とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

人にはそれぞれに名前というものがあります。聖書によると、なんと神様にも名前があるというのです。

 

モーセ(かつてイスラエルの民がエジプトの奴隷として400年近くとらわれていた時に、神様が彼らを助け出すための器、リーダーとして選ばれた)が神様の名前を尋ねると、神様は「わたしは『わたしはある』という者である。」(出エジプト記3章14節)と言われました。なんとも不思議で、他では聞いたことがない、変わった名前…

 

私たちは一人ではここに存在しえない。私たちを創られた神様がいるから存在し得る、このあってあり続ける方が今日支えてくださっている。あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださったほどに愛される神様が…

 

という事で今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よければ聴いてくださいm(__)m

 

出エジプト記3章9-14節

「発表!私の神様の名前は…」

 

 

聖書「出エジプト記」神の名前

 

 

ネガティブな生き方をしながら、

ポジティブな人生を期待することはできません。

 ~ジョイス・メイヤー~

 

 ジョイスのひと言は、鋭く的を射ていますね。

 

本質的にネガティブな人はネガティブな人生を送るし、ポジティブな心で生きればポジティブな人生を楽しめます。そうでなければ、ジョイスが挙げたような結果は、決して期待することはできないのです。

 

このことを、イエス様は元になる木(心・性質)とその結ぶ実(結果として手にするもの)として例えました。

 

「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:17-20)

これはある意味、自分は変わらないで、人からいい対応を求めることにも似ています。それをさらに一歩進めて、自分自身の人生への期待として述べたのが、今日の言葉です。

 

人は誰でも、ポジティブな人生を求めますが、その人生は、あなたの一日一日の生き方にかかっています。その集大成があなたの人生なのです。あなたの日々の生活の中に起こる出来事は変わりません。変えられるのは、それに対するあなたの対応の仕方、心の持ちようです。諦め、怒り、失望、落胆などのネガティブな心で出来事に向かったら、自暴自棄、無気力、悲嘆などのネガティブな結果しか生み出しません。けれど、ポジティブな心で受け止め、しっかりと立ち向かうなら、そこから希望、忍耐、勇気、乗り越える知恵などのポジティブな結果が生まれます。

 

そのカギは、「信仰」です。全ての出来事は、神のベストプランの中で起こっていること。神様は脱出の道を備えておられること(Iコリント10:13)、そして全てを働かせて益としてくださること(ローマ8:28)を信じる心です。

 

信仰は、人の心のうわべではなく、そのコア(核心)を変えてくれるものです(ローマ12:2)。あなたの心が、感情も、意思も、全てが信仰によってポジティブにつくり変えられるとき、神様は、祝福のポジティブ人生を約束してくださいます。善なる神様は、あなたに最善以外の人生は備えておられないのですから――。

 

You can’t have a negative attitude and expect a positive life. – Joyce Meyers

(解説:元ワーナー・ブラザーズ映画会社の製作室長)

 

私もこのことばをよみ考えさせられます。

神さまにはできないとか、そういうネガティブさではなく、自分にはできないけど、神様にはできる、弱さの内に完全に働かれる神様、神様の最高のポジティブに変えて下さる事を期待したいものですね。

 

ローマ8:28 信仰の力でポジティブ人生

「愚かな息子は父のわざわい。妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。」

箴言19章13-18節

 

私たちのいのちは、あなたのいのちは偶然できた、存在するものではない。両親から、と言えばそうなのですが、しかしいのち、あなたという人は神様がそのいのちを与えてくださったから、今生きているんです。偶然このからだになったのでもなく、神様が組み立て、神様が良い計画をもって今日まで養い導いて下さっていたのです。何もない、誰も見てくれていない、助けてくれない、そんな風に思う中にあっても神様がその恵みの雨を、愛を、御心を現し、支え、こうして今私たちは生きているわけですね。それは過去だけではなく、これからもです。こんな方がいるなんてなんという望み、希望でしょう。父なる神様は愛するわが子、私たちのいのちを保ちたい、その思いを今日も注ぎ続けて下さっているのです。この愛ゆえに、私たちが死ぬことがないよう、私たちの負うべき罪の報いも痛みも全部御子イエス様に背負わせ、身代わりに罰して死なせてでもあなたを救う、愛し抜かれることを決断、実行されました。これだけの愛がどこにあるか。今日私たちはこの神様に希望を抱き歩もう。今日もこの方の恵みの雨が私たちを潤して下さっているから。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された箴言・神様からの知恵のことば・いのちのことば、そしてこれを受けてソロモンが書き残して私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちの生涯に良いものを注いでくださっているんですよね。それは両親、そして子供、またその家庭、学校、職場、友人関係、地域…。神様を恐れるってびびるとか、そういう事ではなく、この方をその場の主人と言いますか神様とすること、その神様にへりくだる中で、この神様の素晴らしい愛が、御力が、御業が溢れるのです。神様はあなたを蔑まず良いもので満たそうといつもその御手を伸ばされている、あなたはどうですか?と問いかけられているわけですね。

