昨日の投稿で、
神様にどんなことでも相談していい、ということを分かち合わせていただきましたが、
神様はさらに、適当にあしらい、応える神様でもなく、真心をもって応えてくださる神様です。
だから私たちも心から祈り求めよう。
神様は喜んであなたに最善をもってご計画をなしてくださるから。
「真心をもって尽くされる神様、
常にあなたを信頼して従えるよう、
どうか助けてください」
「上を向いて歩こう」という曲は有名ですね。
これにMCをはさみながら、あるイベントで歌わせていただいたら、ご利用者様が涙を流し、ご家族様が感動されました。
別にそれを自慢するつもりはないのですが、どんなに私達の周りが塞がれているように見えても、上、神様があなたに向けて窓を開かれています。恵みは注がれています。
私達自身が目を塞いではいけない、壁を神様との間に作ってはいけません。あなたが神様に目を向けるとき、神様は喜んであなたに何かを見せてくださるから。何かを現してくださるから。
どうせ神様、なんて思わず、神様に大いに期待しましょう。御子イエス様の命さえ惜しまない神様があなたをどうしてぞんざいに扱われることがあるでしょうか。神様の愛は私たちには測れない。測り知れない神様の深い恵みを受けようではありませんか。
ということで、あるお母さんと息子さんの話。
あなたは今日神様から何を見せられましたか?何をいただきましたか?
「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。石は重く、砂も重い。しかし愚か者の怒りはそのどちらよりも重い。憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう。」
箴言27章1-4節
明日のことなど私たちには分からない。未来のことなんてわからない。もちろんだからといって無計画に一日一日過ごすのもあれですが、だから、ある意味では明日のことを心配して気に病む必要はないんですよね。そもそもの話、私たちが自分の力ですべてをコントロールすることなどできない。むしろ色んな人に支えられてその一日を完遂するわけです。いや、それだけではなく、むしろすべての主なる神様が私たちを支えてくださっている、養ってくださっている、その御手を働かせてくださり、その愛を、御心注いでくださっているから、私たちの一日は素晴らしいものにされるのです。愛するわが子に最高の一日を、日々を、と天の父なる神様はいつも支えてくださっている。それこそ、御子イエス様のいのちを私たちを救うためなら、と惜しまず与えてくださるほどに愛された方が。私たちはこの神様が与えてくださっている一日一日を、その中に注がれているすべての事に感謝しよう。神様の愛、驚くばかりの恵みが今日も溢れているから。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け語られ示された知恵・いのちのことば、箴言で、これを受けたソロモンが書き残し、さらにソロモンから約250年後、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、この神様のみことばこそ必要なんだ、と一言も変えずに書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様は適当なことを語らないし、行われない。真実な愛、御心をもって、その知恵をもって私たちを支えてくださっている。養ってくださり、守られている。どうでもいいものや、時間とともに変わるような者ではなく、いつか捨て去られるような者でもなく、とこしえに変わらない最高のものを私たちに現し、注いでくださっているわけですね。その素晴らしい神様の内に、その関係に私たちを招いて下さっている。神様が私たちを蔑まず、愛してくださっているなんてなんと素晴らしく感謝なこと。
そんな神様はその愛・御思いをソロモンに、またヒゼキヤに、さらに私たちに向けて示されたのですが、↑では「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって」と語られます。確かに私たちには明日のこと、今日のことさえ数分先に何が起こるのかなんてわからない。私も人の生き死にに関わる仕事をしているので、突然死を迎えた、本人もまさかそんな最後を迎えるとは思っていなかっただろう、という方を何人も見てきましたが、その通りなんです。分からないのです。それこそリフレッシュに旅行、ツーリングで行った先で突然事故にあったり…ともかく分からない。うまくいっていたと思っていたら倒産してしまったとかだってありあすよね。
