子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

人はだれでも居心地の良い場所を求める。

では、それはどこにあるのだろう?

 

↓の写真はなかなかおもしろいところをついている。

世界で最も居心地のいい場所は、
誰かの思いの中、
誰かの祈りの中、
誰かの心の中です。

 

神様が、あなたのためにその場所を用意された。イエス様があなたの友となり、祈られる。あなたをその心のなかでいつも覚えておられる。思っていてくださる。だからあなたが死ぬことなど望まず、御子イエス様を身代わりに十字架にかけられ死なせた。それほどまでしてまで取り戻されたあなたに神様が何を用意しているのか、大いに期待しようではありませんか。

 

1つ↓の投稿で見たように、イエス様がおられるところ、イエス様を求めるところにはそこにおられ、何かを成してくださる。私たちは神様に大いに信頼しよう。私が思う以上の神様の住まい、神様が私たちとともにいる喜びに生きよう。

 

 

「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。また、悪霊どもも、『あなたこそ神の子です』と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。』そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。」

ルカによる福音書4章38-44節

 

よくラブシャワーというものをする人達がいる。最初は大歓迎、あれもこれも与え、受け入れ。どうしてか?彼らを自分たちの仲間に取り込みたいから。それはそうです、人間ですから。しかし、神様の言葉には力がある。語られたとおりになる。何か贈り物をして相手の心をとりこにするのではない、むしろ命をかけて私たちを救わんと、いつも行動されていた。私たちはイエス様に今日、どれほど信頼しているだろうか?

 

さて、イエス様の公生涯が始まり、ガリラヤ地方のカペナウムという地に来ていた。ここからなんの良いものが出ようか、と見捨てられていたような地でもあった。イエス様はそんな場所さえ訪れられたのです。イエス様は御子を信じる人が一人も滅びることを望まない。そのために、時にバカにされようと、裏切られようと、その福音を告げ知らせる旅を続けられていくのでした。私たちのためにも、あなたがどんな窮地、どんな状況、場所にあろうと、イエス様を求めるならイエス様も共におられる。この事を忘れないでいたいものです。

 

さて、そんな中、さらにそのガリラヤ地方の、一人の女性、まあシモンとありますがいわゆる12弟子の一人ペテロのお母さんです。彼女が高熱で苦しんでいた。熱病ですね。ヘレン・ケラーも幼い時に熱病で3重苦を負うという大変な目に会いましたが、熱病も馬鹿にはできないんですよ?だ、ペテロもまだ12弟子になる前、一介の一人の漁師のお母さんです。イエス様はもっと有名な人を癒やして有名になろうとはせず、今目の前にいる人と向き合っておられたのでした。

 

そこで彼女を癒やしてほしいと願った人達、それに応えイエス様は癒やされた。もしかしたらそうじゃなくとも癒やしていたのかもしれない。ペテロがイエス様を招いていた時点で。ただ、イエス様を求める只中にイエス様はまさにおられ、おられるだけではなく何かをなされるのです。

 

どう癒やしたのか。普通なら考えられない話ですが、熱に対して叱りつけ、これを癒やしたのです。前回の悪霊追い出しのときもそうでしたが、まさにことばによって癒やされた。そんなことは科学的にありえない、という人がいるかも知れない。しかし科学は人の想像の範囲内でしか人は認めない。それは科学的にありえない、ということが後の時代にひっくり返ることを多くの人が目撃しているではありませんか。

 

ただ、この話は科学云々のはなしではありません。イエス様のことばには力があるのです。天地創造の際もことばを発すればその様になる、ということがあった。イエス様はこの先の箇所などでも見ていきますが様々な方法で癒やし、また心を解放し、悔い改めに導くなど出てきます。私たちはイエス様を想像の範囲内で納めてはいけない。イエス様が只中におられる、ということは、自分たちがこうしてほしい、という想像、あきらめ的な願いを遥かに超えた大いなる事をなされるのです。↑の箇所でも他に悪霊に支配された人をことばによって癒やし、また他の多くの人たち、イエス様を求めてくる人達を癒やした。どんな事を癒やしたのかは書いてありませんが、たしかにイエス様はそのなされること、発する言葉、そこに力があり、私たちが想像する以上のことを成して下さるのです。

 

