とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「十四日目の夜になって、私たちがアドリヤ海を漂っていると、真夜中ごろ、水夫たちは、どこかの陸地に近づいたように感じた。水の深さを測ってみると、四十メートルほどであることがわかった。少し進んでまた測ると、三十メートルほどであった。どこかで暗礁に乗り上げはしないかと心配して、ともから四つの錨を投げおろし、夜の明けるのを待った。ところが、水夫たちは船から逃げ出そうとして、へさきから錨を降ろすように見せかけて、小舟を海に降ろしていたので、パウロは百人隊長や兵士たちに、『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたも助かりません』と言った。そこで兵士たちは、小舟の綱を断ち切って、そのまま流れ去るのに任せた。ついに夜の明けかけたころ、パウロは、一同に食事をとることを勧めて、こう言った。『あなたがたは待ちに待って、きょうまで何も食べずに過ごして、十四日になります。ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。』こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝をささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで一同も元気づけられ、みなが食事をとった。船にいた私たちは全部で二百七十六人であった。十分食べてから、彼らは麦を海に投げ捨てて、船を軽くした。夜が明けると、どこの陸地かわからないが、砂浜のある入江が目に留まったので、できれば、そこに船を乗り入れようということになった。錨を切って海に捨て、同時にかじ綱を解き、風に前の帆を上げて、砂浜に向かって進んで行った。ところが、潮流の流れ合う浅瀬に乗り上げて、船を座礁させてしまった。へさきはめり込んで動かなくなり、ともは激しい波に打たれて破れ始めた。兵士たちは、囚人たちがだれも泳いで逃げないように、殺してしまおうと相談した。しかし百人隊長は、パウロをあくまでも助けようと思って、その計画を押さえ、泳げる者がまず海に飛び込んで陸に上がるように、それから残りの者は、板切れや、その他の、船にある物につかまって行くように命じた。こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった」

使徒の働き27章27-44節

 

いちかばちか、賭けに出る、これは本当にリスクが伴います。かけに出て成功すれば儲けもの、と言われるかもしれませんが、しかしそこには思考・思慮が欠ける上、巻き込む相手への責任も取れない、不安定。一時的にうまくいってもその先もまたかけの連続の道になりそうで、あまり良い未来が見えないですね。そう、保証する存在がいないから。しかし私たちを愛し救わんと御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった神様がいることを私たちは忘れていないだろうか?この方が賭けに出なければいけないような適当なことをされるだろうか。その程度の愛なら御子イエス様のいのちなど私たちのために与えなかったでしょう。適当なものを与えて終わったでしょう。しかしそこまでしてでも神様はただ一つの救いの道、神様が守られ導かれるその道へ導こうとされた。私たちは今この愛によって導かれている、支えられていることを覚え、この導きに従い歩もうではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、その愛を惜しむことなく現し、私たちの思い煩いや痛み、何よりこの罪の一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれ3日目によみがえられたことによって救いを与えてくださったその後、約束の新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生してしばらくしてのこと。このイエス様の十字架の愛、救いをすべての人に受け取ってほしいと、聖霊様がパウロを含む多くの人を遣わしていきました。彼らは多くの奇跡や救い、神様の驚くべきわざを見、体験しながらその働きを続けます、聖霊様の助けと導きのもと。

 

そんな中、パウロも3回の伝道旅行を終えエルサレムに帰ってきたのですが、彼をねたみ殺そうとする者の手によって捕まり、裁判にかけられます。総督たちは上訴しなければ無罪、という判断を下していたのですが、パウロは神様に導かれ、カイザル(ネロ)にイエスキリストを証すべく、上訴し、今ローマに向けた船旅の最中です。途中、時期的に危険なため一度航海を止めてしばらく待った方が良い、とパウロは聖霊様に導かれ勧めたのですが、船員たちの判断のもと、危険な嵐の中突き進み、身動きは取れなくなる、積み荷は降ろさなければならなくなる、↑の最後を見ればわかる通り座礁の危機まで迫っている、そんな状況になっていました。

 

パウロのローマへの船旅ルート

(この地図はパウロがローマに向かう船旅の様子)

 

そんな大ピンチの中、↑の前でパウロは「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます」と、彼は同じ船に乗る人たちに神様にある保証を訴えるのです。

 

確かに状況的には絶望的、↑を見てもわかる通り。しかし、この船を、彼らの行く道を導いておられるのは神様、神様の御心、ご計画の中にある、だから大丈夫なんだ、と。神様が仮に彼らの頼っていた船が失うことはあっても命を守るんだ、と。

 

でもそんなこと言ったって神様神様言って何になるんだ、と水夫たちはこの現状を見て逃げ出そうとしました。前も、自分たちの知識的に先を進んだ方が良い、と言いながらこうなったのに無責任。いちかばちか賭けに出た結果、自分の知識に頼った結果これ。しかしパウロは「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたも助かりません」と言い、その賭けとなる小舟の綱を断ち切らせ、神様の流れに身を委ねることにしたのです。

 

神様を信じることはいちかばちか賭けに出る事ではありません。確かな神様の守りなのです。パウロはこれを期待し、信じて、神様がいのちを失わせない、と約束されたのだから、と「あなたがたは待ちに待って、きょうまで何も食べずに過ごして、十四日になります。ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません」と言って、パンを取り、一同の前で神に感謝をささげてから、それを裂いて食べ始め、そこで一同も元気づけられ、みなが食事をとりました。常識的にはもうあきらめてもおかしくない状況、我先にと食料を奪い合うこともせず、神様が頭の髪一筋さえ心配されるほどに彼らを守っているんだ、だから次の一歩、神様が続けてくださるこのいのちのために食事をとろうと語ったわけです。

 

