とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

ある牧師婦人さんと娘さんの話です。

 

その中学2年生娘さんがある日、登校拒否になりました。それは、数学・理科ができなくなったことが一つのきっかけだったそうです。数学・理科ができなくなって、それで言葉に表せない不安に襲われ、自信をなくしたのです。

 

ある日、その子が言いました。

「ママ、今日、私と一緒に寝てくれない?そして、ママ、私をしっかり抱きしめてくれない?」

「中学2年生にもなって、どうしたの。なんだか気持ち悪いわ。」

 

そうお母さんは思ったそうですが、娘の悩みに気づいていたので、まだ小さかった時のように、しっかりと一晩中、その子を抱きしめていたそうです。

 

そのことが実は、その子の立ち直りのきっかけになった、と25歳になったその娘さんが言いました。そして、それとともにお母さんとの関係が言っときちょっと離れた状態だったそうですが、再び緊密になって、それ以来ずっと今に至るまで、深い繋がりの中で、母と娘が生きているそうです。

 

良く愛された人が、やがて自分を愛する事ができるのです。十分に愛された人が、豊かに隣人を愛する事ができるのです。本当に行き詰った苦しみの中で、どうしてその子がそういう風な形で、お母さんに求めたかといえば、子供のころ、十分に抱いてもらっていたからです。散々お母さんに抱きしめられた、その安心感、平安を知っていたからです。お母さんの懐にある、心の平安をその子は知っていたのです。だから、中学2年生になって、行き詰まり、自信を失いかけ、平安で仕方なくなった時、本能的に回復の場所を知っていたのではないでしょうか。実存の深い安心と、生きる元気とが、勇気を取り戻す場所を、彼女は知っていたのです。

 

あなたも誰かの居場所になれるし、あなたにも居場所がある、帰れる場所があるのです。お母さんたちだけじゃなくても、神様が必ずそのような方と邂逅させてくださる、誰かを神様は遣わしてくださるから。何より神様自身があなたの平安、居場所となるためにあなたと邂逅、出会わせてくださる。あなたに平安と回復、勇気を与えるためにいつでも待っています。私たちはこの平安の中、↑の親子のような密な、愛に満ち溢れた中に生かされ歩もうではありませんか。

 

これはある幼稚園の先生と、ある障がいをもった女の子Yちゃんの話です。

 

1円玉、5円玉、10円玉、50円玉、100円玉、500円玉、

このコインについてYちゃんに先生は教えに教えました。

 

卒園式の日、先生は質問しました。

「一番大事なのは、この6つの中のどれ?」

Yちゃんは10円玉を取り出しました。

先生は、失望しました。

もう一度教え、もう一度質問しました。

やっぱり彼女は10円玉を取りました。

 

Yちゃんはこう言いました。

 

    
「だって、赤電話に入れたら、お父さんの声が聞けるもん」

 

 

(※この話はピンクの電話?が全盛期の時代の話なので)

 

物ごとの価値、世の中から見たらコインだったら普通500円玉が最も大事と考えますよね(お札なら1万円札ですか)。大人の発想ならなら、じゃあ500円玉を10円玉に崩せばいい、とおもうかもしれない。でも、彼女にとっては、お金の価値以上に、お父さんとの関係が大事だったのです。

 

人の出会いは、家族もそうですが神様が出会わせてくださる。それがどれだけ素敵なことか。あなたが与えられている、おかれている場所に神様の御心がなることを祈りたいものです。

 

何より、私たちはイエス様の十字架・いのちというコインによっていつでも神様に祈れるんです。神様とつながれるのです。この神様との出会いを大切にし、この中を生きようではありませんか。もっとお父ちゃん、神様に祈り求めようではありませんか。神様はイエス様の命にあってあなたにお父ちゃん、と呼ばせてくださる、神様の家族へと迎え入れてくださったのだから。

 

 

 

 

 

「指揮者のために。エドトンによって。ダビデの賛歌

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。セラ 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。」

詩篇62篇1-12節

 