イエス様は「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」と↑の最後で仰ります。冷たい?違う。イエス様を慕い求め多くの群衆がついていきます。また、イエス様は12歳の頃の話で見ましたが、確かに父の家におられる。そこにイエス様は私たちを招いてくださっているのです。あなたにも福音を伝えるため、命を得させるため、私たちの失われた本来のいのちを取り戻すため、罪を葬り、癒やす、神様の子として回復させるため、イエス様は驚くべきことに十字架にかかりにその足を進めるのです。福音を伝えるのは、ただ自分の名声を得るためではない、私達の罪を身代わりに背負い十字架にかかられ死なれるため、そして復活によって、私たちに永遠の命を与えるため、命をかけて歩まれる。

 

私達は今、この復活のイエス様に何を求めているだろうか。何を信じているだろうか。ただの宗教で終わらせてはいないだろうか?言葉による力しかり、愛しかり、私達は命をかけてまで私たちのもとに来られ他、来られるイエス様に大いに期待し、御心を祈り求めようではありませんか。

 

私たちはいろんな問題にぶつかる。

ゆるせない、とか、もう無理、とか。

でも、神様はアメイジングなことをされる。

アメイジングな愛で、恵みで。

 

命をかけられてまであなたを救おうとされるイエス様の愛が、

聖霊様の霊があなたの内に留まり導かれる。

この方に生かされ今日も歩もう。

 

ということで良ければ、下の曲聴いて下さいm(_ _)m

Amazig Love

 

 

愛は過去を葬ります。愛は過去が清算されなかったとしても、人を新たな始まりへと動かします。愛は過去の誤解すべてを解消させる必要はありません。過ぎたことの詳細はもはや関係なくなり、大切なのは新たな始まりだけです。事は精算されず、意見の違いは解決されず、台帳は収支がつかないままかもしれません。物事がどう起こったかに関して人それぞれが持つ記憶の違いは解決されておらず、過去は混乱のままです。しかし、大切なのは未来だけです。愛の力は人を小うるさい歴史家にはしません。愛は過去にあった正誤に関する未解決の問題を、ゆるしの懐の中にしまい込み、新たなスタートを切ることを好みます。

ールイス・B・スメデスー

 

この愛は、人はそんな安々と持ち合わせない…

でもイエス様がその愛。

あなたの過去を葬り、あtらしく動かしてくださる。

命をかけてまで愛されたか見さまが、あなたを動かしてくださる、

スタートを切らせてくださる、

新しいいのちに期待しよう。

 

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『イスラエル人に告げて言え。もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行った場合、もし油そそがれた祭司が罪を犯し、民が咎を覚えるなら、その人は自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。その雄牛を会見の天幕の入口の所、主の前に連れて来て、その雄牛の頭の上に手を置き、主の前にその雄牛をほふりなさい。油そそがれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持って入りなさい。その祭司は指を血の中に浸し、主の前、すなわち聖所の垂れ幕の前に、その血を七たび振りかけなさい。祭司はその血を、会見の天幕の中にある主の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい。その雄牛の血を全部、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。その罪のためのいけにえの雄牛の脂肪全部を、それから取り除かなければならない。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とを取り除かなければならない。これは和解のいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のいけにえの祭壇の上で焼いて煙にしなさい。ただし、その雄牛の皮と、その肉の全部、さらにその頭と足、それにその内臓と汚物、その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。また、イスラエルの全会衆があやまっていて、あることが集団の目から隠れ、主がするなと命じたすべてのうち一つでも行い、後で咎を覚える場合、彼らが犯したその罪が明らかになったときに、集団は罪のためのいけにえとして若い雄牛をささげ、会見の天幕の前にそれを連れて来なさい。そこで、会衆の長老たちは、主の前でその雄牛の頭の上に手を置き、その雄牛を主の前でほふりなさい。油そそがれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持って入り、祭司は指を血の中に浸して、主の前、垂れ幕の前に、それを七たび振りかけなさい。彼は、その血を会見の天幕の中にある主の前の祭壇の角に塗らなければならない。彼はその血の全部を、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。脂肪全部をその雄牛から取り除き、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。この雄牛に対して、彼が罪のためのいけにえの雄牛に対してしたようにしなさい。これにも同様にしなければならない。こうして祭司は彼らのために贖いをしなさい。彼らは赦される。彼はその雄牛を宿営の外に運び出し、最初の雄牛を焼いたように、それも焼きなさい。これは集会の罪のためのいけにえである。…』」