 

その神様はソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けてさらにその知恵について、いのちのことばについて、「愚かな息子は父のわざわい。妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り」と語られ、ソロモンもこの知恵のことばを書き残します。ここでは家庭について、神様の知恵が示されていますね。家族の中が平和であることを。いや、もっと言うとこのありかたというのは私たちの置かれている場所、地域、友人関係、学校、会社、どこででもこの考え方は言えると思います。

 

それでこの箴言の最初のことばですが、確かに息子さん(娘さんでも同じ)が何かをやらかすと父親もダメージを受けることがありますよね。うちも、兄の起こした問題で父親が移動(左遷)させられたこともありましたし。ただそういうレベルの話で終わらず、父親、いや母親にとってもそうですがそれは心の痛みを伴います。自分の立場がどうなること以上に。また奥さん(旦那さんでも同じ)の起こすいさかい、争いや不和は、たとえそれが小さなことと思える事でも、伴侶や子どもの心を消耗させ、徐々にそれが雨漏りが家を浸透していくように、生活全体を不安定にしてしまう。雨漏りというのは本当に厄介なもので、すぐに家の大きな崩壊をもたらすわけではありませんが、放っておくと家を傷め、住む人の心を疲れさせます。

 

そのようなことがあってはいけない、そう訴えるわけですね。ただ、そんなことを言っても現実完璧な人はいないし、完璧な家族なんてない。だから夫婦喧嘩はだから仕方ないよね、子どもが何かしても子どもなんだから仕方がないよね、とかそういう話を私はしたいわけではなく、じゃあ問題の雨漏りを放置していいの?という話になります。それに、ここでは父親には何の責任がないような書き方になっていますがそんなことはありません。むしろ重要な役割を果たしています。もちろん父親が亡くなってしまった家庭、シングルの家庭など現代色々ありますから、父親だけが、というわけではありませんが。

 

パウロが私たちの新しい助け主なる聖霊様に導かれ、私たちの助けとして導かれ書いた手紙の中で「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。…私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』…それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」と、私たち人は不完全である事は知っている、だからこそ家庭の在り方についてこうして勧めます。夫婦、そして子供、そしてこの続きの箇所で、これがベースとなって仕事などの話に発展していくのですが。これ、本当に大切なことなので覚えていていただきたいです。

 

それで、そのためにまず、神様は全てのかしらは夫でもなく妻でもなく、もちろん子どもを好きなようにさせるのでもなく、イエス様がかしらなんだよ、と示されているわけですね。奥さんも、旦那さんも、もちろん子どもも、かしらなるイエス様により頼む。イエス様が私たちを愛してくださった、私たちを神様の家族から捨てられることがない様に、ご自身のいのちを身代わりに差し出し、十字架に架かられ死なれた、そこまでしてでも私たちを救われた、取り戻された、これほどの愛のイエス様を愛する、委ねる、そのことを勧めるわけです。

 

自分たちが頭になって、神様が働こうとすることを邪魔する、伴侶を押しのけて好き勝手に家を改造するのでもなく、これほどまでに愛され、私たちを救い癒そうとされたイエス様の知恵を求める。その中でかしらなるイエス様がこの家を建て上げてくださるのです。その神様の祝福が子どもたちに、家庭全体に、雨漏りじゃない、恵みの雨で、愛でいっぱいにしてくださる、そこに神様の業が溢れるのです。あいつはだめだ、こいつはだめだ、じゃなく、もともと不完全な私たち人の内に、家庭の内に、ここから話を発展させていきますが、仕事場や学校、友人関係、地域に働いていき変えられていくのです。憎しみや争い、そうしたものではない、新しい神様の創造、回復へと。

 

それを人の思いで壊したり諦めてはいけない。むしろここにあるように、互いに愛しあう、その中に神様の愛が働くんだよ、そう訴えるわけですね。イエス様も、互いに愛し合うことを何度も勧められましたし。自分を裏切り罵る者たちのためにさえ、その罪を背負われ十字架に架かられたほどの完全な愛が。そのイエス様の愛を、御業を諦めてはいけませんね。互いに進め愛、愛し合う、赦し合う、イエス様の愛に帰っていく、知恵に帰っていく、私たちのいのちを取り戻して下さったイエス様による回復を何より願う。その時、家庭も、地域関係も、仕事や学校でもどんなところにも、全てのかしら、つくり主なる神様の御業が溢れる、これを期待せずに諦めて、何に期待したらいいのでしょう。神様の創造の業、癒し、再創造、これに私たちは期待しよう。主の訓戒の御前にへりくだり、神様のくださる幸せを求めよう。