まあ挙げたらきりがないのですが、別にこれは、だから明日のことを計画してはいけない、とか適当に生きていいとか、怠惰に生きればいいとか、そういう話ではないのです。まあずいぶん前に、ノストラダムスの大予言でしたっけ?あれをまともに受けて信じた人が、全財産をはたいてしまった、でも予言は外れたことで大変なことになった、なんて話がありますが。
そもそも一日一日は、神様から始まり、神様で終わる、と言いますか、また次の一日に神様が導いて下さるわけですね。この天地創造、世界の始まりからずっとです。天地そうぞのはるか前から、時間という概念がまだない時から神様がおられ、その方が歴史を開かれたのです。神様はその全ての始まりを、人に「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。…」とアダムに、またアダムからその子孫に、またモーセに語られました。まさにすべてを神様が初めすべての一日が始まり、また終わり、また次の一日へと続いていったのでした。そう、ある意味では神様の創られている時間の中に私たちは生きているわけです。そしてその中に神様の御業が成されている、それによって様々なことが起こっている。そこに神様の御業が流れ、この地を、私たちを潤し、その身を取って食べていいよ、と仰るのです。
だから、ここの箴言のことばは、予定をたててはいけないとか、そういうことではなく、誇るというこのことばの意味は「自慢する、誇りに思う」という意味から、明日を自分も今も自分のものと考えどうにでもできる、「自分の力で明日を支配できる」と考えることに対する注意、警告なわけです。
イエス様はある時、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。…それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。【たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。】』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」とたとえをもって話されました。
彼はそもそもその方策が神様から来ていること、神様がその天候を与え、実を実らせてくださったことを忘れていて、自分を誇った。これは自分の力で得たんだ、自分のものなんだ、もう自分の人生は花色だ。好き放題しよう、と。しかし彼のいのちは翌日取り去られてしまった。それは明日がどうなるか分からないから、蓄えること自体は間違っていない。貯金をして、貯蓄して。でもそれが目的になって正しく用いる、誰か困っている人のために助ける、そういうことはなかった。いやお金そのもの以上に、今神様が働かれているその一日一日をもっと用いることを求めなかった。神様などいなくてももう大丈夫、というその彼のいのちは、たとえ明日取られなかったとしても、神様の富、恵み、祝福、いのち、そうしたものが失われたものとなるわけです。
神様の蔵から注がれる雨、恵みが私たちを満たしていることを私たちは忘れてはいけません。神様が不足させることなどないのです。イエス様は「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」とも教えられましたね。
空の鳥さえ一日一日養ってくださっている、野のゆりさえいつもきれいに一日一日着飾らせてくださっている神様がいるじゃないか、と。私たちはそれよりも優れているんですよ?明日のことを心配したってそのいのちを引き延ばせるわけではない、けど、私たちの一日一日は、先にも申し上げましたように、神様が与え、支え、このように養ってくださっている、働いて下さっているのです。だから神様が与えてくださるすべてを、いや神様を第一に求める、その中に全ての第一、最高なる神様が、私たちに最高なもので満たして下さる。そういう意味で誇るべきはこの方のみです。この神様が私たちの明日を備えて下さる、今日を備えて下さる、満たして下さるのだから。神様の十分な愛で、全てで。
わたしたちはどれだけこの神様の与えてくださっている一日一日を喜んでいますか?楽しんでいますか?神様を求めていますか?何より私たちのいのちは、こんな神様を神様とせず好き勝手に歩んでいる、罪にまみれた私たちのために御子イエス様に身代わりにこれらの痛みや悩み、思い煩い、汚れ、罪、一切御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせてまで救い出され与えられたものだという事を忘れていませんか?こんな素晴らしい愛が、恵みが、いのちが、そこに込められた神様の計画、そのすべてが注がれているんですよ?こんな素晴らしいいのちを楽しまないでどうしましょう?それを豊かにしてくださる神様を求めずに誰を求めましょう?聖霊様が満ち溢れた日々を待ち望まずして何を待ち望みましょう。