レビ記4章1−21節

 

わざと、悪いとわかってされる事と、知らずにされた事では、受け止め方って違いますよね。過失。これは被害にあった人にとっては本当に痛い、辛い。わざとじゃないにしても、何処にぶつけたらいいのか分からない。しかし神様はその痛みを知っている。自分の内側で処理するのは簡単ではないにしても、神様はご存知、放って置かれない。私たちは自分で問題を抱え込まず、神様に委ねよう。その先は神様が導いてくださるから。神様の御心がなることを切に願おう。

 

さて、幕屋が完成して、神様は改めて神様は会見の天幕からモーセを通して語られます。昨日も触れましたが、まず生贄の規定を通して神様がいかに私達を愛されているか、その愛に生きてほしい、とまずややこしい生贄の話をされます。現代ではクリスチャンは物理的な生贄を捧げることはありませんが、私たちは感謝の捧げ物、応答、悔い改め、それらを通して私たちは和解させていただける、なんと感謝なことでしょう。

 

↑の生贄は「罪のための生贄」、正確には過失の問題ですね。実は次の生贄「罪過のためのいけにえ」とは言葉が似ているようで少し違いがあります。今回の「罪のための生贄」は身分、経済状況によって異なります。

 

「罪のための生贄」、身分、経済状況によって違う、と今申し上げましたが、大きく分けて4つの身分に分かれます。今回は、油注がれた祭司=大祭司、この時代ではアロン、そして本物の大祭司、時代によらない、すべての民のための贖い主イエス様、それとイスラエルの全会衆(今の時代で言うなら集団と言ったところでしょうか。国家とか、会社とか)が罪を犯した場合について見てみたいと思います。

 

まず、「罪のための生贄」、ということですがこの場合の意味は正確には「罪を犯す、的をはずす、目的を見失う、罪に陥る」という意味を持つ言葉になっています。まあわざと的を外したことをする人はそうめったにいないでしょうが。罪というのはこの意味から見ると、目的を見失うことになってしまう。本来すべきことから外れた道を進めば目的も見失います。

 

ですから、大祭司が誤って罪を犯す、というのはとても大きな問題なのです。その影響は計り知れません。本来神様と民をとりなすはずの大祭司が罪を犯すのですから。それでも人間ですから、過失はあります。誤って罪を犯すこともあります。だからまず徹底してこの罪を取り除かれる必要があったのです。裏を返すなら、神様はそれでも一番影響与える立場だから許さない、ではなく、むしろ神様のもとにもう一度導かれたのです。そして本来あるべき姿へと戻されるのです。

 

大祭司の場合は「ささげるいけにえは、傷のない若い雄牛。雄牛の頭に手をおいてそれを屠る(身代わりの死)。そして自らその血を取り、会見の天幕にそれを持って入って、聖所と至聖所を隔てている垂れ幕の前にその血を七たび振りかける。また香壇の四隅にある角にその血を塗る。さらに残った血の全部を祭壇の土台に注ぐ。雄牛の脂肪の全部を祭壇の上で焼いて煙にする。雄牛の皮、肉、頭と足、内臓と汚物の一切を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出して、そこでたきぎの火で焼く」ように、となっています。

 

今、屠る事、それは身代わりの死ということを意味する事を見ましたが、実はこれが他の身分に大きく関わってくるのです。例えば罪を持った人が身代わりに罪をかぶる、なんてことはできません。しかし、2番目の全会衆が罪を犯した場合、彼らのための贖いをする、なんてとてもできません。この大祭司の贖いなしにはどうにもならないのです。

 

とはいえ、大祭司といえども人間ですから誤って罪を犯すことだってあります。だから、私たちには完全な大祭司が必要なのです。神様は、私たちが捧げる生贄の身代わりにイエス様を十字架上で屠り、死なせました。何の罪もないのに、死なれ、陰府にまでくだられた。ありえない話です。しかし、復活とともに身代わりに背負われた痛み、悲しみ、罪全てを葬られ、新しくされたのです。

 

