とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

私たちは何か存在理由があってここにいます。

時には思いがけないこともあるでしょう。

 

レーナ・マリアさんはこう語ります。

 

    

神様は、何か目的があって、私をこういう形に作られたのだと思います。ですから、その目的がなんであったのか、これから知らされるのが楽しみです。

 

彼女は、生まれつき両腕が無く、片足は半分の長さがあるかないかくらいの長さ。

しかし彼女は絶望することなく日々日々歩んできました。その彼女を支えていたのは↑かもしれません。神様。神様がこの命を与えてくれたなら、神様が支え、神様が保証し、神様が養ってくださる、と信じていたのです。だから、スポーツ選手としても有能だったし、その後ゴスペルシンガーとして世界中で活躍しているのです。

 

私たちは彼女のような障害はないかもしれません。

でも同じことが言えるのは、あなたを造られ、あなたに命を与えた神様が、あなたを支え、保証し、養ってくださるから。あなたがそこにいるのには神様の目的があるのです。

 

だから神様がこれから何をなさろうとしているのか、大いに期待しようではありませんか。

 

※ちなみに↓の写真のコーヒーカップを持っているのは…

手ではなく、足です。

 

「悪者は、借りるが返さない。正しい者は、情け深くて人に施す。主に祝福された者は地を受け継ごう。しかし主にのろわれた者は断ち切られる。人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。悪を離れて善を行ない、いつまでも住みつくようにせよ。まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。正しい者は地を受け継ごう。そして、そこにいつまでも住みつこう。正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない。悪者は正しい者を待ち伏せ、彼を殺そうとする。主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、彼がさばかれるとき、彼を罪に定められない。主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。私は彼を捜し求めたが見つからなかった。全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には子孫ができる。しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪者どもの子孫は断ち切られる。正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。主は、悪者どもから彼らを解き放ち、彼らを救われる。彼らが主に身を避けるからだ。」

詩篇37篇21-40節

 

人は年をとれば足腰は弱くなり、何か支えがないと歩くのが大変。大丈夫大丈夫、と言っていた人がある日転倒して、大腿骨骨折で歩けなくなるなんてことも。療養生活でこれまでのサイクルが崩れ○○が進む、というケースを何度も見てきました。もちろん肉体的な問題だけではなく、精神的にもつらいことがある時、誰かの支えがないとある意味で立っていられず倒れてしまう。でもどうか忘れないでください。あなたを造られ、いのちを与えてくださった天の父なる神様はあなたのことをだれよりも心配してくださり、支えてくださっている事。そしてその手を取って一緒に導かれることを。そのあなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてでも救わんとされたこと、その愛が今もあなたに向けられ、注がれていることを。私たちは困っていたら助けて、というでしょう?良いんです、神様に助けて、と叫んでも。わが子の声を聞いておられる神様はあなたの支えとなり守られる。今日神様に帰ろう。神様は喜んであなたを迎えてくれるから。

 

ということで、ずっと見て来ています紀元前に生きていた人たちがそれぞれの時代に体験し、思ったこと、感じたこと、神様と触れ合いながら知ったことなどを歌った詩、それをまとめた詩篇の第37篇の続きを見たいと思います。前半部分は昨日の分かち合いを参考に見ていただければ幸いです。この詩篇は前半部分の表題にあったように、古代イスラエル王国2代目の王、ダビデの詩、特にここで「私が若かったときも、また年老いた今も」とあるように、ダビデが老年になってこれまで見てきた様子、悪者が栄えている現実を憂いながらその中に働かれている神様、見えないじゃないか、いないじゃないか、と思う中に確かにあった神様の助け、そうしたものが確かにあった事を歌い、残します。

 

この詩篇の前半部で「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」とありましたね。そんな自分勝手に生きる、自分の義を振りかざし愛さない、そんなとても善とも言えない、下手をしたら不正や差別などが跋扈する中で、それに振り回されず、それらに怒るのではなく、妬むのでもなく、神様に信頼し、神様に委ねることをダビデは勧めてきました。自分の思い、憎しみ、そうしたものに支配されるのではなく、神様から与えられている善、この全をもって、愛をもって仕える、そこに神様の現わされる善を期待する。そこに神様の義の太陽が、真昼ように輝くその日が昇る、そのことを見ました。

 