イエス様の弟ヤコブは「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」と、手紙で書き送ります。明日のことなどやはり分からない。特にこの時代、ローマ帝国の支配や迫害によっていつ命が奪われるか分からない。実際多くの使徒たちが殉教しましたし。だから今、みこころならば生きる、すべきことを忠実にしよう、そう訴えるわけですね。霧のように消え去るような者を追い求めるのでもなく、神様の御心を楽しみ、神様の御心が成る事を求め、またそのように生きよう、と。むしろその霧のような中に神様の光が照らされた日々を。
世の中色んなものが溢れ疲れる。今日を生きるのだって精いっぱい。霧で先行きが見えないような日もある。でも、私たちはこのイエス様のいのちにあって新しいいのちを与えられたのです。このイエス様の御前に悔い改め立ち返り、この本物のいのちの日々を、一日一日生きよう。イエス様の愛、御心をが成ることを祈り、またこの愛を現し歩みたいものです。↑の最後にあるようなねたみや憤りに支配させたり、覆わせるのではなく、ただ神様の愛が溢れることを祈り、またこの愛をもって仕える、その中に主に素晴らしい栄光が現わされること、御業が成ることを信じ期待し歩もうではありませんか。
私たちはどこかで神という存在がいるのではないか?と感じる、
だからきっと求める。でもそれがどんなものなのか?誰なのか、意外に分からない。
どこかの宗教家(まあ日本では有名な宗教の、ね)は、「日本人は神がいないかもしれない、けどいるかもしれない。分からないからとりあえず頭をどこでも下げて祈るんだ」なんて言っていたのですが、知らない相手、どこにいるのかも分からない相手になんて祈れないでしょ。
ただ神様は、神様を知らずにいる私たちに神様を「知らせてくださる」。知識としてというよりも神様ご自身がその愛を現しながら、どんな時も。神様が初めにその愛を現し示して下さり、ご自身を知らせてくださる、体験的に。私たちが不安な時、どうしようもない時、元気な時、どんな時でも。いるかいないか分からないのではなく、初めからおられ、あなたを愛し支えておられる、あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださる方が。私たちは知識的に詩っているで終わっていませんか?本物の神様を求めていますか?もっともっとこの方との関係に深く入り、本物の愛に、この方が与えて下さった命に生きよう…
という事で今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よければ聴いて下さいm(__)m
Ⅰヨハネ手紙2章12-14節
「神さまを知っている人は手を挙げて!」
私たちの日々は、うれしいこともあれば悲しいこともある。楽しいこともあれば辛いこともある。そんな安定しない中だから、なかなかうまくいかない。
ユージン・ピーターソン氏はこう語ります。
私たちの信仰は、喜びに始まり、喜びに終わる。始まりと終わり、そしてその間のすべてが喜びである。喜びは神の創造物であり、神からの贈り物である。本物の聖書信仰であるなら、喜びに満たされないはずはない。
私たちは神様の私たちへの御心、1つ↓の投稿で、みこころというのは喜びをもつ、ということだよ、と申し上げましたが、神様の御心、喜びにサンドされ支えられている。その中に神様の喜びが満ち溢れ、その中に生きている。何よりそのあなたは神様の御心、喜びをもって創られた存在であり、その喜びを表すため、あなたを救い出すべく御子イエス様のいのちにあって救い出された。そんな神様の喜びが覆っている生涯、なんと素晴らしいこと。
私たちはこの神様の喜びが覆い、支えてくださっていることを忘れないでいよう。
この方を見上げよう。この方を喜びをもってお迎えし、この方との関係をいつも喜ぼう。
神様の喜びが満ち溢れることを信じて。
「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
エペソ人への手紙1章1-6節