私もそうなのですが、人はなかなか黙って待つ、というのが難しいんです。早く何とかしてほしい、とか、自分の思っているのとは違うから、もっとこうしてほしい、と口を出す。まあいずれも気持ちは分かります。だから私も苦手なんです。まあ他の人のやり方、考え方が気にくわないから、と自分の考えを黙っていられず押し付ける、なんてこともありますけどね。でも、時に私たちは待つ、という事も必要です。私たちのその考え(アドバイスと称して自分の意見をただ押し付け自分の思うようにしたい、という事も含め)が正しいとは限らないし、あなたの背後で働かれている方がいるという事を忘れてはいけません。そう、神様。すべてのことを働かせて益としてくださる神様がいる。私たちの手ではどうにもならない事、納得できないことも、神様が正しい方向に変えてくださる、導いて下さる。あなたを愛するゆえに御子イエス様のいのちを身代わりに差し出し死なせる、身代わりにすることさえできるほどの方が。この神様があなたに心を留めておられることをどうか忘れないでください。神様はあなたが帰ってくるのを待っておられる。あなたはこの神様を今日、呼び求めていますか?

 

ということで紀元前に生きていた様々な人がうたった詩、それぞれが色んなことを体験し、また通りながらその中に働かれていた神様、出会った神様によって知らされたこと、思わされたことなどをうたったし、それをまとめた詩篇の62篇を見ていきたいと思います。なお、この詩篇も表題にある通りダビデが歌ったものになります。エドトンはそのダビデの聖歌隊の一人と言いますか、指導者の一人になります。

 

この詩篇の背景については表題に細かく書いていないのでいつうたわれたものなのか厳密にははっきりしません。ただ、詩の内容から察するに、ダビデの息子アブシャロムがクーデターを起こし、ダビデが国から追放、さらにいのちを彼に狙われていた時のものではないか、と思われます。そこに、以前の詩篇で紹介したアヒトフェルという元ダビデの議官が裏切り(まあ正確にはダビデの不倫したバテシェバの関係者だったからついて行け亡くなったか、裏切ったか、色んなことが理由として考えられますが)、どうやったらこのダビデを殺害できるか、それを議論していたわけですね。そんなダビデのことを知りつくしたアヒトフェルと息子アブシャロム、これに追い詰められているダビデの詩。

 

そのダビデは今、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。セラ」と祈り、うたいます。

 

ダビデは今、愛するわが子アブシャロムから命を狙われるという青天の霹靂、信頼していたアヒトフェルまでアブシャロム側につくという、絶体絶命状態。アヒトフェルの頭脳は相当高く、ダビデ自身も何度も助けられてきました。ある意味ではダビデのことを知りつくしていると言ってもいいのかもしれません。そう考えるともう自分には勝ち目がない、そう考えたくなるところでしょう。彼らは今、ダビデを殺すため、襲うための議論をしている。会議をしている。自分が王になりたいアブシャロム、ダビデへのある意味では復讐、そして自身の地位を願うアヒトフェル、その権力に自分たちの安泰を求める兵士たち。ん?どこかで見たことがあるような構図な気もしますが、まあどこの国でも時代でも本当に変わらない。

 

でも、議論すべきは人を打ち破ったりすること、論破する事よりも、よりよい「神様の御心はどこにあるのか」それを共に祈り、考え、実行する、自分のお心や利益をもたらすかどうかを考える、それをもたらすものにたなびくのではなく、本当に益をもたらす神様、ここに私たちは心を向ける必要があるのではないか、とこの詩を読んで思います。

 