 

たとえどんなにつらい時であっても、「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕え」る、その中で神様からの報いが確かにそこに現されるから。

 

さらに↑で「家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの」と語られていますが、確かに家や財産は先祖から代々受け継ぐもの、ですが、それらはすべて神様が創られたところ、与えられたもの。その神様の祝福を私たちに受け継がせていただける、なんと幸いな話。神様は良いもので家庭や置かれている場所を満たしたい。でもそれを受け継ごうとしなければ何の意味もない。思慮深い妻(夫もそう)は主からのもの、と言いますが、まさに神様からすべての良いものは与えられ、そこから家も、遣わされている場所も建て上げられていく。この神様から受け継ぐといいますかいただく財産で、良いものでいっぱいに「神様が」してくださるのです。

 

私たちは本来神様からそんな良いものを受け継がせていただけるに値しないものでした。神様を神様とせず、好き勝手に歩んで、それこそ自分が神なんだといわんばかりに歩み。しかしそんな私たちを神様は見捨てず、御子イエス様を私たちに与えてくださったのです。しかしそれでも自分の思う通りにならないイエス様を否定し、ついには十字架に架けてしまった。それは昔の話ではなく、私たちもこの罪のためにかけたのです。しかしそれでもイエス様は私たちを見捨てず、神様のくださった命を失った私たちをもう一度回復させるため、この傷も痛みも思い煩いも、何より罪も一切身代わりに背負われ、十字架に架かられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによってこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、和解させていただき、神様の子として迎え入れてくださる。このかしらなるイエス様の家に私たちは住まわせていただける、生きさせていただいているのです。

 

私たちはこのイエス様をかしらとして今日も生きよう。「怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない」と語られているように、私たちは神様に委ね信頼することに怠惰になって諦めて寝ている場合ではなく、目を覚まし、この神様の御業を待ち望もうではありませんか。私たちを死からいのちへ引き上げてくださったこの神様が守ってくださる、保ってくださるのだから。困っている人にも祈りの手、助けの手を閉ざすのではなく、この望み、希望を私たちも持ち続け、語る者であろう。仕えるものであろう。そこには神様の御業がなりここにいのちが溢れるから。わたしたちはどこまでも頭なるイエス様、命をかけて愛されたイエス様の愛によって癒し、回復が起こる事を信じ求めようではありませんか。

 

家族と十字架、施しに報いる神

 

 

濃密な一日、あっという間に一日が過ぎた、などという言葉をよく聞きます。

逆に今日の一日は疲れた~しんどかった~というようにも。

つまり、その一日はあなたの内側をしめる何かによって変わるのです。

 

あなたの内側は今日、何が占めていますか?

 

でも神様の恵み、愛を、神様は溢れさせたいのです。
 
神様の一日はこの世の千日に勝ります。そのこの世の千日に勝る恵みを神様はあなたの今日の一日にあらわしたいのです。逆にこの世の千日であるかのような苦しみは、神様が一緒に1日の様に過ぎ去らせてくださります。一緒に戦い進んでくださります。

 

イエス様は十字架で死なれるほど、よみに降ることさえ惜しまないほどにあなたを愛されているのですから。今日、このイエス様の愛で満たしていただこう、御心で、平安を祈り求めようではありませんか。今こそ神様の栄光があらわされるように…

 

神様の与えてくださる恵みに満ちた濃密な一日を喜びを持って歩ませていただこう。

あなたの内に占める苦しみなど一切を主の前におろそう。主が休ませ、また変えて下さりますから。

 

神様と共にある一日と千年の恵み

私たちには様々な苦難や苦しみがあります。

何で神様はこれを放置されるの?と疑問に思う時があるかもしれません。

私も時々あります。

 

でもそれを放置される神様ではないし、私たちの悲しみや痛みだけではなく、プライドや罪、様々なものを脱がせていただき、新しい衣を神様は御子イエス様にあって私たちに着せてくださるのです。だからこそ…

 

 

わが魂よ、あなたのひれ伏す場所を拒んではならない。そこは、王衣をまとうための更衣室である。いにしえの偉人たちに、その繁栄の糸口はどこにあったかを問うてみよ。彼らは、『それは、かつて私がひれ伏した冷たい地にありました』と言うであろう。

 

アブラハムに問うてみよ。

彼はモリヤの山における供え物を示すであろう。

 