パウロは希望を持ちます。目の前の現実はこんなありえない状態。普通に考えたら沈没、髪一本どころか、みな助かるどころか276人中数名が良い所では?と思いたくなる、これは一種の賭けだ、と考えたくなる中で、彼はパンを割き、感謝を捧げた。彼は思い出したのです。イエス様が最後の晩餐の時にされたことを。イエス様がそのパンを割き彼らに与えたように、そしてそれを十字架上で体現され、彼、私たちのために御子イエス様が身代わりにその身を割かれ、血を流され死なれたことによって彼・私たちは今生かされている。この方の愛、御心によって生かされている、この方が約束されたのなら間違いない、これはいちかばちかの賭けではない、確かな神様の約束、導きなんだ、確かに今も生きておられる神様が彼の行く道、彼らの行く道を照らし、導いている、その確信に立ったのです。一縷の望みではない確かな希望に、希望的観測ではなく、確かな神様の約束に。

 

私たちは神様から与えられているこのいのち、御子イエス様のいのちにあって与えられたこのいのちをいちかばちかで考えていませんか?いちかばちか信じるか、とか、逆にそんなものにかけられない、と神様の仰る御心とは別の道を進もうとしていませんか?あの水夫のようにそこから別な船に乗り換えたり、↑で神様の約束を信じられず囚人逃亡を防ぐために殺そうとするなどした彼らのように。神様が無そうする計画を自分の経験や知識、恐れや不安、怒りや憤りなどで壊してはいけない。神様が打ち上げてくださる陸を目指そう。自分が逃げて、違う方向に向かって沈没したり何かを失うなんてもったいない。私たちは自分の持ち物をたとえ何か失おうとも、神様が与えてくださる命、恵みに生きよう。あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えて下さった、その神様が今日導かれるその道に希望を見出して。

 

パンに感謝するパウロ、使徒の働き27章

タイトル的にチャーリー・カーク氏の話、彼の賞賛の話に見えるかもしれませんが、そうではありませんのであしからず。

 

↓の動画について、配信者のしろくま先生のコメントをそのまま載せるのが一番かと思い、載せますね。

 

皆さんもすでにニュースで御存知だと思いますが、アメリカの保守団体「ターニング・ポイントUSA」代表のチャーリー・カーク氏が、9月10日、ユタ州の大学で講演中に銃で暗殺されました。チャーリー氏は熱心なクリスチャンで、その働きはまさに伝道者そのものでした。 

 

今日の箇所では律法学者パリサイ人たちはイエスが語られた教え、たとえ話(イエス様が羊の門番として私たち羊をその身を這って奪い取る者から守られるという)の意味が理解できなかったとあります。それは一体なぜなのか? そして、パリサイ人たちや今回チャーリー氏を暗殺した容疑者との共通点についても見ていきます。日本のすべての教会、牧師、クリスチャンたちがいま見失っていること、欠けていることをチャーリー・カークの信仰から学ぶべきです。

 

という事で今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よければ聴いてくださいm(__)m

 

ヨハネによる福音書10章6節

「チャーリー・カークの信仰に学ぶ」

 

 

羊の群れとイエスの言葉

私たちは色んなものに囲まれているから、

時に疲れ、座り込んでしまう事、もう乗り越えられない、そんなことだってあります。

 

↓の画像は本当に素晴らしいことばなのでシェア。

「悩みや疲れを乗り越える道があります。神様に会ってください。」

 

イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と仰られました。イエス様は遠く見ているだけではなく、すぐ傍に、同じ重荷を同じ人となって生まれてこられておってくださり、それを取り除き癒して下さるんですよね。会う云々の前にイエス様が会いにきてくださったわけです。死ななければ会えないとかそういう話ではなく、むしろどん底にまで降ってあなたを救いに来られた。命をかけてでも。あなたの身代わりに罪を痛みを、全部背負われ身代わりに罰せられ死なれてでも救いに来られたのです。

 

これを体験・実感したある詩人は「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる」と詩に残しました(ダビデ)。神様の愛はリアルで、同情するだけではなくそばにいて、さらに救い出されるのです。

 

またさまざまな迫害に苦しみながらも神様の助けを知り、またこれからバビロン捕囚が迫っている、その現実の中にあって預言者イザヤは「しかし主を待ち望む者は新しい力を得、鷲のように翼をかって上る。走っても疲れず、歩いても弱らない」と神様の預言をいただき、また体験し、これを人々に語りました。神様の預言は必ずするという神様からの約束。

 

あなたはこの約束、信じますか?よければあなたの傍に来られた神様にあって見ませんか?

 

「貪欲な人の食物を食べるな。彼のごちそうをほしがるな。彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに、『食え、飲め』と言っても、その心はあなたとともにない。あなたは、食べた食物を吐き出し、あなたの快いことばをむだにする。愚かな者に話しかけるな。彼はあなたの思慮深いことばをさげすむからだ。昔からの地境を移してはならない。みなしごの畑に入り込んではならない。彼らの贖い主は力強く、あなたに対する彼らの訴えを弁護されるからだ。」

箴言23章6-11節

 

