「指揮者のために。エドトンによって。ダビデの賛歌
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。セラ 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。」
詩篇62篇1-12節
私もそうなのですが、人はなかなか黙って待つ、というのが難しいんです。早く何とかしてほしい、とか、自分の思っているのとは違うから、もっとこうしてほしい、と口を出す。まあいずれも気持ちは分かります。だから私も苦手なんです。まあ他の人のやり方、考え方が気にくわないから、と自分の考えを黙っていられず押し付ける、なんてこともありますけどね。でも、時に私たちは待つ、という事も必要です。私たちのその考え(アドバイスと称して自分の意見をただ押し付け自分の思うようにしたい、という事も含め)が正しいとは限らないし、あなたの背後で働かれている方がいるという事を忘れてはいけません。そう、神様。すべてのことを働かせて益としてくださる神様がいる。私たちの手ではどうにもならない事、納得できないことも、神様が正しい方向に変えてくださる、導いて下さる。あなたを愛するゆえに御子イエス様のいのちを身代わりに差し出し死なせる、身代わりにすることさえできるほどの方が。この神様があなたに心を留めておられることをどうか忘れないでください。神様はあなたが帰ってくるのを待っておられる。あなたはこの神様を今日、呼び求めていますか?
ということで紀元前に生きていた様々な人がうたった詩、それぞれが色んなことを体験し、また通りながらその中に働かれていた神様、出会った神様によって知らされたこと、思わされたことなどをうたったし、それをまとめた詩篇の62篇を見ていきたいと思います。なお、この詩篇も表題にある通りダビデが歌ったものになります。エドトンはそのダビデの聖歌隊の一人と言いますか、指導者の一人になります。
この詩篇の背景については表題に細かく書いていないのでいつうたわれたものなのか厳密にははっきりしません。ただ、詩の内容から察するに、ダビデの息子アブシャロムがクーデターを起こし、ダビデが国から追放、さらにいのちを彼に狙われていた時のものではないか、と思われます。そこに、以前の詩篇で紹介したアヒトフェルという元ダビデの議官が裏切り(まあ正確にはダビデの不倫したバテシェバの関係者だったからついて行け亡くなったか、裏切ったか、色んなことが理由として考えられますが)、どうやったらこのダビデを殺害できるか、それを議論していたわけですね。そんなダビデのことを知りつくしたアヒトフェルと息子アブシャロム、これに追い詰められているダビデの詩。
そのダビデは今、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。セラ」と祈り、うたいます。
ダビデは今、愛するわが子アブシャロムから命を狙われるという青天の霹靂、信頼していたアヒトフェルまでアブシャロム側につくという、絶体絶命状態。アヒトフェルの頭脳は相当高く、ダビデ自身も何度も助けられてきました。ある意味ではダビデのことを知りつくしていると言ってもいいのかもしれません。そう考えるともう自分には勝ち目がない、そう考えたくなるところでしょう。彼らは今、ダビデを殺すため、襲うための議論をしている。会議をしている。自分が王になりたいアブシャロム、ダビデへのある意味では復讐、そして自身の地位を願うアヒトフェル、その権力に自分たちの安泰を求める兵士たち。ん?どこかで見たことがあるような構図な気もしますが、まあどこの国でも時代でも本当に変わらない。
でも、議論すべきは人を打ち破ったりすること、論破する事よりも、よりよい「神様の御心はどこにあるのか」それを共に祈り、考え、実行する、自分のお心や利益をもたらすかどうかを考える、それをもたらすものにたなびくのではなく、本当に益をもたらす神様、ここに私たちは心を向ける必要があるのではないか、とこの詩を読んで思います。
むしろ神様は私たちを救うための計画を練ってくださっている、その愛を考え、計画し、実行してくださっている。神様は良い計画をもっておられる、ある意味ではその話し合い(話し合いという形で神様がしているのかは不明ですが)、そこにダビデ自身が加わり、話を聞く、それが彼のこのことばに洗われているのではないか、と思うのです。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない」という。今、神様が助けに来ようとしてくださっている、自分では納得できないから自分の息子と戦う、とか、アヒトフェルに復讐する、とかではなく、神様の時、救いを、自分が計画、思うよりもはるかに高い神様の御心の到来、救いの時を待ち望むのです。↑の前の詩篇で分かち合いましたように、私たちは神様の創られた世界に住まわせていただいている、神様が王である世界に住まわせていただいている、神様がつくられ、与えて下さった命に今私は生かされているんだ、だからこの神様に信頼しよう、と。まさにだからこの神様こそ救いの今、やぐら、この本体の神様が揺るがされることがないんだから、私も大丈夫、と。