ヨセフに問うてみよ。

彼は牢獄を示すであろう。

 

モーセに問うてみよ。

彼はナイル川における危機を語るであろう。

 

ルツに問うてみよ。

彼女は自分の労した畑に記念碑を建ててほしいと言うであろう。

 

ダビデに問うてみよ。

その多くの歌が暗い夜の経験から生まれたことを告げるであろう。

 

ヨブに問うてみよ。

彼は神がつむじ風の中からお語りになったことを思い起こさせてくれるであろう。

 

ペテロに問うてみよ。

彼は海の上で主に従った経験を、喜んで語るであろう。

 

ヨハネに問うてみよ。

彼はパトモス島における経験を告げるであろう。

 

パウロに問うてみよ。

彼は、自分の受けたインスピレーションは、その目を打って見えなくした光のゆえであると言うであろう。

 

さらにもうひとり、「人の子」に問うてみよ。

『世を治める力をどこから得られたのですか』と。彼は答えるであろう。

『それは、わが身を伏せた冷たい地、ゲツセマネです。私はそこで王権を与えられたのです』と。

 
わが魂よ、あなたもゲツセマネの経験によって、美しい花の冠を受けることができる。あなたが避けたいと願う杯こそ、やがて天国で与えられる冠となる。孤独の時はあなたに冠を与え、悲しみの日はあなたにとって大きな喜びとなる。あなたの砂漠はあなたを歌で満たし、沈黙の森はあなたと手を取り合うであろう。危険、暗黒、敗北、死が私たちの目の前に迫ってくるとき、全能者に向かって絶望の叫びをあげるなら、光と安全、勝利といのちへの救出の冠がもたらされる! この絶望における訓練を受けることにより、私たちは、力強い救い主を知るようになる!

ー「人生の訓練」V・レイモンド・エドマン著ー

 

ゲツセマネで祈るイエス

「思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける。偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者は滅びる。愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと。人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、その恵みは草の上に置く露のよう。」

箴言19章9-12節

 

私たちは色んな中で生きています。家庭、学校、会社、地域…そうした中で一生懸命になるのも大事なのですが、自分自身をまず大切にする、愛することを忘れてはいけません。このいのち、神様から与えられたものなのですから、その時間の過ごし方、健康、色んな面で自分を大切にする、愛さないと、神様から与えられている大切な部分が欠けてしまう。何より神様は私たちをご詩人のイメージに似せてつくられ、最高傑作とされた素晴らしい存在。それを汚したり、傷つけたりするなんて。時には自分が嫌になるような事あってあるかもしれない。どうにもならない、と感じる時もあるかもしれない。そんな時は私たちを創られた、愛してくださっている父なる神様に帰ろう。神様はあなたを癒し救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった、そんな神様の愛があなたを包んでくださる。そしてそのあなたからさらに周りへと豊かないのちが溢れ流れていく。今日、改めて神様の愛を受けながらこの与えられた命、もう一度見かえしてみませんか?そしてこの神様の愛でいっぱいにしていただき、間対日に一日歩みたいものです。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け語られ示された箴言、知恵のことば・いのちのことば、そしてこれを受けソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちに良い思慮を得てほしい、と神様からその愛を、御心を溢れ流れさせてくださっているんですよね。どこにあるのか分からないのではなく、確かにその源に神様がおられ、神様から私たちを良いもので満たそう、着飾らせようという確固たる意志が注がれ、その御心を神様は行ってくださっているわけですね。神様が私たちをはじめに愛してくださっている、この神様との初めの愛、その関係にいつも帰りたいですね。ここに確かに愛がある。確かな神様がおられる。

 

その神様はソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けてさらに「思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける」と語られ、これを受けてソロモンもこの知恵のことばを書き残します。

 

「自分自身を愛する者」というとあまりよく聞こえないかもしれないですが、実はイエス様は最も大切な教えは何ですか?とある日聞かれた時に、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」と教えられました。この2つの命令自体は旧約聖書の時代と言いますか、イエス様が人となってお生まれになる前の時からずっと神様から語られていた事、「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである」と、神様が私たちの幸せを願って語られた律法など、それは結局この3つの愛に集約するんだよ、と仰られていたわけです。

 