私たちは愛され守られている、このことを知っていますか?私たちは自分の力で何とか生きている、頑張らなければいけないんだ、自分の得ているものはすべて自分の力で得たものなんだ、など色々考えることがありますが、私たちは神様に与えられた命、神様に支えられて今生きている。どうにもならない時も、元気な時も、いつも神様が私たちに良いものを与えようと、わが子に生きてほしい、本当の幸せを得てほしい、と父なる神様が良いものを注ぎ、また与え、またその御手をもって守られ、その神様の愛の中に私たちは生かされている。あれが足りない、これが足りない、なんてことはない。むしろこの神様のくださっている深み、味を味わっているだろうか。この世界を創られた、治めておられる、私たちが当たり前と思っている中で神様が全てを備え、また与えてくださっているこれらを味わおう。何より、あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてまで救われた、愛し抜かれた神様の愛が注がれている、この神様の御思いに私たちも心を向けようではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け、神様が語られた箴言・知恵、いのちのことばで、これを受けたソロモンが受けて私たちに書き残し示されたことばになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は親が我が子に適当なものではなく最高のものを提供するように、いやそれ以上にご自身のすべてのものを惜しむことなく与えてくださる方なんですよね。愛するわが子のために、天の父なる神様は、それこそあなたを救うために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに愛されている、その愛ゆえに。神様から離れていく、離れている私たちが失われていく事、神様の恵みを失っていくことを悲しまれ。そんな本物の、表面上ではなく最高の愛であなたを覆いたいとその御手を今日も伸ばされているわけです。

 

その神様の思い、知恵をソロモンはいただき、適応、応答するように箴言をさらに残していくのですが、↑では「貪欲な人の食物を食べるな。彼のごちそうをほしがるな。彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに、『食え、飲め』と言っても、その心はあなたとともにない。あなたは、食べた食物を吐き出し、あなたの快いことばをむだにする」と書き残します。

 

吐き出し、なんて見ると食べ物を無駄にするな、とおしかりを受けそうですが、そういう話ではありません。↑の前の同じ箴言23章前半部でも、「あなたが支配者と食事の席に着くときは、あなたの前にある物に、よく注意するがよい。あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。そのごちそうをほしがってはならない。それはまやかす食物だから」と語られていました通り、自分の利益になる人とだけ食事をするとか、そういう人だけを仲間にし、受け入れ、そうじゃない人を受入れない、態度を変えるなど、そういうことはだめですよ、と昨日分かち合ったのと同じような話です。

 

それでここでは、「貪欲な人の食物を食べるな。彼のごちそうをほしがるな」という事ですが、この「貪欲な人」という言葉の直訳は「目つきの悪い人」という意味だそうです。もちろん、もともと目つきが悪く見えてしまう人もいますから、そういう人はダメだよ、という意味でもありません。その人が見ていることが悪いことを見て考えている、そういう人が、「ほら、これはおいしそうだろう?これはもうかるよ?さあ飲んだ飲んだ、食べて食べて」という、そういう事に気をつけるように、という事です。今触れました支配者との食事の件と合わせて考えるなら。勘定ずくだから、相手の利益を思って、相手のことを思って与えているようで、もしくは語っているようで、自分の利益になるか、あなたを利用できるか、そこまで計算しているから、注意するように、そういう人には気を付けるように、と警告しているわけですね。そう、目つきが良いからと言って必ずしも相手の人が良いことを提供している、言っているとは限らない、これは本当に注意ですね。まあ政治の世界では本当にこれがひどい。そしてその偽の情報がうまそうだ、と食いついて騙される、そんなことがずっと繰り返される。

 

その点から見えてくると思いますが、↑の前の支配者との食事や目つきの悪い人の食事、どちらも同じで、誰を思っているのか、何を思っているのか、どこを見ているのか、その辺りが問われてきますね。と同時に、私たち自身も何を求めるのか、これも問われると思います。同じうまい汁、甘い汁を求めて近寄るのか、それとも正しい心を持つ何か、誰かを求めるのか。あえて政治の世界の話を今あげましたが、やはりそのうまい汁に与ろうとする人だっているわけですし。

 

これ、まじめな話、遠い世界、どこかのお偉いさんがしている世界の話ではないんです。私たちだってこれに巻き込まれることだってあるんです。私はあなたの事を思って言っているんだ、しているんだ、とアドバイスをしているふりをして結局自分が思う利益の方に誘導する人もいる。神様はそんなことを言っていないのに、神様はこう言っていると、自分の経験や感性から語って、神様の語っている事と逆のことへ誘導する人もいる。まあこれをクリスチャンでも牧師でも本人も気づかずにやって来るから少々厄介な話なのですが。

 

ここで私たちは立ち止まって考えなければなりません。自分がごちそうだと思って提供しているもの、語っていることは、もしくは与えられているものは本当にごちそうですか?自分のためになる、と思っていることは本当にあなたの事を思っているか、向いているか、どうでしょう?

 

私たちは私たちに最高の食事を提供される、あなたをいのちの道へと導いて下さっている方、養ってくださっている方、自分の利益よりもあなたが生きる事を願っておられる方がいるという事を忘れてはいけません。そう、イエス様。イエス様は私たちのためにへりくだり来られました。神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えずに、罪を犯さないという点を除いて完全に人となって生まれて来てくださりました。犯さない点、というよりもそういう誘惑があってもその誘惑に負けなかった、という話でもあるのですが。疲れもすればお腹もすく、のども渇くし、傷つけば血を流す、そんな私たちと同じような姿をもってまで私たちを救いに来られたのです。

 

どこか遠くの世界ではなく、今目の前にいる人たちに、私たちにその愛を惜しみなく与えられました。あれこれ理屈をつけて、あの人は○○だから愛するに値しない、とかされなかった。罪人だから食事には招きません、とはせず、それで馬鹿にされようと関係なく食事に招き、彼らを罪から立ち返らせてくださった。因果応報だ、と言われるような人にもその愛を現し、癒された。打算で近づいてくる人たちだっている、だまそうとしている人だっている、そういう人を退けるのではなく、彼らを悔い改めに導こうといつもしていた。イエス様はいつも私たちにその愛を惜しむことなく注がれていたのです、ここには書ききれないほど。もしイエス様が何をしたの?と思う方、興味のある方は聖書の○○の福音書、というところを読むことをお勧めします。

 

