(物語)
クトゥーゾフは鶏の蒸し焼きをやっとかじりながら、嬉しそうに目を細めてヴォリツォーゲンを見ました。
ヴォリツォーゲンは、小馬鹿にしたような薄笑いを口元に浮かべて、クトゥーゾフの前に歩み寄り、軽く手を軍帽のつばに当てました。
ヴォリツォーゲンは、クトゥーゾフに対していくらか勿体ぶったぞんざいな態度を取っていました、その態度は、自分は教養の高い軍人だから、この役にも立たぬ老人を崇拝しているような態度を取っているが、このロシア人の老人が何者かくらいはちゃんと心得ているのだ、と言う事を目的としたものでした。
『老旦那(ドイツ人仲間では、クトゥーゾフをこう呼んでいました)、のんびり構えているな』と、腹の中でせせら笑って、ヴォリツォーゲンはじろりとクトゥーゾフの前の皿を睨むと、バルクライに命じられた通りに、そして自分も現実に見て理解した通りに、左翼の状況を老旦那に報告し始めました。
「我が陣地の全ての地点が敵の手に落ち、もはや奪回する術がありません、だってもう軍隊が無いのですから。兵達は潰走し、留める可能性はありません。」と彼は報告しました。
クトゥーゾフはむしゃむしゃ噛んでいたのを止めて、怪訝そうにヴォリツォーゲンに目を見張りました。
ヴォリツォーゲンは、老旦那の動揺を見て取り、微笑しながら言いました。
「私は、この目で、見た事を閣下に隠す権利は無いと考えておりますので。。軍は完全に崩壊しました。。」
「貴官は見たのか❓。。」と、クトゥーゾフは顔を険しくしかめ、いきなり立ち上がると、ヴォリツォーゲンに詰め寄りながら叫びました。
「よくも貴官は、、不遜極まる❗️。。」と、震える両手で掴みかからんばかりに脅し、彼は叫び立てました。。
「よくもそんな事を、このわしに言えたな。貴官は何も知らんのだ❗️わしからの言葉としてバルクライ将軍に伝えよ。将軍の報告は間違っておる。現実の戦況は、彼より、総司令官たるわしの方が知っておる、と。」
ヴォリツォーゲンが何かを言い返そうとしましたが、クトゥーゾフは遮りました。
「敵は左翼で撃退され、右翼で粉砕された。貴官は良く見極めていなかったら、知らん事は言わんものだ。バルクライ将軍の元へ帰って、明日敵を攻撃するわしの固い決意を伝えたまえ。」と、クトゥーゾフは厳しく言いました。
一同は沈黙していました。
いきり立った老将軍の苦しそうな息づかいだけが聞こえました。
「至る所で撃退しとる、それでわしは神と我が勇敢な将兵に感謝しとるのだ。敵は敗走した、そして明日はロシアの神聖な国土から敵を追い払う事だ。」と、十字を切りながらクトゥーゾフは言いました。
ヴォリツォーゲンは、『老旦那のこの狂的な石頭ぶりに』呆れて、肩をすくめ黙って脇の方へ離れて行きました。
「おや、来たな、わしも大好きな英雄」と、その時丘に登って来た、丸々太った髪の長い美男子の将軍に、クトゥーゾフは言いました。
それは、朝からボロジノの戦場の主要な地点を頑張っていたラエフスキイでした。
ラエフスキイは、我が軍はそれぞれの陣地を死守しており、フランス軍にはもう突撃の気力が無い、と報告しました。
それを聞くと、クトゥーゾフはフランス語で言いました。
「では、君は、他の連中のように、我が軍は後退せねばならんなどとは思わんのだな❓」
「それどころか閣下、勝敗の帰趨の分からぬ戦闘で、最後の勝者となるのは、頑張りぬいた方です。」と、ラエフスキイは答えました。「それに、私の意見では。。」
「カイサロフ❗️」と、クトゥーゾフは副官を呼びました、「ここに座って、明日の命令を書きたまえ、それから君は。。」と、彼は別の副官に顔を向けました。
「陣地を回って、明日は攻撃だと伝えて来たまえ」
ラエフスキイとの話や命令の口述が行われているあいさに、ヴォリツォーゲンがバルクライの所から戻って来て、元帥が与えた命令の、文書による確認を求めるというバルクライ・ド・トリーの言葉を伝えました。
クトゥーゾフは、ヴォリツォーゲンには目もくれずにその命令の筆記を命じました。それは、元総司令官が、個人的責任回避の為に、それを求めるのは極めて当然の事だったからでした。
そして、軍の士気と呼ばれ、戦争の主要な原動力をなしている同一の気分を、全軍に伝播させる言い難い神秘的な経路を伝って、クトゥーゾフの言葉と、明日の戦闘命令は、分のあらゆる隅々にほとんど同時に流れ渡りました。
決して、そのままの言葉、そのままの命令が、この経路の末端に伝わった訳ではありませんでした。
しかし、彼の言葉の意味は、正確に伝わりました、というのは、クトゥーゾフが言った事は、難しい考慮から流れ出たものではなく、総司令官の心の中にあり、そして1人1人のロシア人の心の中に等しくある、同一の感情から流れ出たものであったからでした。
そして、明日は敵を攻撃する事を知り、疲れ切って気持ちがぐらついていた全軍の兵士達が、苦しさを忘れ、心得を奮い立たせたのでした。
ーーーーー
(解説)
クトゥーゾフが、今回の会戦にちょっと手応えを感じて昼食を摂っていた所へ、前の総司令官バルクライ・ド・トリーの側近ヴォリツォーゲンが、バルクライの『この戦いはもう負けです。』という進言を持って現れます。
この人達は、ドイツ人ですが、ロシア軍に勤務しているのですね。
たぶん、彼らは、バルクライが総司令官の座を追われた事についてちょっと不満を持っていたと思いますね。
ロシア人の将軍や士官達の目から見た戦局とは、全く違う意見を進言するのですね。
クトゥーゾフが、この進言を受けて降伏しようものなら、今回の敗戦の責任はクトゥーゾフが負う事になります。
彼らは、『その結果』が見たいのであって、この戦闘がロシア国にとって重大な意味を持っているという事には全く無関心なのですね。
老練なクトゥーゾフは、そんな事はすっかりお見通しです。
それに、今まで報告してきたロシアの副官や将軍の表情などから、彼は、『この戦闘は勝戦になる』と確信しています。
そこへ、朝からボロジノの戦場の主要な地点を頑張っていたラエフスキイが、クトゥーゾフの元にやって来ます。
彼はクトゥーゾフの問いに対して「勝敗の帰趨の分からぬ戦闘で、最後の勝者となるのは、頑張りぬいた方です。」と元気に答えます。
この返答に力を得たクトゥーゾフ は、全軍に『明日は攻撃だ』と伝えます。
この命令は、即座にロシア軍の隅々にまで行き渡りました。
ロシア軍の士気は最高潮で、ロシア兵全員が『ロシア国土からフランス軍を追っ払ってやる❗️』という意気込みが漲っているのですね。
それは、総司令官クトゥーゾフの心境と完全に一致するものでした。