むしろ神様は私たちを救うための計画を練ってくださっている、その愛を考え、計画し、実行してくださっている。神様は良い計画をもっておられる、ある意味ではその話し合い(話し合いという形で神様がしているのかは不明ですが)、そこにダビデ自身が加わり、話を聞く、それが彼のこのことばに洗われているのではないか、と思うのです。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない」という。今、神様が助けに来ようとしてくださっている、自分では納得できないから自分の息子と戦う、とか、アヒトフェルに復讐する、とかではなく、神様の時、救いを、自分が計画、思うよりもはるかに高い神様の御心の到来、救いの時を待ち望むのです。↑の前の詩篇で分かち合いましたように、私たちは神様の創られた世界に住まわせていただいている、神様が王である世界に住まわせていただいている、神様がつくられ、与えて下さった命に今私は生かされているんだ、だからこの神様に信頼しよう、と。まさにだからこの神様こそ救いの今、やぐら、この本体の神様が揺るがされることがないんだから、私も大丈夫、と。

 

このアブシャロムのクーデターの遠因に、先に挙げたダビデの不倫の果ての隠蔽殺人もないわけではありません。だから本来その罪ゆえに彼は裁かれる、そういう事を神様からされてもおかしくない、でもダビデはそれでも神様の御手に委ねながら、神様のご計画を待ち望むのです。ある意味では自身の回復、罪からの解放、もう一度神様の御もとに連れ戻してほしい、正しい関係に回復させてほしい、という意味も含めた「待ち望む」という言葉なのかもしれません。その神様は確かにダビデを覚え、救い出そうと導き、やがてアブシャロムはダビデの将軍ヨアブによって討たれ(まあヨアブもアブシャロムに対する復讐心があった事は否定できませんが、ダビデが彼に手をかけてはいけないということばを聞かず殺害)、ダビデは国に帰ることが赦され、後には神殿建設の準備にも携わっていきます。確かに彼の心はこの旅の間を通して神様によって回復されていった。ただアブシャロムから救い出すだけではなく。

 

人は自分が思う通りに行かないと、納得がいかないと、色んなはかりごとをする、計画する。まあ気持ちは分からないこともないこともありますが、しかしダビデの息子ソロモンが「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。…人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」と箴言に残したように、どんなに人があれこれ計画しても神様のはかりごとだけが成る、いつかは失われ崩れるような計画、また世の流れではなく、神様の御心を求めよう、と。だから、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」とも語っていたように、私たちは私たちの道をまっすぐにされる神様を認め、遜る、黙ってより頼む、自分の願望や悟りではなく、神様の御心に委ねたいものですね。

 

神様はダビデよりのちの時代、預言者エレミヤを通して、罪にまみれてしまいバビロンに捕囚されていくイスラエルの民に向け「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。―主の御告げ―わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。―主の御告げ―わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる」と語られていましたね。神様は災いではない、平安を与える計画、将来と希望を与える計画をもっておられる。この神様を呼び求め歩き祈るなら聞かれ、探し求めるなら見つけ、見い出す、そして神様がその繁栄を元どおりにされる。何と希望に満ちた神様、その神様が今働かれている、その計画をもっておられるなんてなんと感謝なことでしょう。

 

私たちは神様に何をやってるんだ、何もしないというなら私は黙っていられない、あれを使用、これをしよう、別な自分に利益をもたらす「と思われる」者に委ねてみよう、やってみよう、あの本に書いてあること、この人が言っている事をしんじてやってみよう、と言動的に、行動的に黙ることができないことがあります。しかし、私たちはこの神様に見捨てられてもおかしくないダビデや、イスラエルの民、その彼らにさえ憐れまれ、救わんとされた神様の計画を、あなたにももっておられるという事を忘れてはいけません。

 

いや、むしろそんな私たちを救うためになら、御子イエス様に私たちの罪の代償・死を御子イエス様に背負わせ、その呪いも思い煩いも一切背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせた、そのことをもう一度覚えよう。この方が私たちを救う計画を実行するために、御子イエス様を身代わりに罰し、死なせた。そこまでしてでもあなたを救おうとされる計画をもち、実行されたのです。そこまでされた神様があなたに持っておられる計画は一体どれだけ素晴らしいか、深く高く、広いこの計画に何が勝る事ができるでしょう。この愛に何が勝る事ができるでしょう。世がどんなに計画を重ねようと、この神様の計画に勝る事はできない、神様の御心、御力に勝ることなどできない。これを奪い去ることはできない。それなのに、これにNoを突き付けてどうしましょう。