ここではさらにダビデは、「悪者は、借りるが返さない。正しい者は、情け深くて人に施す。主に祝福された者は地を受け継ごう。しかし主にのろわれた者は断ち切られる。人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」と語ります。これ、結構耳が痛い話だと思います。自分は悪人ではない、と思う、いやあまり思いたくないでしょうね。それに一応借りたものは返すよ、とたぶん思うと思います。私も返します。でも、実は耳が痛いのです。どうしてか。それは愛を受けたのに愛せない、愛で返せない。恩を仇で返す。してもらって当然、と、特に「神様から」受けた愛、様々な助け、御業に対して、感謝もしなければ、ことばでは感謝しても、愛しています、と返しても、それが行動に現れない。現すのがなかなかできない。特に愛することに関しては。そのことをダビデ自身も分かっていて、自分もそうであった、と「情け深くて…」ということばを追加しているわけですね。最初、自分はそんなことはない、と私は思っていたのですが、この情け深くて…ということばを見て、いかに自分は正しく歩めていないか、神様の御前に正しくなく、愛がないのかを思い知らされました。義人はいない、一人もいない、というあたりはこの辺りにあるのでしょうね。

 

でもそんな神様からたくさんの愛を受けて、感謝してもしきれないほどにたくさんの助け、養いを受けた、その借りを返す、ではないですが、感謝を表すなら、まさにダビデがここで言うように「主に祝福された者は地を受け継ごう」、そこに神様の祝福が溢れ、そんな祝福された地に私たちは生きる、神様の善が広がり、そこに住まわせていただけるんですね。逆にそれでも神様から離れ、愛されていることを忘れ、神様の道とは違う道を選び進むところには結局その祝福から離れてしまう。神様とつなげてもらえているのに、そこから離れ、祝福を失うなんて、もったいないじゃないですか。祝福の反対は呪い、そんなものを受けてどうしましょう。

 

だって私たちは、こんなに神様から愛され、いのちまで与えられて、神様の創られた世界に住まわせていただいて、衣食住と養われて、それなのに神様を神様とも思わず、神様の愛を忘れ、離れた、こんな自分までなお見捨てられなかったんですよ?神様はそのような私たちにさえ情けを現され、私たちのこの罪、思い煩い、痛みも全部一切御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせてくださったんですよ?そこまでされて愛され、救おうとされたのに、この愛を拒否するなり、受け取ったのに、それでも自分の義に生き、必要な時だけ神様助けて、そうじゃなければ神様あなたの意見は私には受け入れられないので、どこか行っていてください、引っ込んでいてください、ではどうにもならないでしょう。こんなにまで愛された神様の愛から受け継がせていただける祝福、いのちはいかばかりか。命をかけてあなたを愛され、支え、救われた神様がいるんですよ?借りたものを返さない、愛を受けたのに神様を愛さない、なんともったいない。これを書いている私も書けば書くほど耳が痛くなり、悔い改めるばかりです。

 

「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。悪を離れて善を行ない、いつまでも住みつくようにせよ。まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。正しい者は地を受け継ごう。そして、そこにいつまでも住みつこう」とダビデはうたいますが、神様の愛は年齢とか、時代とかそんなものは関係ない。神様はいつもその御手を伸ばされている、見えないじゃないか、何もしていないじゃないか、と自分の色眼鏡で神様を見て、本当に神様がなさろうとしていることを見ていない。神様はその御手をわが子、子どもだけではなくあなたにも伸ばされている。よいものを常に示され、導こうとしている、でもそれを取るか、選ぶか、それは最後は私たちの、あなたの選択なのです。神様は情け深く、貸すどころか、惜しまず与えてくださり、その祝福を与えようと御子イエス様のいのちまで際出され、ご自身の内に住んでいいんだよ、帰っておいで、と招いて下さったわけです。見捨てなかったのです。それなのに、この永遠の恵みに背を向けて、断ち切られるなんてもったいないじゃないですか。

 

イエス様は「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです」と仰られましたね。誰でも私たちは神様につくられ、いのちを与えられた、神様の子どものはずなんです。自分は子どもじゃない、神様などいらない、なんて自分で離れるなんてもったいない、イエス様がいのちをかけて両手を広げて受け入れようとしているのに。自分の心や世の価値観に邪魔され、邪魔していかないなんてもったいない。いのちをかけてでもあなたを招いて下さっているんです。天の御国をあなたに与えよう、招こう、神様の愛、ご統治溢れるところに招いて下さっている。その御国が広がっていくなら最高じゃないですか。

 