確かに過失で被害を被った時の痛みは計り知れません。しかし、私達のその思いを何の罪もないイエス様が引き受けてくださったのです。過失どころではない、罪も侵さない神の御子たるイエス様が。↑で集団の目から隠された罪について書かれていますが、その隠されたものも神様は見てくださっていますし、またあなたの心の底にある痛みも取り除きたい、とだからここで「罪のための生贄」について語られた。これら全てをイエス様が身代わりに背負われ、新しくしてくださるのです。

 

過失を負わされた痛みを私がとやかくいうことはできませんが、しかし、神様はそれらを癒やし、悲しみの底に沈む私たちを引き上げ、新しくしてくださる。目的を、的を見失った私たちを励まし、命をもって、もう一度立ち上がらせてくださる。それは痛みはすぐに回復しなくとも、私たちはイエス様の愛に立ち返り、癒やしを、祈ろうではありませんか。神様は捨てるのではなく、ご自身の安らぎ、平安の内にあなたを招かれるから。これほどまでに命をかけられたイエス様がなされることに私達は期待し祈ろうではありませんか。あなた自身のため、またあなたの置かれている国、地域、職場…などのために。神様の御心がなるように。

 

今日から職場復帰となりました。

事情は私の身体ではなく…お察しくだされば幸いです。

私の心臓は相変わらずですが、そっち方面はなんとか守られています。

 

本当に守られています。

妻も、私は掛かりそうで毎回陰性だね、と言うように、不思議と。

でも、かかってられない・・・

 

1週間近くブランクがその諸事情で空いてしまったので、

身体が持つよう、お祈りくだされば幸いです。

この先の仕事については、ちょっと今それどころではなさそうなのと、1ヶ月前、のルール内に出せなかったので、多分倒れでもしない限り、来月末までは最短でも続けることになると思います。

 

いずれにしても、神様が行け、と言われるところに勇気を持って踏み出せるようお祈りくだされば幸いです。

 

喜びに満ちる金色の光は、その輝きに乏しい私たちによみがえりの光を注ぐ。私の面(おもて)も、私の体も、いま立ち上がる。私の眼は、神の造られた世界を見る。それは神の栄光が果てしないことを教える。それはまた、神を敬う人が平安のうちに、このはかない大地から去っていく、その行く手を教えている。すべてのものは過ぎ去る。しかし、神のみ揺るぎなくおられる。その思いと、その言葉は、永遠を礎(いしずえ)とする。神の救いとみ恵みは、正しく誤ることがない。私たちの心の痛みをいやし、私たちをこの世においても、また永遠においても支えたもう。十字架も苦しみも、もはや終わろうとしている。わき立つ波は静まり、ざわめく風もなぎとなり、希望の光は照り輝く。喜びときよらかな静けさ、これこそ天の園にあって私が待ち望むもの。私はそこに思いこがれる。

ーハイジ「おひさまの歌」よりー

 

ハイジ、という作品はとても有名ですね。最近のCMを見るとだいぶ原作者の意図からずれているように見えない事もないような…

 

ハイジは神様を信じ、おじいちゃんや色んな人に福音を実は語るんです。そんな中、ハイジがアルプスで最も愛して大切にしているのは、ペーターの家の盲目のおばあさん。冬以外、ハイジはできるだけペーターの家を訪ねて夕方までおばあさんの話し相手になっていました。

 

特にフランクフルトから帰ってからは、ハイジはその家にたった一冊だけある「お祈りの本」、讃美歌の歌詞だけを記した讃美歌集の中からおばあさんの好きな讃美歌をハイジが目の見えないおばあさんに代わって読んでいました。そうすると、暗い表情になりがちなおばあさんの顔がすっかり変わって輝き出すのでした。

 

私たちにしかできないことがある。

あなたにしかできない、伝えられないことがある。

そこにあなた一人に見えても神様が一緒。聖霊様が語るべきことを語らせてくださる。

私たちは今日、どんな賛美の捧げ物、どう生きるだろうか。

 

