「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって。石は重く、砂も重い。しかし愚か者の怒りはそのどちらよりも重い。憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう。」
 
  箴言27章1-4節
 
   
 
  明日のことなど私たちには分からない。未来のことなんてわからない。もちろんだからといって無計画に一日一日過ごすのもあれですが、だから、ある意味では明日のことを心配して気に病む必要はないんですよね。そもそもの話、私たちが自分の力ですべてをコントロールすることなどできない。むしろ色んな人に支えられてその一日を完遂するわけです。いや、それだけではなく、むしろすべての主なる神様が私たちを支えてくださっている、養ってくださっている、その御手を働かせてくださり、その愛を、御心注いでくださっているから、私たちの一日は素晴らしいものにされるのです。愛するわが子に最高の一日を、日々を、と天の父なる神様はいつも支えてくださっている。それこそ、御子イエス様のいのちを私たちを救うためなら、と惜しまず与えてくださるほどに愛された方が。私たちはこの神様が与えてくださっている一日一日を、その中に注がれているすべての事に感謝しよう。神様の愛、驚くばかりの恵みが今日も溢れているから。
 
   
 
  さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け語られ示された知恵・いのちのことば、箴言で、これを受けたソロモンが書き残し、さらにソロモンから約250年後、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、この神様のみことばこそ必要なんだ、と一言も変えずに書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様は適当なことを語らないし、行われない。真実な愛、御心をもって、その知恵をもって私たちを支えてくださっている。養ってくださり、守られている。どうでもいいものや、時間とともに変わるような者ではなく、いつか捨て去られるような者でもなく、とこしえに変わらない最高のものを私たちに現し、注いでくださっているわけですね。その素晴らしい神様の内に、その関係に私たちを招いて下さっている。神様が私たちを蔑まず、愛してくださっているなんてなんと素晴らしく感謝なこと。
 
   
 
  そんな神様はその愛・御思いをソロモンに、またヒゼキヤに、さらに私たちに向けて示されたのですが、↑では「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって」と語られます。確かに私たちには明日のこと、今日のことさえ数分先に何が起こるのかなんてわからない。私も人の生き死にに関わる仕事をしているので、突然死を迎えた、本人もまさかそんな最後を迎えるとは思っていなかっただろう、という方を何人も見てきましたが、その通りなんです。分からないのです。それこそリフレッシュに旅行、ツーリングで行った先で突然事故にあったり…ともかく分からない。うまくいっていたと思っていたら倒産してしまったとかだってありあすよね。
 
   
 
  まあ挙げたらきりがないのですが、別にこれは、だから明日のことを計画してはいけない、とか適当に生きていいとか、怠惰に生きればいいとか、そういう話ではないのです。まあずいぶん前に、ノストラダムスの大予言でしたっけ?あれをまともに受けて信じた人が、全財産をはたいてしまった、でも予言は外れたことで大変なことになった、なんて話がありますが。
 
   
 
  そもそも一日一日は、神様から始まり、神様で終わる、と言いますか、また次の一日に神様が導いて下さるわけですね。この天地創造、世界の始まりからずっとです。天地そうぞのはるか前から、時間という概念がまだない時から神様がおられ、その方が歴史を開かれたのです。神様はその全ての始まりを、人に「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。…」とアダムに、またアダムからその子孫に、またモーセに語られました。まさにすべてを神様が初めすべての一日が始まり、また終わり、また次の一日へと続いていったのでした。そう、ある意味では神様の創られている時間の中に私たちは生きているわけです。そしてその中に神様の御業が成されている、それによって様々なことが起こっている。そこに神様の御業が流れ、この地を、私たちを潤し、その身を取って食べていいよ、と仰るのです。
 
   
 
  だから、ここの箴言のことばは、予定をたててはいけないとか、そういうことではなく、誇るというこのことばの意味は「自慢する、誇りに思う」という意味から、明日を自分も今も自分のものと考えどうにでもできる、「自分の力で明日を支配できる」と考えることに対する注意、警告なわけです。
 
