彼の権力維持のためだったといってもいいかもしれない。彼のこの罪ゆえにダビデはヨアブの将軍の立場をアマサに引き継がせ、これに逆恨みし、権力を失う事を恐れたヨアブは、同じダビデの味方であるはずの、ユダの味方であるはずのアマサを暗殺するのでした。

 

一方↑でイスラエルの民、と出てきますが、ユダ族もイスラエル民族、国民です。何が違うか。彼らはサウル派で、ダビデが王でいることによって自分たちが王族から離れ、甘い汁を吸えない、と不満に思っていた。だから、アブシャロムが反乱を起こしたとき、彼についていき、協力することで、自分たちが何か権力を得る、甘い汁を吸うことを願った。そして、今度はシェバというよこしまな者についていこうとしていた。

 

ちなみに、このシェバ、という言葉、元をたどると「ベリアル」、そう、サタンの名前の一つですね。彼がサタンが姿を変えた姿かは定かではありませんが、少なからず、そのような性質を持っていた、それほどの言葉で訳された。ちなみに聖書には、「キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう」と明確に記されています。

 

この世の中新しい権力者や考え方が次々に誕生し、神などあなたに譲りの地=恵み、祝福などを与えない、だから私に従いなさい、と私たちに仕掛け、誘惑してくる。だから私に従いなさい、と。ヨアブはこのシェバの行動に乗じて、自分の権力を脅かすアマサの暗殺を謀りに行った。そして、暗殺後、彼は自分の権力を誇示するように、ダビデに従う者も、私についてきなさい、と命じる。

 

彼の心はどこにあったのでしょう。彼はアブシャロムを殺した罪だけではなくこれらの行為によって、ソロモン王によって殺されることになります。彼の心はベリアル、サタンに奪われた。サタンの見せた栄華、権力を得る喜びの前に、ひれ伏してしまった。その考えにとらわれ続け、彼は最後非業の死を遂げる。彼はダビデのいとこというある意味で最高の特権の場所にあったのに、その本質を見逃していた。ダビデを通して神様が恵まれている恵みを恵みと思わなかった。

 

アマサの死は本当にかわいそうとしか言えない。しかしだからと言って私たちは、ほら、神様に従っても何にもならないじゃないか、とかえって最初のシェバの言葉、誘惑に陥ってはならない。神様は神様で私たちを、あなたを、導かれる。彼の死はあまりに残念ですが、しかし彼は神様の栄光の内に受け入れられたのではないか、と願ってやまない。神様に従う中で、神様の恵みを受けない、という事はない。人は死んで終わりではなく、神様に立ち返る人は死んでも生きるのです。

 

パウロはその手紙に「キリストとべリアルとに、何の調和があるでしょう」と書き残す。シェバ=ベリアルは誘惑し、私につき従えば、これこれを与える、と誘惑してくる。でも、そこに命はない。イエス様に従う中にはイエス様の命にあって、私たちを導かれる。あなたを取り戻すためなら、イエス様は喜んで私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ死なれたのですから。そして3日目によみがえられたことによって、あなたを神様の子として引き上げられた、その特権を与えて下さったのですから。

 

世にある一瞬の喜びや権力者たちはあなたに責任を負いません。しかしイエス様は、その命にあってあなたに責任を持たれ、あなたを導かれるのです。そこに調和は一切ありません。全く違う。

 

ちなみにダビデは、国に残した妾の所にはもう二度と入らなかったという。それは、罪だと理解したからかもしれない。閉じ込めた、と言いますが、むしろその妾たちが今度他の人たちによって傷つけられることから守ったのかもしれない。ただ、私たちは、神様を信じると何か窮屈、閉じ込められた感があるかもせんが逆です。むしろあなたを自由にされる。解放してくださる。妾、また罪の奴隷から。神様の監視、というよりも守りの中であなたは養われ、また導かれるのです。

 

シェバ、ベリアル、サタンはどんなにあなたに栄華を見せようとも最後はあなたを滅びに一緒に降るため導こうとするしかしイエス様は命をかけ、あなたの命の日々へと導かれる。シェバはどこにでもあなたにわなを仕掛ける。