私たちの価値、あなたの価値はどれくらいある、と自分で考えますか?結構人は自分をあえて低く見せるといいますか、変に謙遜になるといいますか、それでよく、「いえいえ、私なんて…」という言葉を使います。ただ一つ忘れてほしくないのは、あなたは神様によって創られた最高傑作だ、という事です。神様にとってあなたは喜びの存在なのです。喜びをもってつくられ、その喜び・愛を現したい。何と感謝なこと。そんなあなたを不安や痛み、悲しみ、何より罪を取り除くため、喜びで満たすためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどにあなたを愛されている。私たちはこの方に愛され、支えられ、生かされていることを覚えよう。何より私たちもこの神様を喜び歩もうではありませんか。
ということで、新約聖書の分かち合いシリーズ、前回まで使徒の働きを見ていましたが、ここからは、その最後の所でパウロがローマに到着し、監視付きながらも自宅である程度自由に生活できた、軟禁状態にあって各地に書き送った手紙(この段階で書いたエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙)を見て行きたいと思います。
それでエペソってどんなところよ、と思う方に向けて少しこの町について、またここで起こっていた出来事、そこにパウロがどうかかわっていたのか、使徒の働きで見ましたが、少し振り返りますと、まずエペソという町ではアルテミスという女神が祭られていました。それを彼らは拝んでいたのです。彼らは本物の神を知りませんでした。創造主を、彼らを創られた唯一まことの神様を。しかし、パウロがここで教会を建てイエス様を伝えていたアポロ、そしてパウロと共に天幕づくりをしていた、また彼を助けることになるアクラとプリスキラ夫妻と共に彼らに福音を語り、彼らは作りものの銀細工の神、神殿ではない、まことの神様、生きた、私たちを今も愛し働かれている、何より私たちを救うために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてくださってまで救われたイエス様を知った彼らはアルテミスから離れ、その模型も捨てました。そして聖霊様の働きに委ねながら歩んでいきます。
そんな彼らは実は黙示録という、イエス様が終わりの時について預言・語られた書簡の中で取り上げられていて、彼らは熱心すぎて初めの愛を忘れてしまう程熱心だった、と評価されます。教会に入り込んだ使徒と自称する人を見抜いたり。まあ初めの愛を忘れているのだから、もう一度初めの愛に帰ろう、悔い改めよう、とイエス様は仰られていたわけですが。
まあそんなエペソ教会に向けてパウロはこの軟禁状態にありながらも励ましの手紙を書き送ります。そしてその手紙は回覧されるように各地に巡り、今も私たちの手元に聖書の中に組み込まれ届いて励ましています。聖霊様に導かれ。
それでまずパウロは彼ら、また私たちに向けて「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように」とまず挨拶を書き送ります。神の御心、とありますが、「御心」というのは「喜びをもって」という意味があります。そう、神様が御心を行います、という事は、神様の喜びをもってそれを行う、という事なのです。その神様の御心ゆえに、喜びをもって恵みと平安があなたに注がれる、というのです。
パウロについて使徒の働きの分かち合いの中でも見てきましたが、彼はかつて神様を愛していると言いながら、神様が救い主として遣わされた御子イエス様を迫害、イエス様を信じるクリスチャンを迫害する者でした。教会初期のころのホープとされていたものの殺害にさえ加担するほど。そんな人に神様が恵みと平安を与える?普通に考えたらあり得ない話です。
私たちも神様から離れ歩み、好き勝手に生きる、神様に愛されていると知りながら自分の都合のいいように解釈したり生きたり。これは自分には合わない、今の時代の考え方と違うよ、と言って神様のことばや愛を捻じ曲げたり。そんな私たちに恵みと平安を受けるに値するのか?でも、神様ははじめに私たちを愛してくださったのです。まず神様は私たちを愛するゆえ、その恵みと平安を注ぎたい、神様の喜びをもって満たしたい、その思いゆえに、あなたが神様にとっての喜びの存在、神様がその手で最高傑作につくってくださった、その喜びの存在ゆえにあなたが苦しむ、平安のない、希望を失った、神様の本当のいのちを失ってしまった、そんな私たちを見て見ぬふりをできず、見捨てられず、そんな私たちを救うために、御子イエス様に私たちのこれらの問題、罪、一切を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。そこまでしてでも神様は私たちに喜びをもってあなたに平安を、恵みを注がれた、罪から解放し、いのちへ解き放たれた、神様の喜びの内に招かれたのです。