 

私たちはダビデのごとく、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある」と告白しよう。もちろん何もするな、というわけではありません。昨日エペソ人への手紙の分かち合いの中で見ましたように、神様の武具を取り、正しい武具を身に着ける、神様の大能の力に満たされ、語るべき言葉、みことばの剣をしっかりとって世の悔い改めのため、救いのため、平和のため歩きたいものですね、祈りと共に。そしてこの神様の御心を待ち望もう。ダビデが「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」と民にこれを呼び掛けるように、神様の御心を語り、また励まし合えれば幸いですね。そうして全地が神様の愛にあって回復していく事を願い。「私(たち)の救いと、私(たち)の栄光は、神にかかっている」、あなたはこれを信じていますか?

 

「まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます」とダビデはこの詩の最後に歌っています。しかし私たちはこのイエス様の十字架、究極の愛、ご計画の御前に悔い改める、ひれ伏すとき、私たちは神様の子とされる。これ以上の身分と言いますか、特権はありませんね。世的には低くされるように見える、でもそこに働かれている神様の大能の力が今日覆っている。もう虚しいものに心とらえられ、追い求めるのではなく、神様にある富、素晴らしさをどこまでも求めよう。神様が報いてくださるその最高の計画を信じ待ち望み、祈り続けよう、仕え歩もうではありませんか。

 

夕日と聖書の一節

平和、それは誰しもが求めるものでしょう。

この平和について、マザー・テレサも愛したアッシジのフランチェスコ氏はこんな詩を残しました。

 

    

私は、平和をつくる神さまの道具となりたいのです。
憎しみのあるところに愛を
罪のあるところに赦しを
争いのあるところに一致を
誤りのあるところに真理を
疑いのあるところに信仰を
絶望のあるところに希望を
やみのあるところに光を
悲しみのあるところには喜びを
慰められるよりも慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりは 愛することを

 

私達は弱くてもいい、でもその弱さのうちに神様が完全に働かれるのですから。

だからこそ、私たちはこの神様をいつも呼び求めようではありませんか。

本物のピースメーカーは、私たちではなく、神様だということを忘れてはいけません。

 

 

    

「過去」にかき乱されてはなりません。

過去の全ては、聖なるみ心にお預けなさい。

そして再び、喜びをもって始めるのです。

ーマザー・テレサー

私たちの人生のゆく手を阻むものは、必ずしもこれから起こることだけとは限りません。しばしば、私たちの“過去”が、あなたの足を引っ張り、「また起こるのでは」と心を不安にし、かき乱して、あなたが前に進むことを妨げるのです。

 

過去を清算し、新たな心で前に進むのは、人間の力ではできません。それには、私たちの「過去」をもご支配なさり、過去をも用いて益と変えてくださるお方の力がマストなのです。マザーは、「あなたの過去を、丸ごと大いなるお方のみ心の中に置き、ささげなさい」と勧めます。彼女はそれを思慮深く“聖なるみ心”(聖心 Sacred heartセイクレッド・ハート)と呼びました。この言葉で、カトリックの彼女の心に最初に浮かぶのは、イエスの母マリアかもしれません。私たちには、父なる神であり、み子イエス・キリストであり、内なる聖霊です。ともかく私たちに必要なのは、人間の力を超えた、聖く大いなるお方のみ心に、一切を委ねてしまうことです。それは、「過去」という名の思い煩いからの「解放」を意味します。私の過去のレットゴーです!

 

そこから、あなたの、喜びと感謝にあふれた人生が、再スタートします。勇気をもって踏み出すお一人お一人の上に、神様の祝福がありますように―。

 

Do not let the past disturb you – Just leave everything in the sacred heart, and begin again with joy.