形だけ誰かに従うふりをする、愛しているふりをする、そういうのではなく、まず神様を愛する事、そして「自分自身を愛する」、そのように「あなたの隣人(私たちの苦手な人も、ですよ?)を」愛する、この3つの愛に生きること、その中身に神様の幸せが私たちを満たされるんだよ、そう仰られるわけですね。何より神様は私たちを幸せにしたい、幸せに生きてほしい、そういう思いで溢れていることを忘れてはいけませんね。この3つの愛の関係の中に。神様と、人と、私たちの周りの人たち、家族、友達、学校、職場、地域、そうした中で神様の愛を現されることで。そう、全ての中心、主は神様、この神様の愛が溢れ流れ、いのちを、幸せをもたらして下さるのです。希望的観測ではない、確かにおられる、生きておられる、この天地万物を創られ、私たちをつくられ、いのちを与え、今日もすべてを保持し、また養ってくださっている神様が。

 

そういう意味では↑の「思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける」ということばと、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」というイエス様の仰られる大切な第1の戒め、これは同じ何です。思慮を得る、ということは、自分を愛する者は、この神様を心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし神様を愛する。その中に神様の思慮が、英知が、愛が、御力が、素晴らしさが…もう、その全てが私たちに注がれ、私たちを保ってくださるのです。

 

ただ私たちは世の様々なものに影響を受けて、時に心を委ねて、状況にあきらめて、疲れて、心奪われてしまう。神様から愛された素晴らしい存在であるはずなのに。どうしてこんなことになったのだろう、そう思いたくなる時もあるでしょう。でもそんなものに私たちを支配させる、あなたをコントロールさせるなんてもったいない。神様はあなたに最高のものを与えたい、その神様から頂ける最高の愛を蔑ろにするなんてもったいないじゃないですか。神様はあなたに最高のいのちを与えてくださった、神様のイメージ通りに、神様に似せてつくられたのに、そんな素晴らしい私、あなたを奪わせるなんてなんともったいない話ではないですか。

 

私たちはこの神様の愛が日々の歩みの中に溢れることをどれだけ求めているでしょうか。私たちの健康だってそう、時間と言いますか神様から与えられた日々だってそう、罪やらそうしたものに奪わせてはいけない自分なら何でもできると思って、それこそソロモンのように神様を追い出すのではなく、神様の霊で満たされていく、そうしたらいったいどれだけ素晴らしいあなたになるだろう、あなたの日々になるだろう。神様の愛が溢れるなんて。その愛はさらに豊かに溢れ流れ、その流れるところは全てが生きるのです。

 

「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者は滅びる」といいますが、私たちの周りには偽りの証人と言いますか情報、証言が溢れている、いやそれが偽りかどうかさえ分からないほど今の時代は巧妙になっている。まやかしを吹聴されてもそれがまやかしかどうかさえ分からないくらい。でもそんなものによって、あなたが偽りの存在になってはいけない。神様があなたに注がれた愛から離れていって滅びに進んではいけない。むしろ神様は私たちの幸せを考え、愛するがゆえに、この偽りの支配から、罪の中から、疲れや思い煩い、痛み、まやかし、妄想したものから解放するため、神様は御子イエス様に私たちのこれらすべてを罪と共に身代わりに背負わえ、十字架にかけ、罰し死なせたのです。ありえない、でもそのありえないほどの愛、偽りではない本物の愛をここに実現させたのです。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る人に、神様はこの人は無罪です、と証言してくださり、解放してくださったのです、このイエス様をもって。そして本来あるべきあなた、本物のあなた、神様のイメージされた最高のあなたに回復させてくださるのです。

 

私たちは一体この神様の愛をどれだけ受け取っているでしょうか。神様があなたに注がれている愛をあなた自身大切にしていますか?これを用いていますか?神様の偽りではない本物の御国、愛、御心が溢れ広がっていく事をどれだけ願っているでしょうか?

 

「愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと」。私たちにぜいたくな暮らしはふさわしくない、というわけではありません。贅沢をどうせするなら、神様の愛、素晴らしさがあふれた贅沢さなら本当に素晴らしいですよね。奴隷が主人を支配する、神様を自分の召使のようにする歩みじゃなく、私たちが神様の御前にへりくだり、神様の素晴らしさを求める、そこに確かに神様の素晴らしさが現れるのです。

 

ソロモンは別の書簡で「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない」と書き残しています。

 

神様のなさることはどんな時でも素晴らしい、美しく輝かせてくださるのです。確かに私たちは神様の初めから終わりまで見ているわけではないから分からなく不安になるかもしれない。でも神様は天地創造のはるか前からおられ、今もおられ、これからもい続けて下さる神様、支え、養われる、その素晴らしさをすべての時に現して下さる、美しく輝かせてくださる神様なのです。だから私たちはこの神様の御前にへりくだり、神様の素晴らしさ、取って食べていいよ、と言われている一つ一つのくだもの、恵み、これをいただこう。そこに神様は幸せを見出させてくださるのです。神様のなさることは他の何かで付け加える必要のないほどぜいたくな素晴らしいものなのですから、私たちにとって。それほどの尽きることのない愛で私たちを神様は満たして下さるのです。それこそ御子イエス様のいのちを私たちに与えてでも、あなたに生きてほしい、そう願われた神様の愛で。