「正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない。悪者は正しい者を待ち伏せ、彼を殺そうとする。主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、彼がさばかれるとき、彼を罪に定められない。主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる」とダビデはうたいますが、この本当の正しいものは神様。その知恵をイエス様が語り現され、聖霊様が私たちが理解できるよう助けてくださる。この神様の教えが私たちの内に働き、力となって私たちを支え、導いて下さる。神様の継がせて下さる地、日々がそこに待っている。あなたは誰を待ち望むだろう。その神様のみおしえを喜びとしていますか?その人は時が来ると実がなり、その葉は決して枯れることはありません。たとえ、見かけよいことを見せ、語っても、それはダビデが長年診てきたように、「あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。私は彼を捜し求めたが見つからなかった」といつかは枯れるのです。

 

だからこそ、ダビデが「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には子孫ができる。しかし、そむく者は、相ともに滅ぼされる。悪者どもの子孫は断ち切られる。正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。主は、悪者どもから彼らを解き放ち、彼らを救われる。彼らが主に身を避けるからだ」と語るように、全き人、神様に目を留めよう。そこに神様のくださる平和が広がる、子孫というほどに代々に広がる恵みが溢れるから。どんなに悪人が跋扈しようとしてもそれは必ず滅びる。そうしたものに私たちは目を留め、心を留めるのではなく、そこから解き放ち、いのちをもたらす方、死から、罪の呪いからいのちをもって解き放たれたイエス様の愛を覚え、この愛に生きよう。信頼し従い歩もうではありませんか。そこに神様の完全な愛が豊かに溢れ、全てが変えられ、癒され、生きる事を信じ期待して。

 

神に導かれる歩み 詩篇37:23-24

多分誰しもが平和を願うでしょう。まあ、そうではない侵略者もいますが。

問題や様々な課題、思い煩いの中にあって私達は平和・平安を求めるます。

 

では平和はどのように訪れるのか?

平和はどうしたらなるのか、職場、家庭、その他もろもろ。

 

    

それは、神様と和解する時、救いを受け入れる時、神様が私たちの内に作り出されます。

 

チャールズ・八ッドン・スポルジョン氏はこのように記します。

 

    
イエスを仰ぐと、平和の鳩が私の心の中に飛んで来た。ところが平和の鳩に注目していると、それは飛び去った。

 

平和自体ではなく、神様自身を仰ぎ見る時、神様が今働かれている、平和を成し遂げようとしてくださっています。御心を、御国を建て上げ、変えようとしてくださっていることを知るのです。

 

私たちは、まず自分自身悔い改め、神様への心を改めるというか、神様を待ち望もう。信頼しよう。人が作り出せない平和、平安も、神様は作り出される。その御子イエス様の命にかけて。

 

私達の人生はある意味ではストーリー。

でも、これを自分で書き綴け続けるのには限界があります。

しかし、私達は忘れてはいけません。

 

    

神様は、まだあなたのストーリを書き続けている。あなたの信仰を、あなたが今見ている物で、まだ見ていないからといって去らせてはいけない。

 

神様は、いつも現在進行形であなたを導かれています。誰かにしたことのコピーペーストした物をあなたにするわけではなく、あなたにはあなたへの計画を持たれ、それを成し遂げてくださる、今日もあなたにとってのベストを備えようとあなたが帰ってくる、求めるのを待っておられるのです。

 

そんな保障がどこにあるのか?御子イエス様をあなたの命の身代わりとされました。

その命という代価をもってあなたは神様のものとされた、そこにあります。私たちはこの新しい命、イエス様にあって書き続けていただこう。神様の御心を、最善を。

 

「ダビデによる

悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。悪者どもは剣を抜き、弓を張った。悩む者、貧しい者を打ち倒し、行ないの正しい者を切り殺すために。彼らの剣はおのれの心臓を貫き、彼らの弓は折られよう。ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる。」

詩篇37篇1-20節

 

まあ世の中を見回していますと、色んな問題がある。もちろん私自身が問題を起こさない、とは言いませんが、それも含めて。腹をたてたくなることもあるし、周りがうまくいっていると嫉みの気持ちも出てくる。そうしたものでごちゃ混ぜになって。その根底には、悪いことを行う人も含めて、何か不安に支配されているのではないか、何かを恐れているのではないか、と思う。しかしそんな何か分からないものに支配される人生、いのちなんてもったいないじゃないですか。神様は私たちをご自身の似姿に似せて創られ、ご自身の霊を吹き込まれ、最高傑作にあなたを造られたんですよ?すべての良いものを与えてくださった。それこそ御子イエス様のいのちをあなたの身代わりにしてでも救わんとされるほどに。この神様に期待してみませんか?あなたの造り主、父なる神様はどんな時もその思いをあなたに向け、いのちあるもの、息たものとしてくだろうと導かれる、働かれているから。