 

 

私達はどうも感情的になったりする。

人の目を気にしたり、自分の常識で考える。でも…

私たちの目から神様の目に視点を変えていただこう…

 

    
イエス様の目という真実の目で10秒間眺めるだけで、あなたの人生は変わることができる。

 

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」

エペソ人への手紙6章10-20節

 

私たちのからだって、一つなんですよね。どこかがばらばらになっているわけではなく、神様は一つのからだを与えてくださった。そのからだ全体に神様の愛が込められている。ある所は適当だった、とか、どうでもいいものとして創られたわけではなく、最高傑作として創られた、まさに神様の愛は今日私たちを覆っている。あなたのある部分は木にかけない、ではなくあなたの全てを、それこそ霊に至るまで。神様の愛、御力、その全てで。御子イエス様のいのちをもってでもあなたを神様の全ての良いもので覆いたい。あなたはこの神様の全てで覆われることをどれだけ求めているだろうか。

 

ということで、↑はかつてイエス様を迫害し、そのイエス様を信じる弟子たちを迫害していた、そんな彼が復活のイエス様に出会い変えられ、聖霊様に導かれ、書いた手紙の中の一つ、エペソ人への手紙の続きになります。彼はただただまっすぐ福音、イエス様の愛、十字架と復活による罪の赦しと救いを語っていたのですが、彼を妬む宗教家たちの手により捕まり、無罪ではあったのですが、パウロはカイザル・皇帝ネロにもこの福音を語りたい、と上告し、今ローマの地で自宅軟禁状態になっています。しかしそれでも彼の希望は途切れることなく、神様からの助けや周りの助けに支えられながら今この手紙を書いています。

 

ここ数回、家族の話・夫婦、親子関係、仕事関係、人付き合いについて見てきましたが、結局のところその全ての鍵は「御霊様によって歩むことを、愛のうちに歩むこと、そして光の子どもらしく歩むこと」、ここにあることを見てきましたね。でもそれはある関係ではそうで、ある関係では関係ない、のではありません。またとはいってもうまくいかない、苦労も言う間も出もない、パウロ自身もそれを何度も実感しています。しかし、頑張るのは人なのではなく、神様、その神様の遣わされた聖霊様に助けられ、私たちは生きるのです。それは昨日分かち合いました詩篇でも見た通りです。

 

パウロはだから今、「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」と手紙に書き記します。結局のところは、この神様の大能の力によって私たちは強められ、「頑張る」のではなく、「生かされ、生きる」のです。昨日の詩篇の分かち合いでも見ましたが、私たちはこの天地万物を創られた神様の御手の中生きています。神様の創られた世界に置かれ、住まうことを赦され、神様の与えて下さった命を生きています。その神様の愛、大能の力の中に私たちは実は生かされている、支えられているのです。私たちがこの方の前に遜る時、この方の力強い御心、御力の御前にひれ伏すとき、その弱さの内に神様が完全に働かれる、神様の力強い御手によって力強い御業がそこに成される。自分が頑張って頑張って頑張りぬくことが信仰的なのではない、このまことの神様の力強い御心に委ねる、遜る事、それが大事なのです。私たちはこれが抜けてしまう。

 

この手紙の中で様々な関係について見てきましたが、結局私たちのかしらはイエス様。そのイエス様を外してはその力強い柱がなくなり、ただ崩れるだけです。しかし、この力強い大能の力、主の御力がそこを支えているなら、働かれているなら、そこは素晴らしい場所になる、変えられるのです。神様のやり方は気にくわない、と自分流のやり方を押し通す人もいますが、それ、自分の力の範囲でしか何もできず、最後は崩れるだけ。そんなに私たちの、あなたの計画、お心は神様よりも正しく、強いとでもいうのですか?それで他の人を巻き込んで壊しちゃだめですよ。

 

パウロは「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」と言いますが、自分の武具、考える最強と思う武具を取るように、とはパウロは言わない。神様が働かれる前に自分で武具を取って、とは言わない。ダビデがゴリヤテと戦った時も、サウルから勧められた武具を取ることなく、ただ神様から示されたスリングショット(石投げ、パチンコ)だけで戦い、勝利を治めました。

 