というよりも、どうせ神様なんて、イエス様なんて…と自分の算段に合わないから、勘定に合わないからと言って何もせずに遠ざけるのではなく、打算的に近づくのでもなく、まずこのイエス様のことを知ってください。イエス様は打算的にあなたを見るのではなく、むしろあなたを救うためならと、私たちが何か良いことをする前にまず、私たちの思い煩いも、痛みも、何より罪の刑罰・死、一切を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれたのです。そこまでしてでもあなたを救おうとされた。そこに打算も何もない、あなたが命を得るためならそのいのちさえ惜しまなかったのです。そして3日目によみがえられたことによってこれらに完全に勝利された。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

ここまで愛された方があなたに注がれる愛は、ご計画は、御心は、いったいどれだけ素晴らしいものか。あなたをどん欲に奪い去ろうとするサタン、この世の手から、いのちを惜しまず与えてでも、投げ出してでもご自身の全てのごちそうをあなたに与えようとしてくださったのです。このいのちをもって私たちに新しいいのちを絶えてくださる、全てを癒し、変えてくださる、ご自身の恵みで満たして下さるのです。私たちの内にある、何とかごちそうにありついて、良いものにありついてこの辛い思いを吐き出したいと思っている、それらすべてを吐き出させ、癒して下さるのです。「食え、飲め」と言ってその身を引き裂いてご自身の良いものを与えてでも。食べて、飲まないで、あれこれ言うのは簡単。でもぜひ味わってほしい、とイエス様を批判する、迫害する者たちにさえ、その愛を現されたこのイエス様が与えてくださる新しいいのちはいかに素晴らしいか。あなたは遠くからあれは自分には合わないだろうな、と計算ばかりしていませんか?合わないから、自分なりにこの教えを変えて、自分の利益に合うようにとしていませんか?とあるように、その捻じ曲げたものを他の人に与えようとしていませんか?

 

しかし、先程の「貪欲な人=目つきの悪い人」の話ではありませんが、私たちはこのイエス様の愛をどん欲に求めよう。イエス様に悪い目を向ける、心を向けるのではなく、ただ静かにこの十字架を見つめ、私たちの内にある悪い部分、辛い部分、罪、一切を取り除いていただき、本物の良いごちそうで満たしていただこうではありませんか。イエス様もどん欲にあなたを愛し、その良いものを愛するあなたのためにどん欲に与えてくださるから。良い目つき、優しい目をもって。

 

「愚かな者に話しかけるな。彼はあなたの思慮深いことばをさげすむからだ。昔からの地境を移してはならない」とあるように、愚かなことに心や目、耳を向けるのではなく、あなたを蔑まず、自らのいのち、全てを惜しむことなく与えてくださったイエス様のことばに目を、耳を、心を向けよう。この方にも留めよう。神様は昔からあなたの事を愛され、生まれる前からあなたのいのちを定め良いもので満たそうとしていてくださっていた。このいのちを他のものに奪い取らせたりしてはいけない。

 

イエス様は、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と仰られます。羊の門は自分のからだをその一部としてでも羊を守る。あなたを安らかにしようと、守ろうと今日も24時間守ってくださっている。今日この方が私たちにもたらして下さる命、恵みを食べながら、この方の導くそのいのちの道をどこまでも行こう、このイエス様に信頼して。みなしごのあなたの畑を守られる、あなたのいのちを守られるイエス様が今日もあなたと共にいるから。

 

箴言23:10-11 孤児の畑に立ち入るな

私たちは相手が本当に自分を愛してくれているか、

嫌っていないか、とか、評価を気にします。

でもその前に忘れてはいけないのは、何をしたか、ではなくその人そのものを見なければいけません。

 

神様に対してもそう。

特に人は神様の奇跡にばかり注目して評価しますが…

 

ティモシー・ケラー牧師はいう。

イエス様をただ彼がしたことによって愛するのではなく、彼が誰なのか(あなたのためなら死してまで命さえ惜しまず与える方)であるがゆえに愛そうではありませんか。

Don't love Jesus just for what he does, love him for who he is

 

イエス様が命をとして愛されました。それはあなたの隣人や苦手な人もそうです。

そしてあなたはそれほどに神様に愛されている、そのことに喜びを持とうではありませんか。

 

錠には鍵があります。

問題には答えがあります。

でもそれ以上に…

 

神様は鍵なしに、錠をお創りにはなりません。
そして神様は解決なしに、問題をお与えになることはありません。
神様を信じましょう。

私達は神様がいるから生きることができるのです。

神様は私達を導かれる道を、生きる道を、いのちをイエス様を通して与えられたのです。

イエス様こそ道であり、真理であり、いのちなのです。

この事を覚え歩もう。

神様は全てに勝る。

 

「あなたが支配者と食事の席に着くときは、あなたの前にある物に、よく注意するがよい。あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。そのごちそうをほしがってはならない。それはまやかす食物だから。富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く。」

箴言23章1-5節

 

昔は家族全員がそろって食事をする、というのが普通だったような気がします。我が家もそうでした(私が子どもの頃)。まあだんだん仕事が忙しくなって帰りが遅くなり、その習慣はなくなりましたが。まあ父親は寂しそうでしたがね。その習慣の良しあし人それぞれ考え方があるのでしょうけど、イスラエルでは食事を大切にし、一緒に食事をするという事は仲間、という考えを持っています。そして互いに色々話をしたり、励まし合ったり、また栄養を取って共に元気になっていく、そんなところがあるのでしょうかね。まあ本編でも触れますが、逆になんであの人と食事をするの?と見ていた人もいたようですが。それはともかく、神様は私たちを仲間、家族として食卓に招いて下さって、神様の元気を与えてくださる。わが子と呼んで下さる父なる神様はご自身の全てをその食卓で、十字架で分け与えてくださり、今日もその我が子に愛を、御心を現して下さっている。私たちはこの神様の愛を受け取っていますか?神様は御子イエス様のいのちを惜しまず与えるほどにあなたを愛し、あなたをわが子として迎え入れてくださっている。この素晴らしい関係に生きてみませんか?