そう、私たちは神様の喜びの中に、恵みと平安の内に今住まわせていただいている、生かされている。私たちを支配するのは世の中ではない、世の様々な問題でもない、あなたを囲う様々な勢力、痛み、病でもない、このイエス様の喜びの中に、私たちは生かされているのです。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」とさらにパウロは手紙を書いていますが、世のレベルではない、天的な祝福、この世では決してもたらすことのできない、イエス様のいのちにかけてあなたを祝福すると約束されたわけです。祝福、何となくいいことがあるとかそういう話ではない、私たちが生まれる前からご計画されていた最高の神様のイメージ、聖く傷のない、最高の状態に神様はしたいのです。その神様をあがめる、見上げよう、そう私たちの目を神様に向けさせるわけですね。
私たちは目の前の状況、ある期間、時間に起こる事に目を向け心を痛める、でも神様はあなたをそうして祝福したい、永遠の昔から存在し、あなたの生まれる前からあなたにそのお心を、喜びの目を向けられていた、今も向けられ、あなたのために御子イエス様のいのちを惜しまない方があなたに目を向け、その喜びゆえに、御心を働かせてくださっているのです。
「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」。私たちは今やこの神様の喜びの内、神様の子として招かれたのです、イエス様のいのちという代価が支払われた事によって。私たちは今日、この私たちを愛してくださっている恵みを求めよう。この神様をほめたたえよう、見上げよう。主は喜びをもって今日もあなたを祝福してくださっているから。この方を待ち望もう。この方がイエス様にあって定められた最高の愛が成し遂げられることを信じ。傷やシミだらけのこの私たちを癒し、聖め、変えられるそのことを待ち望もうではありませんか。
音楽セラピーとか、音楽を通して様々なことが現代行われています。
コンサート云々だけではなく。
言葉にも音が伴いますよね。その言葉もまたあなたを励まします。
あることによりくるまいすせいかつになった榎本真実子さんは詩でこのように残しています。
「音」
不安だと 音にまみれてでもいないとやっていけなくなる。
でも 本当に不安だと 音の中にいても音が感じられなくなる。
自分が誰なのかさえわからなくなる。
そんな時 あなたがいてくれてよかったと思うんだ。
〜光 在り続けるもの〜
そのあなたはあなたの周りの人かもしれない、でも神様があなたを一番知っておられ、あなたが暗闇の中にいようとも光を照らし、脱出させてくださるのでsy。
励まし力づけ、一緒に栄光の元、愛へと導かれる。命をかけてまで愛されたイエス様の愛があふれる場所へ。
あなたは神様のみ声という音を今日、聴いているでしょうか。
「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。気が狂った者は、燃え木を死の矢として投げるが、隣人を欺きながら、『ただ、戯れただけではないか』と言う者も、それと同じだ。たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちでは欺きを図っている。声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現われる。穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く。」
箴言26章17-28節
私たちは人とのかかわりの中で生きています。本当はみんな仲良くできればいいのでしょうけど、人それぞれ思うこと、自分の利益を考えるなどしているので、なかなかうまくいかない。自分が正しい、間違っていない、だから私の言うことを聞け、とかね。よく考えるとそんな場面、あっちこっちにありますよね。ただ、それでも臭いと言われようが、もし互いに愛をもって語り合うなら、仕え合うなら、神様の愛がそこに溢れるならどれだけ素晴らしいことだろうか、と思う。イエス様はどんな時でもその愛を現され、こんな人に愛を現す必要があるの?と思う人にまでその愛を届け、注がれた。触れられ、癒された。語られ、導かれた。何より私たちを救うためなら、と私たちの身代わりに全てを背負われ、十字架に架かられ死なれるほどに愛された、こんな愛が溢れるならどんなに素晴らしいことだろう。この神様の愛を求め生きるなら。私たちはこの神様の愛を求めよう、私たちの歩む一歩一歩の内に。