   
 
  イエス様はある時、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。…それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。【たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。】』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」とたとえをもって話されました。
 
   
 
  彼はそもそもその方策が神様から来ていること、神様がその天候を与え、実を実らせてくださったことを忘れていて、自分を誇った。これは自分の力で得たんだ、自分のものなんだ、もう自分の人生は花色だ。好き放題しよう、と。しかし彼のいのちは翌日取り去られてしまった。それは明日がどうなるか分からないから、蓄えること自体は間違っていない。貯金をして、貯蓄して。でもそれが目的になって正しく用いる、誰か困っている人のために助ける、そういうことはなかった。いやお金そのもの以上に、今神様が働かれているその一日一日をもっと用いることを求めなかった。神様などいなくてももう大丈夫、というその彼のいのちは、たとえ明日取られなかったとしても、神様の富、恵み、祝福、いのち、そうしたものが失われたものとなるわけです。
 
   
 
  神様の蔵から注がれる雨、恵みが私たちを満たしていることを私たちは忘れてはいけません。神様が不足させることなどないのです。イエス様は「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」とも教えられましたね。
 
   
 
  空の鳥さえ一日一日養ってくださっている、野のゆりさえいつもきれいに一日一日着飾らせてくださっている神様がいるじゃないか、と。私たちはそれよりも優れているんですよ?明日のことを心配したってそのいのちを引き延ばせるわけではない、けど、私たちの一日一日は、先にも申し上げましたように、神様が与え、支え、このように養ってくださっている、働いて下さっているのです。だから神様が与えてくださるすべてを、いや神様を第一に求める、その中に全ての第一、最高なる神様が、私たちに最高なもので満たして下さる。そういう意味で誇るべきはこの方のみです。この神様が私たちの明日を備えて下さる、今日を備えて下さる、満たして下さるのだから。神様の十分な愛で、全てで。
 
   
 
  わたしたちはどれだけこの神様の与えてくださっている一日一日を喜んでいますか?楽しんでいますか?神様を求めていますか?何より私たちのいのちは、こんな神様を神様とせず好き勝手に歩んでいる、罪にまみれた私たちのために御子イエス様に身代わりにこれらの痛みや悩み、思い煩い、汚れ、罪、一切御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせてまで救い出され与えられたものだという事を忘れていませんか?こんな素晴らしい愛が、恵みが、いのちが、そこに込められた神様の計画、そのすべてが注がれているんですよ?こんな素晴らしいいのちを楽しまないでどうしましょう?それを豊かにしてくださる神様を求めずに誰を求めましょう?聖霊様が満ち溢れた日々を待ち望まずして何を待ち望みましょう。
 
   
 
  イエス様の弟ヤコブは「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」と、手紙で書き送ります。明日のことなどやはり分からない。特にこの時代、ローマ帝国の支配や迫害によっていつ命が奪われるか分からない。実際多くの使徒たちが殉教しましたし。だから今、みこころならば生きる、すべきことを忠実にしよう、そう訴えるわけですね。霧のように消え去るような者を追い求めるのでもなく、神様の御心を楽しみ、神様の御心が成る事を求め、またそのように生きよう、と。むしろその霧のような中に神様の光が照らされた日々を。
 
   
 
  世の中色んなものが溢れ疲れる。今日を生きるのだって精いっぱい。霧で先行きが見えないような日もある。でも、私たちはこのイエス様のいのちにあって新しいいのちを与えられたのです。このイエス様の御前に悔い改め立ち返り、この本物のいのちの日々を、一日一日生きよう。イエス様の愛、御心をが成ることを祈り、またこの愛を現し歩みたいものです。↑の最後にあるようなねたみや憤りに支配させたり、覆わせるのではなく、ただ神様の愛が溢れることを祈り、またこの愛をもって仕える、その中に主に素晴らしい栄光が現わされること、御業が成ることを信じ期待し歩もうではありませんか。
 
   
 
  