 

誘惑はたくさん。その中で私たちは誰に従うだろう?一瞬の栄華を求めるか、キリストイエス様にあって新しく与えられた命、栄光の特権を願い求めるか、その命にあって現され成し遂げられる御心を求めるか。あなたはどちらでしょう?命までかけられた神様の大いなる愛に私たちは信頼し歩もう。どんな戦いの中にあっても復活のイエス様があなたを導かれるのだから。

 

昼に紹介した詩、これの載った本、「わが恵み汝に足れり」。

9歳の時に赤痢によって自分ではどうにもできなくなり、しかし、神様が彼の人生の1ぺ時をめくり、新しい命をくださった。障害は残ったことはかわらない。でも、彼はかえって神様の恵みを日々味わう。そうして、瞬きの詩人としてストレートに、人生への思い、それにこたえる神様のことを詩に残していった。

 

そうしたものをまとめた詩集の1つがこの本。

よければ手に取ってください<m(__)m>

 

せっかくなので、もう1句、紹介しますね。

 

「お話して下さい」

主よ

お上がり下さい

こちらの部屋に

おいで下さい

 

姪たちは

学校へ行って

弟たちは

納品に行って

私ひとりです

 

主よ

お話しください

私たちの望みなる

御国のことを

 

※一人の寂しさを感じつつ、しかし、イエス様が私たちの内に喜びをもたらす。望みを与えて下さる。だから、誰を呼ぶのではなく、イエス様を呼び、イエス様が語られることを楽しむ。イエス様は私たちにいつでも語られる。あなたの悲しみを癒し、また励まし、また力づけ。私たちとイエス様は生きた関係を今日も結びたいとあなたの応答を待っている。

今年も毎朝

母に聖書を

一ページ一ページめくってもらい

父なる御神からの

新しい力

新しい望み

新しい喜びを受ける

 

ー今年も毎朝(水野源三さんの詩集より)ー

 

水野源三さんは、小さなころの赤痢にかかった影響で、立ち上がることも、話すこともできず、ただ人の世話になって生きる事しかできなかった。

 

でも、そんな彼の人生の1ページをめくってくれたのが神様。彼と出会い、新しい命を注がれた。

私たちの人生もそうではないか。

神様が私たちに日々1ページ1ページめくられ、日々日々新しい出来事、新しい力、新しい望み、新しい喜びを与えて下さる。御子イエス様の命がこれを保証してくださっている。

イエス様の十字架にあって開かれた扉、ここから始まる新しい命を今日も受けよう。

 

「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。『ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、【私の相手をさばいて、私を守ってください】と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに【私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない】と言った。』主は言われた。『不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。』」

ルカによる福音書18章1-8節

 

私たちはこの苦しいご時世、神様は何をしているんだ?と疑問に思う。なぜ?どうして?と。神様は何もしていないのではないか、と不安になる。しかし、私たちはこの世のレベルまで神様を下げてはいけない。神様は現在進行中であなたのうちに御心をなそうとされている。今、あなたを神様が支えていることを忘れてはいけない。神様を求め続けよう。どんな時も。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」語られた、不正な裁判官についてのたとえ話。なかなか不思議なたとえ話をイエス様はされるな、と思うでしょう。なんでわざわざ不正な裁判官なのか、もっといいたとえはなかったのか?

 

ちょっと上のたとえを整理すると、あるやもめがその関係者か誰かによって不正を受けていて、何とか助けてほしい、と訴えるも、神を神とも思わない不正な裁判官が、これをいつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために聞こうともせず、受付もしなかった。でもあまりにしつこいから仕方なく、これを聞き裁判を開いた、というもの。

 

で、この話の不思議なところはイエス様は、「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい」というのです。そうすると、イエス様はしつこく祈らないと何もしない、応えない、うるさいな~と思っておられる、と勘違いしやすいのですが、実はこれ、逆なんです。神様は、いつでも私たちにその御目を注がれ、私たちの声に耳を傾けている。神を神とも思わず、この世を自分が義人であるかのように裁く私たちの声さえ。