「『…もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前にささげなければならない。その人はささげ物の頭に手を置く。それは会見の天幕の入口の所でほふられる。そして、祭司であるアロンの子らは祭壇の回りにその血を注ぎかけなさい。次に、その人は和解のいけにえのうちから、主への火によるささげ物として、その内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなさい。そこで、アロンの子らは、これを祭壇の上で、火の上のたきぎの上にある全焼のいけにえに載せて、焼いて煙にしなさい。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。主への和解のいけにえのためのささげ物が、羊である場合、雄でも雌でも傷のないものをささげなければならない。もしそのささげ物として子羊をささげようとするなら、それを主の前に連れて来る。その人はささげ物の頭の上に手を置く。そして、それは会見の天幕の前でほふられる。アロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。その人はその和解のいけにえのうちから、主への火によるささげ物として、その脂肪をささげなさい。すなわち背骨に沿って取り除いたあぶら尾全部と、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とである。祭司は祭壇の上でそれを食物として、主への火によるささげ物として、焼いて煙にしなさい。もしそのささげ物がやぎであるなら、それを主の前に連れて来る。その人はささげ物の頭の上に手を置く。そして、それは会見の天幕の前でほふられる。アロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。その人は、主への火によるささげ物として、そのいけにえから内臓をおおっている脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなさい。祭司は祭壇の上でそれを食物として、火によるささげ物、なだめのかおりとして、焼いて煙にしなさい。脂肪は全部、主のものである。あなたがたは脂肪も血もいっさい食べてはならない。あなたがたが、どんな場所に住んでも、代々守るべき永遠のおきてはこうである。…』」

レビ記3章1−17節

 

人が仲直り、和解するには何が必要でしょうね。色々あると思うのですが、聖書の中には、愛はそのことを頭に記録しない、ともあります。お互いが赦し合わなければ本当の和解とは言えない。和解した後戻るのではなく、むしろ神様により良い方向に導いていただく、神様の恵みを頂き、歩ませていただこうではありませんか。私達は神様から、極上の愛を頂いているのだから。

 

さて、幕屋が完成して、神様は改めて神様は会見の天幕からモーセを通して語られます。まず神様は最初に5種類の生贄について語られるのですが、それは神様の愛がどれだけのものなのかを現し、その上で、この愛に生きる、その恵みを生贄の次に語られます。例えば、復讐は主のもの、復讐をするのではなく、隣人を自分を愛するように愛することを訴えています。そのベースにあるのは、今見ている5つの生贄に示された神様の愛にあるのです。

 

私たちは神様の愛があるから生きられる。希望がある。どんな事があっても最後まで残るのは、この神様の愛なのです。この生贄の話は複雑なのですが、それでも神様の愛は私達の知識を超えて内側に注がれる、溢れ流れさせて下さるのです。この愛をいただき生きる中で私たちは希望を得る、知るのです。神様の栄光を仰ぎ見るのです。

 

話は↑に進め、今日は和解の生贄になります。なんでそれが極上の愛なのか、誰の極上の愛なのか、見ていきたいのですが、この和解の生贄というのは厳密には「神様の恵みに感謝して捧げる生贄」という意味だそうです。

 

レビ記の一番最初に見た全焼の生贄との違いは、全焼の生贄は皮を除いてすべての部分が焼き尽くされるのに対して、今回の「和解のいけにえ」は脂肪と腎臓だけは火で焼き尽くされますが、肉の部分は祭司とそれをささげた人とその家族が分け合って食することのできるものです。まさに焼き尽くされるほど、燃えるほどに愛される神様くださった恵みを、私たちも共に味わわせていただける。ほんとうの意味での全焼の生贄はイエス様の十字架、これに尽きます。すべての罪の贖いとなられ、焼き尽くされた。私達の主にも何もかも。しかし、イエス様が復活なされた中で、私たちがイエス様を信じ受け入れる時、同じ復活の恵み、神様の子としての特権を分け与えられるのです。

 

もっといいますと、この捧げられる部分についてですが、内臓をおおう脂肪、内臓についた脂肪、そして二つの腎臓と肝臓の上にある小葉(脂肪)とをささげます。神様はなぜ脂肪の全部をささげるよう指定しているのでしょう。神様が決して脂肪が大好き、というわけではなく、脂肪は最上の部分だからなのです。適度に脂肪がある肉、脂ののった魚は美味しいように。この脂肪のもともとの意味は、そもそも「最も良い部分、選り抜きの部分、最上の部分、肥えたもの」を意味するのです。

 

選り抜き、最上、極上の愛を神様は示される。そもそも和解の生贄というのは、まず私たちが罪のための生贄(後の章で出てきます)を捧げて、赦され、その上で成立するものです。片方が赦して下さい、と言っても相手が赦してくれなければ和解は成立しません。神様は愛なんだから何をしてもいいでしょう?どうせ赦されるんでしょう?などと侮った関係がどうして極上の愛で結ばれた関係になり得るでしょう。