 

ということで、↑は紀元前に生きていた様々な人がうたった詩、それをまとめた詩篇になりますが、この37篇は、表題にある通り古代イスラエル王国2代目の王、ダビデがうたったものになります。この詩がうたわれたのは37篇の後編を見る限り、「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る」とあるので、ダビデの晩年、年老いたころにこれまでの生涯を振り返りながらうたったもののようです。ただ、この詩篇はとても長いので今日と明日の2回に分けてみたいと思います。

 

それでまずこの前半、悪者が栄えている現実を憂いながら「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行なう者は断ち切られる」とうたいます。

 

まあこれを読んでいて思うのは、逆にいつも正しいことを行う人はいないな、と思う。私もです。誰しもが間違いを犯すし、人から見たらそれはダメでしょ、という事をする人もいる。自分の考えでは正しいから、と押し通す、神様はそれはダメだよ、という事でも、自分の義、考えに合わせ、神様を否定し、自分を押し通す。自分と違う考え方の人に対しては結構な言葉を投げかけたり、思いっきり否定する…。聖書でも、義人はいない、一人もいない、といいます。このことばを語っているダビデだって、これまでの詩篇の分かち合いで見たように、とんでもないことをしてきましたよね。不倫の果ての隠蔽殺人、高慢になって自信を誇るための人口調査、それによって民に疫病が及び多くの民が死ぬ…。命がけで得た奥さんがいるのにその人を含め8人の奥さんをもつ…。もちろん信仰的な歩みをしてきたことも多くありますが、一方で人間的というか、結構な失敗をしている。明らかに悪と言えるものも。死の間際には、自分の息子を手にかけた将軍についての処遇も出したり。

 

ある意味ではどの口が言っているの?と言いたくなるところ。でも、だからしょうがないよね、好きに生きればいいんだよ、ではすまないのです。だからこそ、私たちは神様に従い生きる、そのことが必要なんです。それをまさにここでダビデはうたっているわけですね。罪を行ったら愛がない、ありのままでいいんだよ、なんてとんでもない話で、むしろ罪の内に留まらせる方が問題では?もっと言うなら神様に変えていただいた先に待っている喜びを考えれば、なお罪、悪の内に留まるべきではありませんね。

 

ダビデは、「草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」ようなものにいちいち腹をたてたり、そんなことで成功しているかのように見える、いやサタンが見せているものにうらやんで、妬んでも自分自身も倒れてしまう、枯れてしまうじゃないか、というのです。実際ダビデの不倫の果ての隠蔽殺人に至っては、一年以上、魂が抜けた、骨が枯れたような状況になりましたし、家庭もぐちゃぐちゃになりました(アブシャロムのクーデターのきっかけなど)。他にも、怒りに支配されて罪を犯すことに神様は警告をしていますし、その前に和解しようよ、とも勧めています。結局そうしたところにサタンが働く機会を与えてしまうわけです。先日エペソ人への手紙の分かち合いの中で見ました通りです。何かされて怒りなどに支配されて神様から与えられているいのち、日々を傷つける、失うなんてもったいないですよね。

 

その上でダビデは「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行なう者は断ち切られる」ととても大切なことを訴えています。

 

だからこそ、なんです。だからこそ神様に信頼し、「神様の善」が成ることに信頼する。箴言に見たような、自分の悟りに頼って諦めるのではなく、神様に信頼する。神様が全を成し遂げてくださるのです。じゃあ善を行う、とはどういうことなのか。善行といわれること?いやもっとシンプルで、でも難しいことなのかもしれない。それは、「怒りやねたみ」の反対、「愛する」ことです。神様はかねてからあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と仰られています。その隣人は、あなたの苦手な人も含めてです。怒りやそうした感情で支配されてその人と接するのではなく、それでも諦めずに愛する事、その中に神様の善が現わされるのです。私もそのことをこれを書いた前日に体験しました。本当に合わない、絶対にこの人は無理、と思える関係だった方がある日ついに、アドバイスをくれるようになって、それが終わった後、2人でガッツポーズをかわすほどにともに喜びました。その仕事によってかかわった人も悲しみから喜びに変えられた姿も見ました。もし、この方の協力が無かったらそんなことはなかっただろうな、と思う。

 