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた知恵・いのちのことば、箴言で、これを受けてソロモンが受けて私たちに書き残し示されたことばになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちを排除しようとするのではなく、まずご自身から良い知恵、御心で私たちを満たそうとしてくださっているんですよね。「初めに」神様がすべてを創られた、その神様が私たちに向けてその初めなる神様が全ての良いものを注いでくださっている。何と感謝なこと。これをわが子に受け取ってほしい、とその愛を注がれているなんて。私たちは周りの状況に振り回されて、これが良いこれが良いと言って手に取って着飾ろうとするけど、本当に良い、神様が目の前にくださっている最高の恵み、これを受け取りたいものですね。蔑むのではなく感謝をもって

 

その神様から知恵をソロモンはいただき、適応、応答するように箴言をさらに残していくのですが、↑では「あなたが支配者と食事の席に着くときは、あなたの前にある物に、よく注意するがよい。あなたが食欲の盛んな人であるなら、あなたののどに短刀を当てよ。そのごちそうをほしがってはならない。それはまやかす食物だから」と書き残します。

 

食卓、とここで出てきていますが、会食などをイメージすると分かりやすいと思いますが、ある意味では仲間内でするもの。そこには自分のあれをしてほしい、これをしてほしい、という思いと、相手からしたらその中で自分たちも利益を得たい、そういう思いが合致してされるもの。まあ時代劇などを考えますと、「おぬしも悪よの~」の感覚にこの箴言のことばは近いかと思います。政治の世界でもそういうところがかなりありますね。自分の都合のいい人とは食事をする、と言いますか、集まる、もっと言うならそういう人を自分の仲間として、そうではない人はその食卓に招かない、仲間から外す。ただ、そうした関係にはあまり良いものを生まず、先程の時代劇の結末などを考えれば、最後はそれはまやかしだったという事がよくわかると思います。もしくは政治の世界でもそうですね。うまい汁を吸えると思ったら誰かを傷つけるものだった、もうかると思ったらそうではなかった…。

 

ここまでの箴言で触れられてきていましたが、貧しい人を、困っている人を蔑んだり、助けの心や手を閉ざしてはいけない、という事が教えられてきましたね。またイエス様も、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と教えられました。自分の好む相手、都合のいい相手だけではなく、苦手な人、仲の悪い人、困っているけど自分の都合に合わない、あの人と価値観があわないから、自業自得だからと言って助けない、そんな事があってはいけない、と。それは私達もまた、本来神様の愛を受けるに値しないほどに好きなように生きてきた、そんな私たちを神様は憐れまれ、助けられ、救われた、御子イエス様のいのちを身代わりにして罰してでもあなたを救おうとされた、それだけの愛を受けているのに、どうして周りの人を蔑むなどあっていいのか、という話です。あれは○○(とてもここには書けないようなことを言う人もいますが、それは言い方を変えてごまかしているだけでゲヘナに投げ込まれる、とイエス様が忠告をされていることを忘れないでくださいね)だから同情の余地がない、祈る必要もない、そんな事を私たちは本来言えるものではなかった、神様から逆にそういわれて捨てられてもおかしくないのに、愛されていたのに、という話でしたね。

 

思い返してみますと、イエス様は色んな人と食事をしました。まあそれを見て、イエス様は大食漢の大酒飲みだ、と言う人がいたわけですが(今も)、それはどちらかというと罪人と一緒に食事をしている姿を見て周りはそう言っているだけ。先程の理論から考えますと、神の御子イエス様がですよ?罪人と一緒に食事をして利益を得る、そういうことはまあ「一般的な目」から見たら何にも得られないでしょう。しかし、イエス様の視点は違うのです

 

イエス様が家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人、ただ税金を取る人ではなく、余計にとって袖の下に入れていた人もいた、また罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていたのを見て、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」と当時の宗教家が問うたことがありました。食事を一緒にするという事はイスラエルの文化では、その人を仲間とするという事であったり、その人を赦す、という事を意味していました。ですから、彼ら宗教家はイエス様が罪人の仲間になったとみていたのです。そんな救い主はあり得ない、と。その時イエス様は、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と答えられました。

 

正しい人なんて本来はいない。みんなどこかしらに脛に傷を持っていることはみんな知っているでしょう。口ではいいことを言っても逆のことをする、人に厳しく注意しても実は自分も同じような間違ったことをしていることに気づいていない人もいますし。私たちはみな神様から離れ好きなように生きているわけですから、法律的な罪を犯していなくとも、神様の御前に罪を犯して正しいものとはされていない、だから、神様からその食卓、仲間に加えていただけるなど本来、ここで文句を言っている宗教家も含め、ありえないのです。誰もそんなところに招かれる人なんて本来はいない。しかし、イエス様は招かれるのです。そんな正しくない私たちを、それでもご自身の仲間、家族に加えたいと、イエス様は招かれる、救いに来られたのです。思い煩いを抱え、疲れた、そんな人たちも、○○だから招かない、ではなく喜んで迎え入れてくださるのです。

 

そう、イエス様にとって本来正しくない私たち、罪人たる私たちが、救われる、それ以上に大きな喜びはないのです。イエス様も、「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」と仰られました。の私たちを仲間、家族、神様の子として迎えるために、私たちの罪を、痛みを、その全てを一切取り除くため、これら一切を御子イエス様に身代わりに神様は背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。神様は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためなのです。そのために、御子イエス様のいのちをその食卓で分け与えてでもあなたを救うことを選ばれたのです。自分の利益というよりも私たちが神様の最高の利益、喜びを与えるために、その恵みで満たすために。