ダビデがその時言っていたのは、「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます」と、まだサウルから鎧などを受ける前から告白していたのです。神様が救い出して下さる、戦われるんだ、と。サウルから鎧などをもらっても、「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです」と、慣れないものを着て慣れない歩みをしても何も勝ち取れない。ただいつもの通り神様が一緒、神様が戦ってくださる、と信じて勝利を治めたのです。この神様の御名によって私は覆われ、生きているんだ、勝利を勝ち取るんだ、と。

 

パウロはダビデの話ではありませんが、同じように今多くの問題、迫害、様々な問題が私たちに襲い掛かってきている、サタン、罪、世の思想、そうして本来神様が覆ってくださっているはずの私たちを別な姿に変えようとしてくる。死へと向かわせて来る。だから、「では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」と、間違った武具を戦いを間違えず、ないがしろにするわけでもなく、これを取るように勧めるのです。あなたは間違った武具を取っていませんか?神様なんて別にいなくても大丈夫、と言って自分の好みの武具を取っていませんか?もしくは自分の気にくわないものに対する間違った武器を取っていませんか?

 

腰には真理の帯、と言いますが、当時の男性の服は足のところまですそが来る、長い衣を身にまとっていました。ただ、仕事をしたり戦いに出るような活動をするときは、帯でそのすそを引き上げて動き回ることができるようにします。その帯に真理の帯、神様の真理を結ぶように。真理というのは例外なく絶対その通り、という事です。つまり裏を返すと何か場合によって変わったり時代によって変わる者、相手によって変わるような真理とは言えない真理ではなく、むしろ私たちを自由にする真理なるイエス様によって私たちの衣類をしっかり留めよう、と。あなたは何の帯を締めて動いていますか?それで本当に動けますか?

 

胸には正義の胸当て、自分が正しいと考える義、それを正義としていると、それではどうにもならないことが襲い掛かれば対処できません。それでも自分が正しいと言い張って何かを失うのではなく、神様の義、正しさに生きる時、神様の義が、正しさが私たちを覆い守られる。むしろ自分の義が絶対と押し付けたり、ほらこれを着なよと押し付けて着せる、これも怖いですね。そのことに責任なんて持てない。でも神様はご自身の正しさに対して責任を持ち、また果たして下さる。何より神様の義ゆえに、私たちを罪故に滅ぼすどころか、むしろ御子イエス様を盾と言いますか、鎧・胸当てとしてその全てを受けてくださった、そして私たちの身代わりに死なれた。そこまでしてでもあなたの身を守ってくださる神様がおられる、この方の愛が私たちの胸を守り、覆ってくださっているわけです。

 

この愛を信じて胸に刻み、まあこれは私の勝手な解釈かもしれませんが、よく自分のポリシーみたいなのが書かれたシャツを着る人がいるでしょう?あの感覚に近いかもしれませんが、イエス様によって救われているんだ、この方に愛されているんだ、そのことを胸を張るように喜び歩む、その中に神様の素晴らしい福音、平和と和解、そこに神様の平和が広がっていく、その足取りとなっていくのではないでしょうか。

 

信仰の大楯、ふにゃふにゃな盾でも、もしくは別に神様なんていなくても大丈夫、と盾を取らずにいるなら、何かあった時、私たちを揺さぶるサタンのことば、疑わせる、世の状況を見せたりしてくるその誘い、世の苦しみなどから神様から引き離そうとするその言葉から守ることはできない。しかしイエス様がいのちをもって救ってくださった、この救い主がいる、この方に不可能なことはないんだ、という信仰があるなら、どんな困難な問題が襲ってきても、いやそれはイエス様には無理だ、と別な方法に進んだり、道に進んで、神様の勝利ではなく敗北をつかむことはないでしょう。

 

だから、私たちの頭に救いの兜、御言葉で、その愛でいっぱいに満たしていただき、イエス様のみことばの剣をしっかりとろう。他の剣を取って誰かを傷つけたり、戦うのではなく、イエス様の御ことばに力がある、癒しがある、全てを変える力がある、道を開くんだ、とこれを取るのです。