 

「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、その恵みは草の上に置く露のよう」。私たちは思慮をもち、神様の御心を祈りながら、この与えられた愛をもって生きよう、隣人に仕えよう。そこには人の怒りや何やらが引き起こすものではない、神様の恵みが、それこそ毎朝草の上に露が置かれているように、私たちの上に置かれているから。神様の御怒りではない、神様の赦しと愛が、イエス様のいのちにあって和解された神様の愛が、御心が現わされるなら、あなたは、あなたのいる場所は潤され、満たされる。私たちはもう神様から背負向け、背くような歩み方をやめよう。

 

パウロは「高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように」と勧めます。私たちはこの世の富と思えるものを追い求めるのではなく、頼りにならないものにのぞみを置くのではなく、私たちのために御子イエス様のいのちをもってすべてのものを豊かに与えてくださり楽しませてくださる神様にのぞみを置き、この方が築き上げてくださる日々、満ち溢れさせてくださる日々に大いに期待し歩もう。神様の与えてくださる日々をどこまでも愛し喜ぼうではありませんか。

 

箴言19:8 賢い人は自分を愛し、知恵を大切にする

お言葉に甘えて…

という言葉がありますよね。それは相手の善意から始まるのかもしれません。

 

でも、神様は私たちを本当の命に導く栄養、道をもって、御言葉をもってあなたを導かれます。

 

ある時イエス様が家に来られた時、二人の姉妹のうち一人は給仕に忙しくし、

一人はイエス様の足元で御言葉を聞いていました。

給仕している人の役割も確かに必要ですが、

イエス様がその足元で御言葉を聞いている人を責めはしなかったのです。

あなたに聴いてほしい、いのちを得てほしい、と願っているから。

イエス様のいのちの御言葉は私たちを養ってくださる、この方の足元にいつもひざまずき、養っていただこうではありませんか。イエス様はあなたが生きるためなら、これ以上ない愛を、ご自身のいのちを与えてくださってまで愛されたのですから。

 

お言葉に甘えるのも良いが、

み言葉に甘える方が遥かに良い。

ーとあるクリスチャンー

 

 

 

生き物に願望があるのは、願望を満足させてくれるものが存在しているからだ。

赤ん坊は空腹を感じる。それは、食べ物というものが存在するからだ。

アヒルの雛は泳ごうとする。それは水というものが存在するからだ。

もし私がこの世界では満たされない願望を抱いているとしたら、それは私が別の世界のために造られたという説明ぐらいしか成り立たないだろう。

ーC.S.ルイス(ナルニア国物語などの作者)ー

 

あなたの内側を何をもって満たせるでしょうか。

両親でさえ、完全にあなたを満足させることはできないですよね。

まあそんな満足「させる」という関係もどうかとは思いますが。

 

しかし、あなたの作り主なる神様は、あなたを魂の底から満たし、

あなたの底から命の泉をわき出でさせてくださります。

イエス様の命をもってあなたにすべてを与えてくださるのです。

これ以上何が、代わりになるでしょう。

今日、イエス様がくださるすべての恵みに心から感謝し、頂こうではありませんか。

イエス様が命をかけられた、それほどの愛によってあなたに最善をもって満たしてくださるから。

 

「財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される。偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。高貴な人の好意を求める者は多く、だれでも贈り物をしてくれる人の友となる。貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない。」

箴言19章4-7節

 

私たちは一人ではない、これはどれだけの励みになるだろう。人はどこかしらに属しているし、繋がっている。それは家族だったり、友人、地域社会、会社、学校…そして通ってきた中で出会った人たちとも繋がっている。でも何より私たちが忘れてはいけないのは、神様に繋がっているという事です。元気な時も、辛い時も、孤独に感じる時も、寄るべのない状態にあろうと、神様は私たちと共にいてくださる。あなたをつくられた、わが子の傍に、父なる神様がおられる。何よりあなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった、そこまでして救ってくださった神様が今日私たちの傍にいてくださる。私たちを死からいのちへ引き寄せてくださった方が。私たちはこの方から離れてはいけない。この方の道をどこまでも追い求めよう、離れることなくこの方のくださる恵みの内を歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された知恵のことば・いのちのことば・箴言で、これを受けたソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様の知恵は愚かではない、いつかは消え去るものやその価値が変わってしまうこの世のものではない、私たちを愛するゆえに現される知恵・御心、これが私たちの内に現されるわけです。神様の良いもので着飾らせたい、覆いたい、その思いでいっぱいなのがこのことばに込められていますよね。この初めなる神様がご自身のもとに引き寄せ私たちを守ってくださる、どんな時にもこの神様が御側にいてくださる、だから私たちも離れてはいけませんね、この神様から。