そこに神様の平和がある事を願い。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて示された知恵のことば、いのちのことば・箴言で、これを受けたソロモンが書き残し、それをさらにソロモンから約250年後、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、これをすべての人に知ってほしいと願い、一言も変えずに書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様は遠くで眺めているだけの方ではなく、私たちとかかわりを持ってくださっているんですよね。まず神様がその知恵と言いますか、愛からくる御心を私たちの内に現して下さる、それによってあなたに、私たちに生きてほしい、幸せになってほしい、そう願って語られ、また導かれる。また励まし、力づけ…。私たちを神様は我が子と呼んで下さる、天の父なる神様は私たちを見捨てず、蔑むのではなく愛してくださっている、この愛なる神様を忘れてはいけませんね。
そんな神様は、その愛を、御思いをソロモンに、またヒゼキヤに、さらに私たちに向けて示されたのですが、↑では「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ」と語られます。まあ、こういう方、結構いますよね。特に現代社会では、見えないから、と自分には関係ない人を、自分の見聞きした知識だけで、自分の正義をかざして裁き、ネットで叩きまくる人。それを表現の自由だ、と言って注意されても受け入れなかったり。これが怖いのは、裁くだけ裁いてその内容に対して責任を取らない、やばいと思ったら削除してごまかそうとする、でもどんなに削除しても相手を傷つけた、という行為、事実は変わらない。もちろん法律もだいぶ整備されてきましたから、やり過ごすなんてことはできなくなりましたが。まさに、「通りすがりの犬の耳をつかむ」、その結果噛まれた、そんなところでしょうか。もしくはその責任を負うことになってしまったか。
話は逸れましたが、これを読んでいると、じゃああまり人とかかわりをもってはいけない、争いに対して解決を一緒にしようとかしてはいけない、ということ?と思いたくなりますが、ここで、「自分に関係のない争いに干渉する」とありますね。「関わり」ではなく、「干渉」と。干渉、というのは助ける、というよりも首を突っ込む、ということです。もっというなら、好奇心や正義感の自己満足、その自分の感情や好奇心から動く、それが干渉です。そんな好奇心や自分の自己満足のために困った問題を抱えている方や、トラブル状態にある人に望まれてもかえって混乱を招くだけです。本当にあるべき道に彼らを進める(勧める)ことができず、その首を突っ込んだ人自身が反抗うされたり、その責任を取ることもあり得る。そして神様の恵みを知らずに魂の部分で痛い目を見る。
ただ、明らかに問題がある、困っている人がいても、無関心に黙っているのもまた違います。そう、どういう動機で関わるか、これが大事です。だって神様は私たちを、誰かとの関係に生きるようにつくられたわけです。アダムとエヴァ、そしてその子供、またその子供、そうしてコミュニティが生まれ、そのコミュニティのかかわりの中で生きていく。互いに助け合う。そう、ただ好奇心で干渉するのではなく、互いに「愛し合う」という神様の大切な命令、神様を愛すること、また自分自身を愛するように隣人を、自分の苦手な人も含めて愛する、これ以上に大切な命令はない、と仰られたイエス様。ただ好奇心や自己満足で望むのではなく、その人を愛するという思いをもって関わる、そこに神様の素晴らしい愛、恵みが、御業が溢れるわけです。どんなに自分が正しいと思うことを言ったって、押し付けたって、そこに愛がなければうるさいドラと同じなのです。
パウロも、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と、その人とのかかわりの本質を語ります。
彼は迫害され、仲間と思っていたものに逮捕されたり、殺されそうになったことも何度もあった、それでもそんな彼らと共に喜ぶものとともに喜び、悲しむ者と一緒に泣くように、とそれでも進めるのです。高ぶらず、かえってへりくだり、自分を知者とは考えず、悪に悪をもって報いるのではなく、「全ての人に」よいと思うことを図り、自分に関する限り、「全ての人」と平和を保つように勧めました。それは、彼自身も本来神様から見捨てられてもおかしくないほど離れ、イエス様という救い主をいただいても迫害していた、そんな自分を悲しみ、喜びに引き上げてくださったイエス様のかかわりを思って書き残したのでしょう。イエス様の愛がすべてを変える。全ての動機、行動、愛の基はこのイエス様から始まるのです。