 

とはいえ、全ての人が完璧なわけではないですし、そんなに強くない。だから私たちはパウロが勧めるように祈るのです。祈って祈って祈って祈って祈って、主に委ねる。他のものに囚われることがないよう、他の武具を取って主の道から外れることがないよう、いのちの道を、イエス様の勝利の道を歩めるように。あなたの大切ないのちが奪い取られることがない様に、むしろ神様の勝利で勝ち取られた最高のものとなるように。また他の人のため、祈れない人のため、戦い、苦しみの中にある人のためにも祈ろう。そうして神様の完全な、大能の力が覆い溢れ、いのちに満ち溢れ、また変えられていく事を信じ。あなたは今日このイエス様の命がけの愛によっておおわれ、守られ、その大能の力が覆っている。あなたはこれをどれだけ信じていますか?この方の武具、他の武具や一部だけ取るのではなく、全部をいただき、全部支えられ、生かされ歩もう。ある部分はいいや、ではなく、全部がその大能の力、愛に覆われ生きられるように、日々祈りながら。

 

神の武具を身に着ける兵士

 

    

「突然、全く予期しない出来事が、人生には幾度もある。雲の上には、いつも太陽が輝いている。けれども、ちょっと雲がかかっただけで。その雲が去ると太陽が再び輝くことを知っていれば、落ち着いて行動できる」
ー三浦綾子ー

 

 

空の上に太陽がどんなときにもあるように、神様はいつでもどんな時でもおられ、あなたの内に輝かせてくださる。だから私たちもこの神様に信頼しよう。神様が、あなたとともにおられる、御子イエス様の命を惜しまないほどにあなたを愛される神様が。このことを忘れず歩もう。

 

聖書に出てくるノア、彼は大洪水の後、

ぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。(旧約聖書 創世記9章21節)

 

「タルムード」には、このような話が出ている。

ノアがブドウの木を植えようとしたときに、サタンがやって来て、「何を植えているのですか?」と聞いた。ノアは「ブドウの木です」と答えた。サタンはかさねて「ブドウってどんな木ですか?」と尋ねた。ノアは「ブドウは果物で、たいへんに甘く、また適当な酸味も持っています。そしてこれを発酵させると、人間の心を喜ばせる酒というものができます」と言った。すると、サタンは、「そんなに良いものなら、私も手伝いましょう」と言ったので、ノアはサタンに感謝した。サタンは、羊、ライオン、豚、猿を連れてきてこれを殺し、その血を肥料とした。そのために、ノアが酒を飲むと、まず羊のように弱くなり、もう少し飲むとライオンのように強くなり、もっと飲むと、豚のように汚くなり、さらに飲むと、猿のように騒ぎまわった。神によってもっとも正しい人と呼ばれているノアでさえ、こういう状態になったのだから、もし普通の人間が飲んだら、どんなことになるか、わかるだろう。

 

ーユダヤの格言ー

 

まあ、サタンは自分をサタンとは名乗りませんが、

聖書の別の箇所では、酒に酔うのではなく、聖霊様に満たされるように、ともあります。

私たちは自分を何とか強くしようと何かを求めますが、聖霊様が私たちを強くしてくださる。

私たちはサタンに引っ張られるのではなく、命をかけて愛されたイエス様について以降ではありませんか。イエス様はいつも一緒。

 

私たちには友がいるでしょう。

でも、本当にリアルに友と呼べる人はどんな人でしょう。

 

↓の画像のことば、

 

    

「私を倒れたままにされないただ一人の方に、わたしは信頼を置く。それは、神の御子イエスキリスト様です。」

 

これ、とても大事です。イエス様は裏切る弟子たちを前にしてさえ、彼らをしもべとは呼ばず、友と呼ばれ、その友のために命を捨てる、と明言され、実行されました。

イエス様は実行の神様です。リアルです。

私たちはこの神様に信頼を置き、歩もうではありませんか。