 

パウロは食事のことで心を痛め合う人の姿を見て、「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。…私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」と語りましたが、自分の利益やら何やらで誰かを受け入れる、愛する、嫌う、そういうのではなく、神様の義と平和が、聖霊様によって与えられるよう、満たされるように、何より、互いの平和のために生きることを勧めます。その良いものを、物質的な食事だけではなくあなたの分け与えることができる良いものを、イエス様の福音を、愛を、これを分け与え、互いに仕え合う、そこに聖霊様が働かれ、神の国が建て上げられていく、と。

 

私たちはいかがですか?自分の利益、「富を得ようと苦労して」いませんか?もちろん利益を得ることも大事、でもそればかりを追い求めて、自分の悟りに頼ってその道を進んで、大切なものを失っていませんか?私たちはこの神様の富、イエス様の愛、福音を追い求めるなら、これをもって仕えるなら、私たちの悟りで進む道、悲しみ、痛み、絶望、疑いの支配から解き放たれる。あの人は自分の悟り的に間違っている、という視点から、神様の恵みによって変えられた自分を思い出し、またその人のために祈り仕えるなら、あれこれパリサイ人のように、あの人は罪人と一緒に食事をしている、と自分が罪人であったのに赦された恵みを忘れて罵ることをしているような行動から、一緒に食事をする、良いものを分かち合うものに変えられるなら、どれだけ素晴らしい所となるでしょう、神の国となるでしょう言いたいなら直接言いに行けばいい、なお神様のもとに一緒に行くならなお素晴らしい恵みが広がるのではないでしょうか。はっきりとこれをやめよ、と言われている↑の箴言、でもそこから一歩踏み出して、イエス様の愛をもって互いに愛し合うことをやめてはいけない。互いに愛し合うことを教えたイエス様の愛がそこに広がる、イエス様もそこにおられるから。

 

「あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く」という最後のことば、どうせなら、なくなるものではなくいつまでも残る神様の永遠の富、愛、これをどこまでも求めよう。そこに広がる神様の知恵・愛からくる御心をどこまでも求めて。

 

「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。…あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」。これはイエス様が語られた言葉ですが、↑の結論として見てもいいでしょう。私たちは自分の利益になる人に良いものを配る、愛するのではなく、神様の憐れみを受けたものとして、互いに愛し合う、神様の憐れみがここになり、回復、癒し、驚くべき神様の御業をどこまでも求めようではありませんか。

 

スライスされたステーキと聖書の言葉                    鷲が空を飛ぶ箴言23:4-5

親はある意味当たり前のように子供を養います。

私の兄たちは荒れに荒れ放題だったけど、それでも祈りに祈り、耐え、今はよくなってきています。一人は洗礼まで受けた。

 

神様は私達がどんなに小さく、人から見たら目にとめるに値しないようなものであっても、養ってくださります。心を配ってくださります。恐れることはない、天の父が喜んで御国を与えてくださるのですから。私達はイエス様の命によって開かれたこの新しい命、喜んで歩もう、そしてこの受けた愛をもって隣人をも愛するものであろうではありませんか。

 

「愛なる神よ、私のような者の必要に心を配ってくださるとは何と光栄なことでしょう。」

 

森永製菓の創始者森永太一郎は、佐賀県伊万里で一番の豪商の家に生まれました。しかし、6歳の時に父が死に、財産を失い、母は生活のために再婚したものの太一郎を引き取ることはできず、親戚をたらい回しにされて育てられたため、12歳になっても字が読めず、寂しい無口な子でした。結局、母方の伯母にあたる山崎家の養子となることができ、塾にも行かせてもらえ、学問を修めることもできたのでした。
 
19歳になると一流の商人になるという野心をもって上京し、陶器商に勤め、20歳で結婚もしました。しかし勤務していた店が傾くと、日本の陶器を売って一儲けしようと単身で渡米しますが、結果は散々でした。そんなある日のこと、借金もあるし、おめおめと帰国することもできないと悩んで公園のベンチに座っていると、60歳ぐらいの上品な顔立ちの婦人が軽く会釈をして彼の隣に座り、ハンドバックからキャンディーを取り出してその一つを彼に勧めてくれました。キャンディーをほおばった太一郎は思わず「うまい!」と叫び、その瞬間に洋菓子職人になろうと決心したのです。太一郎は早速、菓子づくりの見習いの仕事を探しますが、人種差別がひどく日本人には下男の仕事ぐらいしか見つかりません。
 
仕方なく下男をしながらアメリカ人の家を転々としながらチャンスを待ちました。オークランドの老夫妻の家に流れ着いた時、再び太一郎を変える出会いが起こります。その家の老夫妻は熱心なクリスチャンで、とても親切で日本人である太一郎を対等の人間として扱い、決して見下すことはなかったのに感激し、老夫婦の信仰するキリスト教に興味を持ち、オークランドの日本人教会で求道し、ついに洗礼を受けたのでした。信仰の喜びを得た太一郎は洋菓子職人の夢を捨て、日本に帰って伝道者になろうと決心をしました。
 
アメリカから帰国した森永太一郎は、さっそく故郷伊万里に帰ると親族や兄弟に盛んに福音を説きました。しかし、アメリカで頭がおかしくなったと思われるだけで誰にも相手されず、それどころか養子先の山崎家からも離縁される始末でした。
 
伝道者になることにも失望した彼は、再び製菓技術を学ぶために渡米し、激しい人種差別に耐えて遂に技術を取得し、開業費も貯めて帰国します。そして、赤坂の溜池に二坪の小屋を借りると「森永西洋菓子製造所」の看板を掲げ、開業したのでした。マシュマロを作って菓子屋に卸すと、これが好評で飛ぶように売れました。
 