 

罪を悔い改める、ということはごめんなさい、で終わるのではなく神様に立ち帰るのです。強制的に召使いのように戻されるのではなく、先程の神の御子イエス様の命にあって帰ることを赦された、「和解させられた」、させてくださったのです。その生贄として御子イエス様を十字架にかけてまで、あなたに本来回復された極上の愛、極上の恵み、極上のみ心を表したいのです。あなたは神様がどれだけあなたを愛して、その愛を現そうとされているか知っていますか?神様の愛は実行が伴う、しかも命がけの愛です。

 

パウロはその手紙にこのように書いています。いくつかピックアップしますね。「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」と。神様はあなたが返ってくることを何より喜ばれるのです。その喜びがあなたに溢れる、分かち合われるのです。何という幸い。

 

また、こうも書かれています。「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」と。この喜びが平和を作り、それだけではなくあなたをきよめられ、あなたの傷は癒やされる。もはや罪あるものとして非難されるのではなく、神様の子として喜び受け入れられるのです。

 

私たちは御子イエス様が和解のための生贄となられてまでなそうとされる、極上の愛、御心にどれだけ信頼しているだろうか。イエス様?信じて何になる?じゃない、宗教じゃない。神様は御子イエス様の極上の愛をあなたにも分け与えてくださる。今日私達はこの極上の愛に生かされ歩もうではありませんか。

 

この世界って本当に凄い設計ですよね。

少しでもずれていたら私たちは生きることができないくらい。地軸の角度一つとっても、人間の構造一つとっても。

 

この世界は神様が創られた。

信じられないかもしれませんが、神様はことばによってこれらの全てを創られた。

何とすごいこと。しかもすべてを6日で。

この神様があなたを招いておられるということを忘れてはいけない。

 

ということで今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージ(聖書入門礼拝)をシェアさせていただきます。良ければ聴いて下さいm(_ _)m

 

創世記1章1−5節

「これですべてが決まるのです!」

 

 

あらゆる問題には、3つの解決法があります。

受け容れるか、

変えるか、

そのままにするかです。

 

もし受け入れることができないなら、変えなさい。

変えることができないなら、そのままにしておきなさい。

この勧めを聞くと、かのニーバーの“静謐の祈り”を思い出しますね。

 

それにしても、人生の問題はかくも多様にして複雑なのに、神様の解決法のなんと単純明快なことよ! 

 

そして勧めの後半にあるように、この解決法は、どれか1つだけで変更不可能なものではありません。まずは1つ目、黙ってそのまま受け容れる。一度はそう思っても、どうしても納得できないなら、2つ目、受け入れられるものに変えればいい。そしていよいよ変更不可能と分かったら、3つ目、そのままにしておくのです。

 

3つ目は、少々投げやりのように思えますか? いいえ、1つ目、2つ目があなたの意志による選択なら、3つ目は、実は“神様に働いていただく”という選択なのです。本当に不思議なことですが、物事があなたの手を離れると、神様は誰か他の人を用いて、ちゃんと収まるところに収めてくださるのです!

 

どうぞ忘れないでください。この3つとも、背後で総合コントロールしておられるのは、全能の神様だということを―。

 

そして安心してください。どんな問題も(時には、人間的には“ひどすぎる”と思うような問題も)神様のお許しなしには起こりません(ヨブ記1章)。そして神様は、あなたの意志と決断を用いて、それがかなわないときはご自身が人を動かされて、必ず最善に導いてくださいます。それが、あらゆる問題の、”神様流”解決法なのです。

 

ー小川政弘さん(元ワーナー・ブラザース映画会社の製作室長)ー

 

昨日の投稿(1つ↓)で、贈り物の捧げ物・穀物の捧げ物について見ましたが、

何かを捧げたら、それが何になるのか。しかも高価なもの?

でも最も高価な神様への贈り物、捧げ物は、神様への悔い改め。神様に立ち帰る。

これを委ねてどうなる?違う、神様が全てを働かせて益としてくださる。あなたのために全てをなげうち、最も高価な添え物、穀物の捧げ物、イエス様を十字架にかけ、死なせるほどにあなたを愛された方が。

恐れず、この最高に愛される、捧げ尽くされる神様に委ねよう。