(物語)
軍団も将軍達も以前と同じ、先頭の準備も同じ、作戦命令も同じ、完結で精力的な布告も同じでした。
彼はむしろかつてよりも遥かに経験に富み、戦術にも長じている事を知っていました。
それに敵も、アウステルリッツやフリードラントの時と同じ敵でした。
ところが気負い込んで振り上げた腕が、世界中から恐れられた腕が、魔法にかかったように力無く垂れてしまったのでした。
常に変わる事無く勝利の栄冠に飾られて来た、あの同じ全ての戦法、1点への集中砲撃も、戦線突破の為の予備隊の突撃も、『鉄人』を誇る騎兵隊の突撃もーーこの全ての戦法が既に試みられましたが、勝利が得られなかったばかりか、あらゆる方面からもたらされるのは、将軍達の負傷と戦死、増援の要求、ロシア軍撃退の不能、味方の混乱したと言う報告ばかりでした。
これまでのどの戦いに於いても、2度か3度の命令と、2度か3度の激励の言葉を与えると、元帥達や副官達が顔中を笑いにして、祝福の言葉を持って駆けつけ、戦果としての捕虜、砲門、輜重車。。などの報告だったのにもかかわらずでした。
今回は、彼の軍に何か不思議な事が起こっていました。
突角堡占領の報告を受けた時、ナポレオンはこれはこれまでの全ての戦闘で起こった事とは全く別のものだ、という気がしました。
彼が覚えたと同じ気持ちを、戦争経験の深い周りの全ての将軍達も感じている事を、彼は見ていました。(ボーセだけが、事態の意味を理解出来ませんでした。)
戦法を尽くし、あらゆる力を注ぎ込みながら、なお勝利を決定づけられぬと言うものが、何を意味するか熟知していました。
彼は、これが敗戦というものである事を知っていましたし、今やこの会戦はどちらへ揺れるか紙一重の事態であったしーーごく微細な偶然が彼と彼の軍を破滅させる事を、知っていたのでした。
彼は頭の中で、ロシアに侵攻してからの2ヶ月というもの、勝利を収めた戦闘が1度も無く、1棹の軍旗も、1門の砲も、1部隊の捕虜も捕獲していませんでした。
この奇妙なロシア戦役を仔細に思い返し、周りの将軍達の避けるような暗い顔を目にし、ロシア軍は依然として頑強に抵抗を続けているという報告を耳にするとーー夢の中で覚えた恐怖感に似た感じが彼を捉えました。
これまでの会戦に於いては、彼は成功の偶然ばかりを思い巡らせていましたが、今は無数の不幸な偶然が彼の頭に浮かんで来ました、そしてその全ての訪れを彼は覚悟していました。
ロシア軍がフランス軍の左翼を攻撃しているという報告が、ナポレオンの胸にこの恐怖を呼び起こしました。
彼は黙って丘の下の床に腰を下ろし、頭を垂れていました。
ベルチエが側へ来て、状況を確認する為に戦線を視察する事を提言しました。
「そうだな、馬の用意を命じてくれ。」彼は馬に乗ってセミョーノフスコエ村へ向けて出発しました。
ナポレオンが馬を進めてゆくと、一面にゆっくり流れ散って行く硝煙の切れ目からーー血の海の中にバラバラに、あるいは固まり合って倒れている人馬の姿が見えました。
これほどの凄惨な光景を、ナポレオンも、その将軍たちもまだ見た事が有りませんでした。
10時間もぶっ通したのに鳴り止まぬ、耳を苦しめ抜いた砲声の轟が、この光景に特別の意味を与えていました。
ナポレオンは、セミョーノフスコエ村の高地へ登りました、すると硝煙の切れ目に見慣れぬ色の軍服の兵士達の隊列が見えました、それはロシア軍でした。
ロシア軍は、セミョーノフスコエ村と丘の後方に密集隊形を組み、その砲が絶えず唸り、その陣地線を煙で覆っていました。
戦闘はもはや有りませんでした、そこに有るのは、ロシア軍をもフランス軍をもいかなる結果に導く事が出来ぬ連続的殺戮のみでした。
ナポレオンは馬を止めて、さっきベルチエに破られたあの瞑想に沈みました。
彼は、彼の前方で、周囲で繰り広げられているこの戦闘、彼に指導され、彼の意志にかかっていると思われたこの戦闘の進行を停止させる事はもはや出来ませんでした。
ナポレオンの元に馬を飛ばして来た将軍の1人が、敢然(かんぜん)と旧近衛師団を戦闘に注ぎ込む事を進言しました。
ナポレオンの側に居たネイとベルチエは、目を見交わしてこの将軍の愚かな進言を鼻の先でせせら笑いました。
ナポレオンは頭を垂れて、長い間黙して居ました。
「フランスから3200キロも離れた所で、余の近衛を壊滅させる事は出来ぬ。」と、彼は言いました。
そして馬首を返して、シェヴァルジノへ向かうのでした。。
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(解説)
はい。あのナポレオンがボロジノの会戦に今までとは違う感触を感じている事を述べた部分ですね。
ナポレオンは、今までの戦闘に於いて、連戦連勝だったのですね、しかもそのやり方も人員もほとんど同じだったのです。
同じように攻めているのに、しかも相手方の左翼は脆弱になっており、ここに主要な部隊を投入すればひとたまりもなく落とせるはずだったのですね。。
ところが、ロシア軍の粘りは、今まで経験した事が無いものでした。
ロシア軍は、今までの負け戦で、戦闘というものが『消耗戦』で有り『忍耐と気力』が肝要だと言う事を勉強し、ましてや戦場は自国ですからね、愛国心をはじめとする精神的基盤が非常に強かったのですね。
ナポレオンは、ロシア軍にそんなエネルギーが有ったという事を理解できていません。。
そういえば、ロシア侵攻してから、ロシア軍は後退ばかり続け、特に戦闘に勝ったということもなければ、捕虜の一人、砲の1問さえ確保した訳では無かったのですね。。
トルストイ先生によると、これはロシア軍の計画ではなく、偶然そうなってしまった、と言うことですが、準備が無いままに世界最強のフランス軍と対峙する事の危険性は大いに察知していたとは思われます、それは一連のアウステルリッツなどで学んだのですから。。
だから、ロシア軍は、ロシア軍としての作戦以前の定石として、無為に交戦はしないとは思っていたと思います。
それが、ナポレオンの判断を狂わしたのかもしれませんね。
ナポレオンは、もう9月(西暦では)という秋になりかかっているので、早く決着を付けてフランスに帰りたかった。。という深層心理もあったと思います。