愛することは難しくても祈る、話を聞く、それだけでも、いつか何でこの人は折れないんだろう、良くしてくれるんだろう、そんな思いが生まれて変えられてくる日が来る、そう思わされました。善を行うのは神様、その神様の善を期待して、私たちは神様が仰られたように愛する、後は主に委ねる、信頼するわけです。地、たとえ思い悩ますところにあろうとも、そこに住みながら、誠実に生きる、ある意味では当たり前のことなのかもしれませんが、その当たり前の中に神様の善が現わされて、神様を喜ぶ、神様の善を待ち望むあなたの思いにこたえる神様が最善を成し遂げ、人や世の義ではない、神様の義が真昼のように輝く、義の太陽が昇るのです。その光を浴びる、仰ぎ見る日が来るのです。これを待ち望みますか?私たちは神様を断ち切る道、神様に断ち切られる道を進むのではなく、この神様を待ち望み、また遜ろう。その先に神様が引き上げてくださる善を待ち望もうではありませんか。

 

なおダビデは「ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。悪者どもは剣を抜き、弓を張った。悩む者、貧しい者を打ち倒し、行ないの正しい者を切り殺すために。彼らの剣はおのれの心臓を貫き、彼らの弓は折られよう。ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。なぜなら、悪者の腕は折られるが、主は正しい者をささえられるからだ。主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる」とうたいます。神様が取り除いて下さる約束をダビデは体験的に老年になって見、また貧しい人、神様に遜るものが神様の地を受け継ぐ、その恵みを知ったわけですね。豊かな繁栄を神様がもたらして下さったそのいのちを。

 

どんなに敵、悪が挑んでこようとも彼らは神様の前に歯ぎしりするしかない。神様は笑い、私たちに笑みをもたらして下さる。神様が味方なら私たちは誰を恐れる必要があるだろう。神様が笑わせて下さる日を望まずして何を望みましょう。神様は神様を待ち望む者を確かに支えておられる、老年になっても、若くてもいつでも。

 

神様はそのように私たちを救う、その愛を現すべく、いや神様から離れ好き勝手に生きる私たちに怒りを注ぐのではなく、愛するゆえに、その怒りを御子イエス様の上に注がれました。あの十字架の上に。私たちの罪を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架け、その怒りをイエス様の上に注ぎ、罰し、死なせたのです。そうしてでもあなたを愛することを選ばれ、善を行われた。そのさきにある、復活の先にある、このイエス様を受入れる人の内に与えられる善、ご計画、御心はいかばかりか。今日私たちはこの神様をどこまでも待ち望もう。この神様の愛に生かされ、支えられ、歩もうではありませんか。イエス様のいのちにあって買い戻されたこのいのち、そこに注がれる神様の善、御心を喜び期待して。

 

詩篇37:3 「主に信頼して善を行え」

 

    
元気とは、生きることへの意欲である。
ー三浦綾子ー

 

生きる意欲はどこから来るのでしょうか?

自分では限界があります。

 

しかし供給源がある、いるのです。

神様はあなたに生きる元気を与えるいける神様です。生きている方しか生きる元気、意欲は与えられません。

 

神様は、あなたが生きてほしい、だから、あなたのために上から見ているだけではなく、むしろ人となって生まれてこられ、あなたのくびきを背負い、癒し、あなたのために命さえ惜しまず与えられたのです。

 

このイエス様の命にあってあなたは今行かされていることを忘れてはいけません。このイエス様が日々、あなたが振り向き立ち返ることを待っておられるのです。元気を、生きる意欲を与えるために、いつでも。元気がないなら、いつでもイエス様を見上げよう。イエス様が元気、生きる勇気、生きる意味を、意欲を与えてくださるから。

 

 

 

    

幸せの一つの扉が閉じると、別の扉が開く。しかし私達は、閉ざされた扉をいつまでも見ているために、せっかく開かれた扉の方が目に入らないのです。

ーヘレン・ケラー(幼いころの高熱で視力、聴力を失う)ー

 

 

聖書には、「求め続けなさい。そうすれば与えられます。捜し続けなさい。そうすれば見出します。叩き続けなさい。そうすれば開かれます」とありますが、この御言葉を思い出させられます。

 

扉を開いたのは私たちではなく神様。イエス様の命をもって、閉ざされていた、断絶された関係を回復させてくださったのです。このイエス様の命と言うカギによって私たちは神様から豊かな命をいただく、導かれ続けるのです。

 