この成功に勇気を得た太一郎は、宣伝販売をするためにガラス張りの屋台式箱車を作らせ、その中にチョコレート、キャンディー、ケーキを積んで町を歩きました。この屋台の屋根には「キリスト・イエス罪人を救わんために世に来たりたまえり。義は国を高くし罪は民をはずかしむ」という聖句を書いた看板が打ち付けられていたため、「ヤソの菓子屋さん」と呼ばれ、有名になりました(下の写真参照)。容器の上げ底をしない、品質本位、厳格な衛生管理など誠実な仕事ぶりも評判を呼びました。菓子と言えば和菓子が主流の時代、彼は不眠不休で営業努力、また商品改良に努め、小さな菓子屋さんが株式会社へと発展し、やがてミルク・キャラメルがヒット商品となって全国的に有名になったのでした。
 
ところが、社業が飛躍的に伸びていく中、彼の信仰は一時冷え切ってしまいました。しかし、苦労を共にした妻の死を契機に改めて信仰に立ち帰ります。1923年、関東大震災の時には在庫品を全部無料で被災者に配りました。幹部が無謀だと反対すると「これは神様とお客様にお返しするのです」と答えたといいます。社長の職を退いた後は、「我は罪人の頭なり」と題して、全国の諸教会で力強く伝道をして回りました。1937年1月24日召天。享年71歳でした。
                  
ーキリスト教人物伝よりー
 
あなたは今日最高の物を握りしめているはずです。
神様がおられる、神様がくださったいのち、御子イエス様のいのちをもって取り戻されたいのちに今私たちは生かされていることを忘れてはいけません。
この愛をいただいた今、今日、あなたはどう生きますか?
 

「貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか。あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない。」

箴言22章22-29節

 

私たちは余裕がなくなると、相手のことをなかなか考えられなくなる、これは仕事などでは特にみられることかもしれません。もしくは自分中心で動こうとすると、周りにあまりいい影響は与えない。まあ人間、完璧な人なんていませんからどうしてもうまくいかないことはあるのですが、ただ、人には「愛」という感情が与えられています。いや、意志や行動のもとになるものといいますか。この愛があれば喜怒哀楽を正しく表現できる。いや、この愛が私たちを支えるのです。もちろん完ぺきな愛なんて私たちは持ち合わせてはいませんが、それでも私たちを我が子と呼んで下さる天の父なる神様は、私たちを愛してくださる、私たちを救うためなら御子イエス様のいのちを身代わりにしてでも、愛することを決断され、実行される方、この方の愛に私たちは支えられ、またこの方の愛が働くところに驚くべき恵みが広がる。私たちはこの神様に愛されていることをもう一度思い出し、なおこの愛に支えられ、またこの愛を分かち合い、神様の喜びが、いのちが広がっていく事を祈ろうではありませんか。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られた箴言、知恵・いのちのことばで、これを受けてソロモンが受けて私たちに書き残し示されたことばになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はある場面、ある時だけその知恵をもって導きたい、平和を成し遂げたいとか、そういう考えではなく、どんな関係にあっても、どんな時も、神様の最高の愛を現したいんですよね。全ての初めは神様を恐れること、神様の御前にへりくだる、私たちの王座を神様に明け渡す、そこから神様の御業が始まるわけです。そこに神様の素晴らしさが飾られていく。神さまなんて信じて何になるの?と蔑むのではなく、私たちをわが子と呼んでその愛からくる知恵・御心が溢れる事、それが私たちの求めるべきところですね。あれをどうするこれをどうする、と世の中に溢れている知恵を用いるのではなく、まず神様を求める。

 

それで、神様からの知恵をこの箴言で聞いてソロモンは適応、応答するように箴言をさらに残していくのですが、↑では「貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ」と書き残します。まあ、これ、ソロモンは貧しい人を奴隷にして働かせたりしていたから何を言っているんだ、と突っ込みたくなるところではあるのですが、むしろそうあってはいけないよ、という神様の訴えと見る事ができるでしょう。

 

それでこの話、本当に世の中残念過ぎるほどに起こる。弱い人、力のない人、ご老人…彼らから詐欺によってだまし取る人が本当に多いのが残念な話です。言うまでもありませんが、これを神様は律法で禁じています。禁じているというよりももっと積極的な命令として、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。…貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。『国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。』」と語られています。

 

私たちに神様が願っておられるのは、貧しい、まあ金銭的なことだけではなく様々な問題に思い悩む人、心貧しくなってしまっている人なども含めていいでしょう、その人たちに対して心を閉ざしたり、助けの手を閉ざしてはいけない、むしろその必要を十分に満たすように、と。の彼らの、あなたの手の業を通して神様が働かれる。もちろん神様が直接的に働かれることもあるのですが、これを私たちが忘れて何もせずにいて、なぜ貧しい人がいるのか?と嘆くのは違う。神様は、私たちにあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と仰られているように、この事を忘れていませんか?困っている人がいて可哀そうに、で終わったり、祈っているからね、とことばはかけるけど祈らないとか何もしないとかで止まっていませんか?