このアブシャロムのクーデターの遠因に、先に挙げたダビデの不倫の果ての隠蔽殺人もないわけではありません。だから本来その罪ゆえに彼は裁かれる、そういう事を神様からされてもおかしくない、でもダビデはそれでも神様の御手に委ねながら、神様のご計画を待ち望むのです。ある意味では自身の回復、罪からの解放、もう一度神様の御もとに連れ戻してほしい、正しい関係に回復させてほしい、という意味も含めた「待ち望む」という言葉なのかもしれません。その神様は確かにダビデを覚え、救い出そうと導き、やがてアブシャロムはダビデの将軍ヨアブによって討たれ(まあヨアブもアブシャロムに対する復讐心があった事は否定できませんが、ダビデが彼に手をかけてはいけないということばを聞かず殺害)、ダビデは国に帰ることが赦され、後には神殿建設の準備にも携わっていきます。確かに彼の心はこの旅の間を通して神様によって回復されていった。ただアブシャロムから救い出すだけではなく。
人は自分が思う通りに行かないと、納得がいかないと、色んなはかりごとをする、計画する。まあ気持ちは分からないこともないこともありますが、しかしダビデの息子ソロモンが「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。…人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」と箴言に残したように、どんなに人があれこれ計画しても神様のはかりごとだけが成る、いつかは失われ崩れるような計画、また世の流れではなく、神様の御心を求めよう、と。だから、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」とも語っていたように、私たちは私たちの道をまっすぐにされる神様を認め、遜る、黙ってより頼む、自分の願望や悟りではなく、神様の御心に委ねたいものですね。
神様はダビデよりのちの時代、預言者エレミヤを通して、罪にまみれてしまいバビロンに捕囚されていくイスラエルの民に向け「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。―主の御告げ―わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。―主の御告げ―わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる」と語られていましたね。神様は災いではない、平安を与える計画、将来と希望を与える計画をもっておられる。この神様を呼び求め歩き祈るなら聞かれ、探し求めるなら見つけ、見い出す、そして神様がその繁栄を元どおりにされる。何と希望に満ちた神様、その神様が今働かれている、その計画をもっておられるなんてなんと感謝なことでしょう。
私たちは神様に何をやってるんだ、何もしないというなら私は黙っていられない、あれを使用、これをしよう、別な自分に利益をもたらす「と思われる」者に委ねてみよう、やってみよう、あの本に書いてあること、この人が言っている事をしんじてやってみよう、と言動的に、行動的に黙ることができないことがあります。しかし、私たちはこの神様に見捨てられてもおかしくないダビデや、イスラエルの民、その彼らにさえ憐れまれ、救わんとされた神様の計画を、あなたにももっておられるという事を忘れてはいけません。
いや、むしろそんな私たちを救うためになら、御子イエス様に私たちの罪の代償・死を御子イエス様に背負わせ、その呪いも思い煩いも一切背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせた、そのことをもう一度覚えよう。この方が私たちを救う計画を実行するために、御子イエス様を身代わりに罰し、死なせた。そこまでしてでもあなたを救おうとされる計画をもち、実行されたのです。そこまでされた神様があなたに持っておられる計画は一体どれだけ素晴らしいか、深く高く、広いこの計画に何が勝る事ができるでしょう。この愛に何が勝る事ができるでしょう。世がどんなに計画を重ねようと、この神様の計画に勝る事はできない、神様の御心、御力に勝ることなどできない。これを奪い去ることはできない。それなのに、これにNoを突き付けてどうしましょう。
私たちはダビデのごとく、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある」と告白しよう。もちろん何もするな、というわけではありません。昨日エペソ人への手紙の分かち合いの中で見ましたように、神様の武具を取り、正しい武具を身に着ける、神様の大能の力に満たされ、語るべき言葉、みことばの剣をしっかりとって世の悔い改めのため、救いのため、平和のため歩きたいものですね、祈りと共に。そしてこの神様の御心を待ち望もう。ダビデが「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」と民にこれを呼び掛けるように、神様の御心を語り、また励まし合えれば幸いですね。そうして全地が神様の愛にあって回復していく事を願い。「私(たち)の救いと、私(たち)の栄光は、神にかかっている」、あなたはこれを信じていますか?
「まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます」とダビデはこの詩の最後に歌っています。しかし私たちはこのイエス様の十字架、究極の愛、ご計画の御前に悔い改める、ひれ伏すとき、私たちは神様の子とされる。これ以上の身分と言いますか、特権はありませんね。世的には低くされるように見える、でもそこに働かれている神様の大能の力が今日覆っている。もう虚しいものに心とらえられ、追い求めるのではなく、神様にある富、素晴らしさをどこまでも求めよう。神様が報いてくださるその最高の計画を信じ待ち望み、祈り続けよう、仕え歩もうではありませんか。