この扉は狭く見えても、間違いなく天に繋がっていて、神様がそこにいます。

あなたと一緒に歩くのはイエス様です。聖霊様が力づけてくださります。

 

あなたの扉そのものよりも、誰が明けて導かれているのか、これを忘れないでいようではありませんか。

 

 

    

痛みを感じるのは生きているから

悩みがあるのは生きているから

傷つくのは生きているから

私は今かなり生きているぞ

 

星野富弘さんは、かつては優秀な体育教師でした。でも、授業中の事故によって、首から下が完全に不随になってしまったのです。そんな彼は生きている意味など見出せませんでした。

 

しかし、ある日神様と出会い、生きる意味を知ったのです。私たちが神様によって造られ愛されている、今神様の御手が共にある、何より、御子イエス様が自分の身代わりに死なれたことによって、自分が救われた、今このイエス様の命にあって生かされている事を知ったから。

 

私たちはイエス様によって生かされています。あなたは生きています。イエス様が一緒。

この事をどうか忘れないでください<(_ _)>

あなたは神様に愛されています。

 

試練は誰にでもありますが、私たちには希望があります。
何でそう言い切れるのかって?
 
イエス様がサタンから誘惑を受けるという試練があったときでさえ、御使いがそばで支えるよう、神様は遣わしたし、すべての私たちが合う試練にイエス様も合われ、打ち勝たれたから。
 
神様は、私たちの耐える限度を越えた試みにあわせられることはないので、すべての希望が失われたかに見えるちょうどそのとき、御手を伸べて私たちを解放してくださいます。なぜなら、試みにはそれに打ち勝つ力を、試練には逃れ道を、共に与えてくださるからです。そこで、私たちの悩みは、神にとっては、私たちを喜びにひたらせる機会にすぎないのです。
 
ねずみが巣を作っている屋根裏部屋に寝かせられた幼い女の子は、恐ろしくてたまらず、「イエス様、どうぞねずみを追い払ってください」と、主にお願いしました。
お祈りが終わるや否や、一匹の猫が扉の隙間から忍び込んで、たちまちねずみを部屋の外に追い出してしまいました。
単なる偶然とおっしゃるのですか。とんでもない。
 
子供の祈りにこたえられるとき、神様に「偶然」はありません。神様は、猫も、ねずみも、王たちも、支配者たちをも、支配しておられるので、そのご命令にはみんな服従するのです。
 
あなたの生活に、もしねずみが巣を作っているのなら、神はまた適当な猫を送ってそれを追い払ってくださることでしょう。
 
クリスチャンの身に起こることは、何事でも目的があってのことです。
「すべてのこと」を働かせて益となるのです。「すべてのこと」がです。
 
ねずみが私たちを悩ますのを、神様が時として許されるのは、神様の送りたもう「猫」を私たちが感謝することができるように、とのみこころなのです。女の子の屋根裏部屋には、ねずみの通る穴がありましたが、同時に扉があって、そこから猫が入りました。深い悲しみのあとに、時として大きな喜びがもたらされます。
 
1.ヤコブは石を枕として神を見た。 (創世記28:18)
2.モーセは砂漠にあって任務を与えられた。 (出エジプト記3:1~4)
3.ダビデは巨人に嘲笑させて勝利を得た。 (Ⅰサムエル17章)
4.ヨセフは落とし穴を通ってエジプトの宰相の位についた。(創世記37章)
5.パウロは、「とげ」のおかげで忍耐を知った。 (Ⅱコリント12:7)
6.ヨハネは、島流しの身で、パラダイスを見た。 (黙示録1:9)
7.ステパノは雨と降る石の下で、イエス様を見た。 (使徒7章)
8.イエス様は苦しみを通って、全きものとなられた。 (ヘブル2:10)
 
 M・R・デハーン
 
 

 

教会ってキリストのからだ、イエス様のからだ。そこに私たちは繋げていただける、そこでいのちをいただける、なんと幸いなこと。建物そのものが教会なのではなく、この真実なる方に繋がり、その真実なる愛、御力、何よりそこに働く聖霊様に私たちは生かされているわけです。

 

私たちは紛い物や混ぜ物、偽物をそこに持ち込むのではなく、イエス様がいのちがけで私たちを招き入れてくださった本物の愛、命に生きたいものですね。

 

という事で今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よければ聴いて下さいm(__)m

 

Ⅰヨハネの手紙2章20節

「教会に正しい教理と真実を!」

 

 

聖霊の油注ぎと知識 1ヨハネ2:20