 

その神様はソロモンに向けて、そしてその彼を通して私たちに向けてさらに「財産は多くの友を増し加え、寄るべのない者は、その友からも引き離される」と語られ、またソロモンもこの知恵のことばを書き残します。

 

まあこのことばは良くも悪くも真実。人の富に人は集まってくる。儲かると思うすべに人はすがろうとする。でも、その「友」という人たちは本当に純粋な友愛を持ち合わせているのか、と言われたらそうとは言い切れないのが現実。一方で貧しい人や立場の弱い人からは、この人の傍にいても何の得もないだろう、とその「友」と呼ばれる人は近寄らない。

 

このことばを読んでいて思い返したのが、放蕩息子の話。イエス様が話されたたとえ話の中で、放蕩息子のたとえ話がありました。ある父親(神様を現している)に2人の息子がいたのですが、弟息子の方は「お父さん。私に財産の分け前を下さい」と生きている父に向かって言い始めたのです。後で兄息子に向かって父親が「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ…」と話すのですが、弟息子に神様は全ての良いものを与えていたのです。しかし彼はこんな神様の下さるものよりも、都会にはもっといいものがあると聞くし、そこで幸せになりたい、そう思って父親から財産を譲り受け出かけていきます

 

そこで彼は放蕩して湯水のように財産を使うのでした。その時は様々な友が彼に近寄ってきてその友のためにもきっとお金を使ったのでしょう。彼的には友と思う人もたくさんいたのでしょう。彼はもう何もかもうまくいって、自分は何でも持っている、思うが儘だ、幸せだ、そう考えていたのかもしれない。

 

しかし、何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めました。彼が共と思っていた人たちは誰も助けてくれなく、そしてついにその国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせるのでした。イスラエルでは豚は汚れたものとされていたのです。彼にとっては屈辱そのもの。それでも、彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、だれひとり彼に与えようとはしなかったのです。彼に近寄っていた友と言われる人は彼の友ではなく、彼の財産の友だったのです。

 

そこで彼は父の所には何もない、と思っていた中で実は父の所にはパンのあり余っている雇い人が大ぜいいる、それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ、という現実に気づくのです。何で自分ばっかりこんな目に合わなければいけないんだ、と父のもとにいる人たちを呪ったわけではない、彼は悔いたのです。この父のもとにこそすべてがあるんだ、と。そして彼は父に謝り雇い人の一人としてでも迎えてもらえれば、と思い、立って帰るのです。財産も使い果たした、こんな自分が赦されるはずがない、と思ったかもしれない。

 

しかしそんな彼を父は心配し、まだ遠くにいる彼を見つけ、走っていき抱き寄せ、彼が悔い改めのことばを言ったところで、「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と言って、雇人の一人として迎えるどころか、息子としての地位を回復させてくださったのです。自分勝手に離れていって好き勝手にして財産も使い果たした、そんな彼に神様が与えたのは最高級のものばかりだった。

 

神様は、私たちを良いもので満たして下さる。神さまには何もないじゃないか、といって私たちは様々な富や儲けになること、人、考え方に寄り添い、友となろうとする。でもその先に何があるだろう。むしろ神様は私たちを神様の子として引き寄せてくださる。どんなに世の中飢饉のように何もかも失われてしまうような状況になろうと、神様は変わらずその恵みを注がれるのです。神様が神様から離れ好き勝手に生きている私たちをそれでも、友と呼び、その私たちを我が子として引き寄せてくださる、その神様の家族の中に招いて、神様の良いもので着飾ってくださるのです。神様のごちそうが展開しているのです。

 

「肥えた子牛」とありますよね。これ、最も良いものなんです、神様にとって。そう、御子イエス様のいのちを私たちのために屠ってくださり、これを分け与えることで私たちを赦し、神様の子として迎えようとしてくださったのです。イエス様のいのちを引き裂いてでも、私たちに神様の良いものを食べてほしい、これを食べて生きてほしい、そう訴えるのです。聖餐式と呼ばれるものでもイエス様の御からだをパンとしていただくのですが、イエス様はこれを食べる時、イエス様のこの愛を覚えなさい、と仰られた。このイエス様のいのちから引き裂かれた一つ一つの神様の愛、私たちを友と呼んで下さり招いて下さった友愛、この愛が今も私たちに分け与えられている、これを取って食べて味わってほしい、そこにある神様の御心を味わってほしい、そう訴えるわけです。寄るべのない私たちを神様のこの御もとに引き寄せてくださっただけではない、このイエス様ご自身が私たちの寄るべとなり、このイエス様が私たちの内にこれ以上ない財産をもたらして下さるのです。もう何かを求めさまよう必要はない、ここにいのちがあるんだ、と。