 

私たちはしつこく祈らないと、何か修業しないと神様は何も答えてくれない、それで初めて重い腰を上げて下さる、そう勝手に勘違いする。でも、神様は速やかに行動される、というよりも、現在進行中で神様の御業を進めて下さっている。人は一発で答えをくれることを求めるけど、今この瞬間も、昨日の分かち合いで見たように私たちを背負いながら、導かれるのです。私たちは答えが出たら神様は祈りを聞かれた、と思う。でも祈り、というのはある意味では神様に繋がり、「求め続ける」こと。

 

私たちが諦めて神様から離れるけど、神様は私たちに繋がり続けている、その中に神様は励まし、慰め、その御力を注ぎ、御心を完成させようと日々その愛を注がれている。それなのに私たちは神様から離れてどうしますか?

 

イエス様は「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」と仰られた。私たちは「信仰」を持ち続けているだろうか。しつこいくらい神様に繋がり続ける、神様に呆れられるくらい求め続けているだろうか?神様はそれを不正な裁判官のように嫌な思いをせず、むしろ喜んで答えて下さる。答えが出たら信じる、答えが出たら終わり、ではなく、どんな時も神様を求め続ける、それを忘れてはいけない。どんな時でも祈るべきである、という事は神様はどんな時でも聞いてくださっている、どんな時でもあなたの内に善をなしたいと、あなたを待っておられるのです。

 

私たちは不正な裁判官のように、神様を神様と思わず歩んでいないだろうか?神様を神様と思わず、神様との関係を適当にあしらっていないだろうか?神様があなたの内に語られるとき、何か問題が起こってからやめる、とかそんな適当な関係になっていないだろうか?それで果たしてイエス様の最後の言葉「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」、これに自信をもって答えられるだろうか。

 

神様は不正な裁判官ではない、むしろ私たちがそう陥らないようイエス様は私たちに語り掛けている。私たちは神様との関係を、繋がりを、適当にあしらってはいけない。神様はいつでもあなたにベストを語り、また導こうとされている。それでも神様を無視し続けていた私たちのために神様は、御子イエス様を身代わりに十字架にかけ、罰してまで、この関係を正そうとされた。あなたに悔い改め、立ち返ってほしい、とねがってまでそこまでされた。

 

そこまでされてまであなたを取り戻されたこの神様の愛を適当に見てはいけない。神様はイエス様の復活とともに、神様に立ち返る全ての人を神様の子として迎えられる、最高の特権を与えて下さる。この世の中、理不尽な世の中にあって、暗闇にあって、この十字架による愛、約束以上のものがあるだろうか。神様が正しくあらゆる意味で裁いてくださる。導いてくださる。

 

神様を神様とも思わず、あきらめるのではなく、この十字架の前に今こそ立ち返り、この神様の御心がなされること、御国が建て上げられていく事を切に祈り続けようではありませんか。ある瞬間だけではなく、今この瞬間瞬間、神様に繋がり続け、「神様の御心がなる事」を切に祈り続けよう。

 

ある経営者と話をしていた時、

何か心にやましいことがある人は、よく語る、という。思わず、なるほど、と思った(;^_^A

あ、別に私がその時やましいことをしていたわけではないのですが。

でも、やましいことがあるときって不安ですよね。そして不安を払しょくしようともがく。

それはやましいことに限らず、人生そんなもの。

 

私たちは誰しもが祈る。対象は別にして。でもそれは自分の願い、欲を満たすため、かなえるためにする。クリスチャンでも陥る罠。

 

でも祈りというのは根本的に違う。

主体者は私ではなく神様。私が語るのではなく、神様がお語りになる事を聞く、

そして従う、その中に「神様の御力」が豊かに現され、ベストがなされる。

 

グレタ・ズワーン氏はこう語る。

 

”祈り”は、時として弱くなっていく信仰をしっかり支える手段です。

”祈りの力”は、神様がお語りになることを聴く力を

豊かにし、引き上げます。