 

ちなみになのですが、この貧しい人を助けるために、借金の免除や貧しくて奴隷にされてもある程度の年で解放するように、彼らにちゃんと持ち物をもたせて解放(自分の家に帰ってちゃんと生活できるように)するように定めています。また、「第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足り」るように、十分の一の捧げものを用いて(今の時代の十分の一献金と呼ばれるもの、一般社会で考えるなら税金、これを正しく用いましょう、という話)互いに助け合う、支え合うように教えています。他にも、収穫をするとき、落穂を残して貧しい人たちがこれを拾えるようになど、さまざまな神様の配慮が、私たちを愛するがゆえになされているのです。この落穂ひろいの規定がある女性を助け、その女性とその家の主人が出会い結婚し、そこからイスラエル王国の2代目の王ダビデ、その子ソロモンへと王家が生まれていく、その先にイエス様がうまれてくる、という驚くべき歴史もあります

 

イエス様は「この最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのです」と、貧しい人、飢えた人、病んだ人に仕える事の意味を教えられたのですが、まさにそのことを通して神様は働かれる。そこから先程の落穂ひろいの話ではありませんが、神様のご計画が豊かに現される、貧しいと思う中に、豊かだと言える日が来るのです。

 

考えてみれば私たちの持っているものはすべて神様から与えられたものなんですよね。自分で稼ぎ出したとか、その前に私たちは神様の創られた世界に住まわせていただいているその中でいろんな収穫を得ている。その恵みの収穫をいただきながら私たちは生きている。その頂いたものをこれは自分のものだ、と困っている人に分け与えない、というのはまたちょっと違う話と言えば違う話。困っている人にも、もしあなたが何かの試練を神様によって乗り越えさせていただいてたなら、むしろ一緒に乗り越える、神様の恵みを分かち合う中でそこに喜びが広がるわけですね。

 

私たちは↑のことばのように、どうも与えるよりも頑張れ頑張れ、と声はかけるけど助けに行く足が重くなる。もっと頑張れとか、何々が悪いとか、妙に批判的なことばをかけてしまう。自分が愛されていること、神様から助けられたこと、守られていることを忘れ、愛することをどうも忘れてしまう、神様を、人を。なんででしょうね。それはあなたの何々が悪いからと押さえつけて。でもそんなあなたを見て神様は悲しまれる。

 

「おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから」とも↑で語られていますが、私たちは何の習わしに従って生きているのか。自分が正しいと思う価値観、経験、習慣、それらによって人に厳しく望んだり、自分と合わないからと激して接するのではなく、私たちは神様から愛されているという事、この神様に支えられていることを、何より私たち自身神様から離れ、本来神様から受けられるはずだった恵みを失い、貧しくなり、あらゆる意味で命を失うはずだった、そんな私たちを神様はそれでも見捨てられず、ご自身の最も大切な御子イエス様に私たちの思い煩いも、痛みも、罪も、一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたことを思い出そう。このイエス様の十字架で引き受けられた罰・死、これによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔いらため立ち返る時得られる救い、罪の赦し、永遠のいのち、これを思うなら、どうして他の人を蔑むことなどできるでしょう。むしろこの赦された愛、イエス様の愛をもって仕えるなら、そこに神様の赦しと癒し、解放が広がるのではないか。私たちの習慣や価値観ではない、こんな貧しい私たちを憐れまれた神様の恵みが、価値観からくる愛が広がるなら、それはどれだけ素晴らしいものへと変えられるか。

 

私たちが交わるべきは、一緒に行くべきは、自分の価値があう人ではない。もちろん彼らを見捨てるとかそういう意味ではなく、神様の愛、価値観と言いますか、この神様の中にいつも交わりをもつ、祈る、その愛をこの方の価値、愛が広がるよう祈りたいものです。そのあなたを通して神様の価値観、素晴らしさが広がっていき、そこは御国のようにいのち溢れるもの、輝かしい所へと変えられていくのではないか。自分の考えが正しい、神様あなたは間違っている、と神様から離れ、信じていると言いながら逆を行って神様の恵みを失ってはいけない。それはサタンの罠そのものです。自身の習わしではなく、神様の愛が私たちを赦し、神様の子としてくださった、永遠のいのちを与え、この内に今神様が働かれている、こんな素晴らしい愛が失われゆくことがあってはいけない。むしろこのイエス様の愛によって罪から回復される、解き放たれ、神様の御心が、知恵が、その全てが働かれ、満たされていくならどれだけ素晴らしいことだろう。

 

「あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか」とありますが、誰かの保証人になるのはやめよう、とかそういう話ではありません。考えなしに保証人になって困ることがあってはいけない、ということもあるのですが、本当に困っている人ではなく、これを見ると返す気もなくだまし取ろうとしているように見えます。そう、私たちが誓うべきは神様なんです。この私を御子イエス様のいのちをもってまで愛し抜かれた神様に従う、どんな時もこの神様に従う、委ねる、その中で、私たちを奪い取るのではなく与えてくださる神様が、私たちを御子イエス様のいのちをもって保証してくださっている人が私たちを、また私たちの周り、保証を必要としている人、神様の保証、救いを必要としている人をその愛の誓いによって満たして下さるのです。

 

「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない」。私たちはこの神様から与えられた地境、いやいのちを他のものにゆずるのではなく神様に委ねよう。神様があなたの苦しみの中にあっても喜びを見出し、そのいのちを広げてくださる、神様の良いもので満たされる、いっぱいにしてくださるから。「じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない」と語られているように、本当に上手な仕事をする人はなかなかいない。しかし、今日もあなたを愛する絶えに完全な仕事と言いますか、その御業を成し遂げようとしてくださる方、あなたを救うために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてまであなたの内に愛を働かれた神様が今日も働かれている。私たちはこの神様の働きを願い求めつつ、なおこの愛をもって仕えるものであろう。そのあなたを通してなお神様の豊かないのちが、愛が今日も広がり、神様の愛を失った、様々な思い煩いや貧しさを抱える人たちに本物の神様の豊かさが広がっていくから。何より私たち自身もこの神様の御前に心貧しくへりくだり、このいのちに満たされ歩もうではありませんか。この神様の働きの前に立ちおおせるものなど何ものもないのだから。この神様の愛に支えられ、また愛に今日も生きよう。主は今日もあなたを愛することを忘れず、心の底から愛を注がれているから。

 

貧しい人を搾取するな 箴言22章22-23節