 

神様は私たちを捨てない、見捨てられない、いつまでも神様を疑い自分の考える良いと思う財産、価値観を求め彷徨い歩く私たちを、それでもこうして迎え入れてくださる、何と感謝なことでしょう。私たちは本物の財産を求めているだろうか。どんなに友や周りが離れていこうとあなたを見捨てず、寄る辺のない私たちの拠り所となってくださったイエス様を私たちは今日どれだけ思っているだろうか。このイエス様と結ばれた友情関係の中に留まっているだろうか。

 

「偽りの証人は罰を免れない。まやかしを吹聴する者も、のがれられない。高貴な人の好意を求める者は多く、だれでも贈り物をしてくれる人の友となる」。これこそが正しいんだ、あなたの財産になるんだ、と吹聴する声もあるでしょう。ただ、私たちは、私たちのためにいのちを引き裂いてでも愛を告白し、また実行されたイエス様の声をどれだけ言いているだろうか。高貴なもの、自分にとってプラスになりそうな価値観、声、人の好意を求めてそうしたものの奴隷になるのではなく、私たちをむしろ友と呼び、子として迎え入れてくださった神様、この方が最高の贈り物をしてくださったことを忘れてはいないだろうか。大丈夫です。あなたを苦しめる様々な偽り、偽りの証人、まやかしを吹聴する者たちは神様が打ち砕いて下さる。だから私たちは本物の贈り物をしてくださった神様、友と呼んで下さる神様に帰ろう。

 

人がその友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はありません。この事をイエス様が実行されたのです。こんな神様から離れて好き勝手に生き、自分の都合、財産を追い求め生きている、そんな私たちを見捨てず、それでも友と呼び、この友のためにいのちを私たちの身代わりに捨ててくださった。偽りの中に生きる、神様を神様ではないと偽りの証人となりその罰を受けなければいけなかった私たちのこの罪も、思い煩いも、偽りの衣も全部脱がせ、身代わりに背負われたのです。そして十字架で罰せられ、死なれたのです。神様は私たちを見捨てるよりもイエス様を見捨て、死に渡してでも救いたかった。何の罪もないイエス様を。何と深く大きな愛だろう。ここまでされてでも愛し抜かれた神様の愛、イエス様の肉と共に裂かれたその愛がどれだけあなたにいのちをもたらすだろう。イエス様が3日目によみがえられた、この復活のいのち、死をいのちに変えられたこの神様の愛、御力が今日もあなたに注がれているのです。

 

「貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。彼がことばをもって追い求めても、彼らはいない」。どんなにあなたが憎まれようと、友たち、世から遠ざかられようと、このイエス様はあなたから離れない。あなたを兄弟と呼び、愛してくださった、いのちを惜しまなかったイエス様が近くにいる。

 

「しかし、正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む」。私たちを喜び楽しませて踊りたくなるほどに愛される神様を今日、求め、喜びの声をあげよう。主は今日もあなたのもとにおられ、その道を開かれ、導かれる。もう世の偽りに貧しいものではない、神様の愛に、財産に富んだもの、神様の愛が満ち溢れるその道をイエス様があなたの手を取り導いて下さっているから。かみさまはあなたをみなしごにしない。神様が栄えさせてくださるこの喜びに生かされ今日も歩もう。焦がされた地、悲しみの地を喜びの地に変えてくださる方が、あなたの貧しさを富に変えてくださる方が、どんなに世が見捨てても、離れてもあなたと共におられる主があなたと共に今日もいて、その御からだを割いてまで与えられる恵みが、愛が、御力が、この神様の全てがあなたに与えられ満たされるから。

 

箴言19章4-7節「イエスは私を友と呼ぶ」

 

人生で最もハッピーな時間の一つはね、

自分では変えられないものを、

えいやっと手放す勇気を持てた時なんだ。

~スヌーピー~

 

One of the happiest moments in life is when you find the courage to let go of what you can’t change. (Snoopy)

 

*私たちにはいかんともしがたいことが今の時代たくさんありますよね。

だから、自分でなんとかしないと、と思うのではなく、神様がいかんともしがたいことを最善へと変えてくださるのです。私達の心に喜びを与えてくださるのです。

握りしめて苦しむよりも、手放して委ね、私達の内側まで神様の愛で、目組で満たしていただこうではありませんか。