イエス様はいつも「干渉」ではなく「関わり」・関係の中に生きました。5人の夫がかつていて、悲しみの中に沈んでいた、希望を見いだせずにいた、社会からも差別をされていた女性のところに行き、彼女を責めるのではなく、その本質的な悩み、希望、神様にある希望を届けた。彼女に何か物を与えたわけではない、でもこのイエス様のふところに入りながらも愛を届ける中で、彼女は希望を見出し、変えられた。その喜びは町中に広がり、変えられていきました。
また、姦淫の罪でつかまえられた女性、彼女を捕まえた人たちは彼女を罪から、苦しみ悩みから助け出そうとするのではなく、裁こうとしていた、いやイエス様をだまし討ちにするためにつかまえてきた。でもイエス様は律法にしたがって彼女を石打にして殺すのではなく、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と、彼女を捕まえてきた、干渉し、面白がってみていた人たち、こいつは悪い奴だから死ぬべきだ、と言っていた人たちに向かっていったのです。そう裁くあなたはどうなんですか?と。もちろん彼女の罪がある以上はそのまま、というわけにはいかない。イエス様は罪がないから投げる権利はあった、でもそれをせず、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と仰られたのです。もう元の生活に変えるのではなく、悔い改め、罪から離れよう、と。彼女の本来投げられ罰せられなければいけなかった石は、死は、イエス様が負うから、引き受けるから、と。そうして罪人から神様の内に、和解に招かれた、神様との関係、家族に招かれたのです。
もう挙げたらきりがない、イエス様はそれほど多くの人と「干渉」ではなく、愛をもって「関わ」ってこられたのです。私たちを関係ないものとして無視するわけでもなく、神様との関係に招くためにどこまでも愛を現されたのです。周りの目を気にするのではなく、この人が神様の恵みを受けられるように。事故の主張ではなく、ただ神様の御心を行った、その中に神様の愛が、いのちが溢れかえられていったのです。イエス様の願うところは、私たちがこの神様の愛を受け取る、この神様の愛の中に生きる事。そのためならと、私たちが本来負うべき全ての罪、思い煩いや痛みもすべて含め、身代わりに背負われ、十字架に架かられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえらされたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる、神様の家族とされる、無関係に見捨てられてもおかしくない私たちが赦され受け入れられる、何と感謝なことだろう。この愛が溢れ広がるならどれだけ素晴らしいだろう。私たちの干渉がこれにどうして勝る事ができるでしょうか。
「気が狂った者は、燃え木を死の矢として投げるが、隣人を欺きながら、『ただ、戯れただけではないか』と言う者も、それと同じだ」と↑で語られていますが、ちょっとくらい、これくらいいいでしょ、でかき乱してどうしましょう。むしろそのちょっとで傷つく事よりも、神様から離れる、罪の中にいるままよりも、神様の愛によって変えられていったら最高じゃないですか。神様の戯れどころか、この神様の究極の愛が溢れるなら。死の矢はいのちへ変えられる。あなたの投げかける言葉、行動、聖霊様の声を聞いてそれに委ねた言葉・行動の内にこのイエス様の救い、大いなる愛が働かれ、その御心が現わされていくのです。
「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちでは欺きを図っている。声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現われる。穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く」。私たちはこの神様の愛を、愛の炎を灯し、届けるものであろう。偽りの、うわべだけの態度や争い、罪ではなく、神様の愛、平和を語る者に。神様を愛し神様の愛を求める者に。世にこびへつらうのではなく、偽りに心奪われるのではなく。イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」と教えられた。私たちは争いではなく、神様の愛を語り、どこまでも現すものでありたいものです。